バス停で落ちた先は巨大ゴーレムの足元
かつて、人間は天に届く塔を建てた。
神は怒り、世界を七日間焼き祓った。
そして神は消えた。 ――だが、神が遺した災厄だけは、いまだこの世界を蝕み続けていた。
*
「明里、早く起きなさい! 模試なんでしょ?」
(え、もう朝……。もう少し寝たかった)
眠い目をこすりながら制服に袖を通し、階段を降りた。テレビからいつものフレーズが流れてくる。
「今日のいってらっしゃーいクイズです」
母は茶碗を片付けながら耳を傾けている。このクイズ、いつも母と競っている。
「問題です。地動説を最初に唱えた人は誰でしょう」
「簡単よ。ガリレオ・ガリレイよ。命がけで地動説を言った人よ」
母が得意げに話しかけてきた。
「違うよ。最初に唱えたのはアリスタルコスよ」わたしは食い気味に言葉を被せた。
言い争っているうちに、テレビから答えが聞こえてきた。
「今日は引っかけ問題でした。正解はアリスタルコスです」
「え? 『それでも地球は動いている』って明言残したじゃない」母が不満そうに言い返す。
「最初に言ったのはアリスタルコス。ガリレオじゃない。アリスタルコスが言ってガリレオが証明したみたい。積み重ねなんだから」
母は聞いてるのか聞いてないのか、へえ、と気のない返事をした。
(理系は『なぜ』を考えるのが好きなだけなんだけどな)
「あ、そうだ。最近このあたり、物騒な痴漢の噂が多いからこれ持って行きなさい。お守り代わりよ」
母がそう言うと、エプロンのポケットから、どこか気の抜けたデザインの防犯ブザーを差し出してきた。
「もう、子どもじゃないんだから……。大丈夫だよ、それにダサいし誰かに見られたら笑われる」
「ダメ。備えあれば憂いなし、でしょ? 女の子なんだから、ちゃんと持っていきなさい」
「はーい」
わたしは気の抜けた返事をして母に従った。
プラスチックの塊を受け取り、ブレザーのポケットへ押し込んだ。
急いで身支度をし、玄関に向かう。いつもの母の「行ってらっしゃい」をあとに、足早にバス停へ向かった。
日がしらじらと明けてきた。時計を確認する。 (まずいな、ちょっと家出るの遅かったか) わたしは走り出した。家から五分程度の先にバス停がある。
角を曲がった瞬間、青い車体が見えた。 (あっ) もう停留所に着いている。鞄を抱え直し、全力で駆けた。
息を切らしながら全力で走った。あと、少しで間に合う。バスのステップが見えた。
無機質な発車音がピィィィと鳴った。今まで静かだったバスがブロロロ……と鳴り出した。(……まずい)
無情な音を立ててドアが閉まる。エンジン音が鳴り、わたしを見てないかのように走り出した。あんなに急いで走ったのに。
ハァハァハァハァ、と息が切れて胸を押さえながら屈む。
影が異様に長く伸びていた。「朝なのに?」と思った瞬間、泥濘にはまるみたいに沈み込んだ。
腰まで沈み込んだ。動けば動くほど深く沈む。近くのガードレールにしがみついたが、吸い込まれるように落ちていった。
わたしは黒い空間に放り出された。どっちが上か下か判らない世界に。落ちている感覚だけがあった。
*
どれほどの時間、落ちていただろうか。不意に、世界の底が抜けた。
「きゃあ……!?」
衝撃で地面を二、三度バウンドし、泥と砂にまみれながら転がる。
「痛っ……ゲホッ、ゲホッ!」
肺から無理やり空気を絞り出され、激しくむせる。視界を覆うのは、地球のそれによく似た青空。けれどのんびり眺める余裕なんてない。
すぐ目の前で、何かが激しく爆発し、火花と土煙が容赦なく降り注いでいた。
(な、何!? なにごと!?)
パニックになりながら、直撃を避けるために本能的に這いつくばる。ふと、頭上が急激に暗くなった。太陽の光が遮られ、巨大な影がわたしを包み込む。
その「影の主」へと視線を跳ね上げた。
ゴツゴツとした岩を積み上げたような、歪な石の塔――いや、十メートル、二十メートルと視線を上げていき、心臓が凍りついた。
それは塔ではない。岩のパーツが噛み合い、悍ましい太さでそびえ立つ、人間の「脚」だ。
ズゥゥン。地鳴りが響く。巨大な石の脚が、大気を震わせて一歩を踏み出した。見上げる遥か高所、雲に届きそうな巨軀の頭部で、意思を持たない結晶の目が鈍く発光している。
「嘘……でしょ……」
あまりに異質な迫力に、足が竦んだ。
生きた巨石の怪物――ゴーレム。
しかも、おとなしく眠っているわけじゃない。その巨腕は、誰かを叩き潰そうと凶暴に振り下ろされている最中だった。わたしは、戦場のど真ん中に落ちてしまったのだ。
凄まじい衝撃波と土煙が、容赦なくわたしの身体を吹き飛ばす。
「痛っ……!?」
地面をごろごろと転がり、ブレザーもスカートも一瞬で泥まみれになった。頭が混乱して追いつかない。模試に向かうバスに乗り遅れて、影に沈んだと思ったら、なぜこんな爆発音が飛び交う荒野にいるのか。
「なんだ、あの服は!?」
「おい、ガキ! 早く逃げろ!」
後方から、複数の切迫した怒号が聞こえてきた。視線を向けると、奇妙な鎧やマントを身にまとった集団――『討伐隊』らしき人影が、武器を構えてこちらに走ってくる。
「おい、ガキ! 何突っ立ってやがる、早く逃げろ!!」
叫ばれて、頭では分かっている。早くここを離れなければ、次にあの拳が降ってきたら確実に肉片にされる。
だけど、身体が言うことを聞かない。
(動いて、お願いだから動いて……!)
必死に念じても、膝がガクガクと震え、地面に張り付いたように一歩も持ち上がらなかった。生まれて初めて直面する本物の命の危機に、脳の防衛本能が完全にセーフティをかけてしまっている。
ゴーレムが再び、その巨大な影をわたしの上に落とした。今度こそ、踏み潰される。
「チッ、仕方ねぇな。先制して攻撃封じるぞ」
討伐隊の一人――『煉』が舌打ちした。男はゴーレムの足元へ向かって片手を突き出し、鋭く叫ぶ。
「――『ウォーターボール』!!」
男の咆哮とともに、何もない空間に巨大な「水の塊」が出現した。それは凄まじい質量を持った弾丸となり、ゴーレムが踏み出そうとしていた「軸足の膝」へと一直線に激突する。
激しい水飛沫が荒野に咲き乱れる。いくら岩の身体とはいえ、前傾姿勢になった一瞬の隙、ピンポイントで関節を撃ち抜かれたゴーレムの巨躯が、びくりと不自然に硬直した。
重力のバランスが、完全に崩れる。
ギギギ、ギチチチ……!
岩と岩が噛み合い、悲鳴を上げるような摩擦音が響く。見上げるほど高かったゴーレムの頭部が、信じられないほどのスローモーションで、ゆっくりと後ろへ傾ぎ始めた。
「あ……」
わたしは震える足のことも忘れ、ただその光景を呆然と見上げていた。空を遮っていた巨大な「壁」が、重力に引かれて遠ざかっていく。
数秒の後、大地そのものが跳ね上がるような凄まじい地響きが世界を揺らした。背中からひっくり返ったゴーレムの巨躯が、大量の土煙を巻き上げながら、荒野のど真ん中に激しく叩きつけられたのだ。
凄まじい暴風が吹き荒れ、わたしの制服のスカートを激しくなびかせる。あまりの質量がもたらした衝撃に、地面がまるで地震のようにしばらく波打っていた。
巨石の怪物が崩壊し、乾いた荒野に無数の岩がバラバラと転がっていく。その瞬間、討伐隊から「やったぞ!」と歓喜の声が聞こえてきた。
さっきの男が真っ先にわたしの方に向かってきた。
「なんであんなとこに出てきたんだよ。お前、何者なんだよ?」
「知らないわよ! バス停にいたら影に飲まれたの!」
「バス停?」
言い合いになったその時、後方の討伐隊が血の気の引いた悲鳴を上げた。
「おい! お前たち早く逃げろ! ゴーレムが、ゴーレムがまだ……!!」
ハッとして振り返る。
バラバラになったはずのゴーレムの岩がガタガタと震え、立ち上がろうとしていた。その中心にある、不気味に発光する青い『クリスタル』。砕けた岩が、生き物のように核へ這い寄っていく。




