22.扉を隔てた背中
エジェは宿の寝台に腰掛けていた。
窓から差し込む月明かりの中で、赤い短髪が鈍く光っている。にこやかな顔は、誰も見ていない部屋の中でも崩れなかった。人の表情を真似ることに、もはや労力を感じていないのだ。呼吸のように自然に、笑顔の皮を被っている。
腹が、鳴った。
食堂で出された夕食の煮込みは、確かに胃に収まった。だが、それは紙を食べるようなものだった。身体が求めているものとは根本的に違う。人間の肉体を維持するための燃料にはなっても、飢えは満たされない。
エジェの灰色の目が、窓の方を向いた。
道を挟んだ壁の向こうに、気配がある。若い肉体。鍛えられた筋肉。熱い血。食糧庫のようなものだった。棚に並んだ瓶詰めの甘い果実のように、手を伸ばせば届く距離に、ずらりと並んでいる。
だが、まだ早い。シールの目がある。エジェが欲しいのは、ただひとつ。
森から自分を叩き出した、あの力。
同胞たちが木々に呑まれて消えていった、あの夜。逃げ延びたのはエジェだけだった。あの力を手に入れれば、もう何も恐れる必要はない。人の皮を被って怯える必要もない。
エジェは寝台から立ち上がり、窓辺に寄った。腹が、また鳴った。
夜番の騎士の足音が聞こえる。肉の詰まった、温かい足音。
エジェは微笑んだ。誰も見ていない部屋の中で、その笑みだけが、人間のものではなかった。
「そろそろ部屋に戻んな。朝が早ぇんだろ」
ガルドに促されるまま、カナは自室の扉を閉めた。
与えられた部屋は、厨房の裏手にある小さな一室だった。カナは寝台に腰を下ろさず、窓辺に立って夜空を見上げた。
カナの意識が、遠くへ伸びる。細い糸を手繰るように。
小鳥たちが、まだ起きていた。
焚き火の傍らで、黒い髪の男が目を開けたまま座っている。メアは無事だ。今は。
だが、カナの意識は同時に、もっと近い場所にも向いていた。この建物の外。宿の一室にいる、あの匂い。腐葉と湿った土の、生きることを諦めたものの匂い。
カナの指先が、窓枠に触れた。ここにはカナを守る木々はない。根も、枝も、風もない。あるのは石の壁と、人間たちの剣だけだった。
それでも、カナの表情は穏やかだった。怖いのは、自分が傷つくことではない。
怖いのは――。
カナの視線が、扉の方へ動いた。この薄い扉一枚の向こうに、温かくて脆い人間たちがいる。
カナは寝台には向かわず、扉の前に座り込んだ。背を扉に預け、窓に向かい、膝を抱える。まるで、この薄い板切れ一枚を、自分の身体で塞ごうとするかのように。
夜が、ゆっくりと更けていった。
騎士団宿舎の喧騒が途絶えた深夜、松明の爆ぜる音だけが石造りの廊下に響いていた。
カナは扉に背を預けたまま動かなかった。
感覚が研ぎ澄まされていく。窓から入る気配が、寝息を装いながらも、飢えの匂いを濃くしていた。人の皮の下から滲み出してくる、本性の匂い。
足音が近づいた。ガルドの重い足取りが遠ざかり、代わりに軽く、正確で、迷いのない歩調が廊下に入ってくる。
エイだった。
足音がカナの部屋の前で止まった。一瞬の沈黙。
「カナさん。起きていらっしゃいますか」
声は囁きに近かった。扉一枚を隔てて、カナの背中とエイの気配が重なる。
エイは返事を待った。辛抱強く、ただ静かに。
扉の向こうから、返事はなかった。
だが、エイの耳は扉の内側でかすかに響いた衣擦れの音を捉えていた。人が座っている。扉のすぐ傍に。床に直接座り込んでいる者の、小さな身じろぎ。
エイは、一瞬だけ目を閉じた。
この人は、扉の前で番をしている。自分たちを守るように。
エイは何も言わなかった。休むよう促すこともしなかった。
代わりに、鎧の留め具を外す音が静かに響いた。胸当てを壁に立てかけ、肩当てを隣に並べる。金属が石に触れる、硬く冷たい音。
それから、エイは扉の反対側に背を預けた。カナと同じように。薄い板一枚を挟んで、鏡写しのように。
長い脚を廊下に投げ出し、後頭部を扉につける。とん、と小さな音が鳴った。
「……お隣、失礼します」
返事は求めていなかった。ただ、ここにいると伝えたかっただけだ。
闇が深くなる分だけ、扉を挟んだ二つのやわらかな気配が、互いの存在を強く意識させた。
エイの右手は、膝の上に置かれた剣の柄に、軽く添えられていた。
扉の内側で、カナの呼吸が聞こえた。穏やかで、深く、人間のものよりずっと緩やかなその呼吸を、エイはただ黙って聞いていた。
同じ夜を、同じ扉を背にして過ごしている。
それだけのことが、暗い廊下の中で、ひどく温かかった。




