蛇を睨み返せ
そして運命の日。シールが数名の師団魔術師を引き連れて黒狼騎士団の本部を訪れた。王の勅許を得て東部森林の調査を開始するという、正式な挨拶のためだった。
その日、食堂は昼の喧騒に包まれていた。汗と鉄錆の匂いを纏った騎士たちが、思い思いの席でパンを千切り、スープを啜っている。カナは、厨房の片隅で山盛りのタマネギと格闘していた。涙がぼろぼろと頬を伝い、鼻の頭が真っ赤になっている。それでも手は止めない。メアに教わった通り、根を落とし、皮を剥き、ざくざくと刻んでいく。
その時、食堂の入り口が開いた。
冷たい空気が、一筋、流れ込んできた。それは季節のせいではなかった。紫色の長い髪を肩に流し、白梟師団の紋章が刺繍されたローブを纏った男が、ディートの横に立っている。シールだった。その後ろには、同じく師団の装束を身に着けた魔術師が二人、影のように控えている。
「……ま、堅苦しい話は執務室でやろうや。ここは飯を食うところだ」
ディートの声はいつもの飄々とした調子だったが、その目だけが笑っていなかった。
「ええ、もちろん。ただ、せっかくですから、少しだけ見学させていただいても?騎士団の食堂というものに、以前から興味がありましてね」
シールの穏やかな微笑みが、食堂をゆっくりと見回した。騎士たちの粗野な食事風景を眺めるその紫の瞳は、まるで標本棚の虫を観察する学者のそれだった。
執務室へ向かおうとするシールの視線が厨房の方へ向いた。
ちょうどそのとき、カナがタマネギの涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、両手で大鍋を抱えて厨房から出てきた。鍋の中身はシチューの仕込みで、湯気がもうもうと立ち上っている。足取りは危なっかしく、エプロンには粉やら何やらの汚れがべったりとついていた。
シールの視線がカナの上を滑った。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、その紫の瞳が細まった気がした。だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、ディートの方へ向き直る。
「……なるほど、活気のある食堂ですね。では、執務室へ参りましょうか」
シールの靴音が遠ざかっていく。カナの存在など歯牙にもかけなかったかのように。だが、厨房の奥から、メアの黒い目がシールの背中を射抜くように見つめていた。その視線の鋭さは、抜き身の刃のようだった。
シールの姿が食堂の出入り口から消え、その足音が廊下の奥へ吸い込まれていった後も、食堂の空気はしばらく凍りついたままだった。騎士たちの何人かは、箸を止めたまま互いに目配せを交わしている。
カナは、大鍋を作業台にどすんと置くと、タマネギでぐしゃぐしゃになった顔をエプロンの袖でごしごしと拭った。涙はまだ止まらず、鼻をすする音が厨房に小さく響く。
メアが音もなくカナの傍に寄った。周囲の目を気にしてか、手に持った布巾を差し出すだけの、何でもない仕草だった。だが、その低い声は、カナの耳にだけ届くように落とされている。
「……何か、感じたか」
その問いは、タマネギの涙についてではなかった。メアの目は、カナの顔を静かに、しかし見逃すまいとするように見つめている。あの一瞬、シールの視線が止まったこと。あの紫の瞳が、わずかに細まったこと。メアは、それを見逃していなかった。
「なんだコイツ汚いな、って思ってたみたいだよ。失礼だよね」
「……そうか」
メアは、カナの能天気な感想に、わずかに肩の力を抜いた。だが、その安堵は表には出さない。彼が気にしていたのは、魔術師としての感覚だった。あの男が、カナから何かを嗅ぎ取らなかったか。それだけが問題だった。
メアは布巾をカナの手に押し付けると、厨房の奥へ視線を戻した。
「顔を拭け。客に出すシチューに涙が落ちる」
それだけ言って、メアは厨房を出た。食堂を横切る足取りは普段と何ら変わりない。だが、廊下に出た途端、その歩調がわずかに速まる。ディートとシールが向かった執務室の方角へ。
一方、厨房に残されたカナは、渡された布巾で丁寧に顔を拭いながら、ことこと煮えるシチューの鍋をぼんやり覗き込んでいた。そこへ、裏口からビィが顔を出した。頬が上気している。
「カナさん、大丈夫でしたか? あの魔術師、何か言いませんでしたか?」
ビィの声は隠しきれない焦りが滲んでいた。彼の茶色い目が、カナの顔を忙しなく確認するように動いている。まるで、巣から落ちた雛を見つけた親鳥のような必死さだった。だが、カナの顔はいつもと変わらぬ穏やかさを湛えている。
「……イーガが、執務室の近くで様子を探っています。何か分かったら、すぐお伝えしますから」
新米騎士なりの、精一杯の諜報活動だった。カナの周りで、騎士たちの歯車が音を立てて回り始めていた。
「大丈夫だよ。メアに任せよう」
「……はい、そうですね。隊長たちを信じましょう」
ビィは自分に言い聞かせるように頷いたが、その足はなかなか厨房から離れようとしなかった。カナがタマネギの山に向き直るのを見届けて、ようやく、名残惜しそうに裏口から姿を消した。




