「水晶球の双魚」(『化物怪奇譚』)④
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翌日、午前八時五十分。
約束の時間の十分前に店の前に現れた供華さんは、初めて見る涼しそうな白いワンピースに麦藁帽子という出で立ちだった。昨日までの僕であればデートに近しいものを想像して胸を躍らせただろうが、今日はそのような気持ちが完全になかったとは言えずとも、訪問の事が頭の大半を占めてしまっていた。
挨拶もそこそこに、僕たちは町内会の地図を広げて歩き出す。
特に迷う事もなく、十分足らずで目的地へ辿り着いた。
安里家は、竹垣と冠木門が特徴的な和風の屋敷で、今まで何故知らなかったのだろう、と思える程目立つ造りだったが、住宅街の裏通りにあるので僕の行動圏内からはぎりぎり外れていた。
インターホンを鳴らすと、旦那さんの声で「はい」という返事があった。
「有鱗屋の北条です。奥様にお話しがあって参りました、ごめん下さい」
「只今参ります」
十数秒後、座敷の中から足音が聞こえ、引き戸が開いた。安里さんの旦那さんは僕を見ると、一瞬困惑したようだったが、すぐに「ああ」と笑みを浮かべた。
「慎平君か。大きくなったなあ」
「ご無沙汰しております。もう、成人しました。以前奥様にご挨拶を頂いた時は、まだ小学生でしたが……当時はご無礼があったかもしれません」
「立派な若者になった。周作さんも、安心してお店を任せられるというものだね」
旦那さんは言い、供華さんに視線を移した。
「ところで、そちらの女性の方は?」
「初めまして。私は北条君……慎平君と同じゼミの、供華雛乃という者です。以後、お見知り置きを宜しくお願い致します」
供華さんは、一歩前に進み出て懇ろに頭を下げた。それから顔を上げ、心なしか安里さんの家の引き戸の内側を覗くように首を伸ばす。
「私たち、奥様にお尋ねしたい事がありまして、ご自宅に伺わせて頂いた次第です。ご在宅でしたら、お手数ですがお取次ぎ下さいますか?」
「真悠子か。今、子供たちを小学校のプールに送って行ったところでね。すぐに帰って来ると思うから、中で待ってくれていいよ」
旦那さんは微笑み、僕たちを中へ誘った。
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「ごめんなさいね、夏休み、あの子たちが泳げる場所はプールくらいだから。でも、休みの間だから事故とかあったら大変でしょう? 利用者の名簿に、保護者のサインが必要でね」
張り替えたばかりなのか、藺草の匂いがまだ残る畳の真ん中に置かれた座卓に、僕たちと向かい合うように腰を下ろした安里真悠子さんは、温くなった麦茶を冷たいものに取り換えながら言った。
「慎平君たちは、何か私に聞きたい事があったみたいだけど……?」
「はい、妙な事かもしれないのですが」僕は、正座していた腰の位置を整えてから口を開いた。「僕の父か祖父、もしくは勢威という者から、双魚球というものを預かってはいませんか?」
単刀直入に尋ねると、安里さんは「勢威?」と首を傾げる。
「勢威太一さんではありません。彼の一族で、彼の両親の血縁者に当たる人物の誰かからですが」
「双魚球……は、仙台に越す前に聞いた事があるような気がするわね。勢威さんかあ……実は今の主人と一緒になる前も、私は加苅神社の氏子だったの。両親が死んだ時は、暫らく小暮とは絶縁状態だったし、散骨したからね。戻ってきてすぐに、霊園が経営を終了してお墓が改葬されたって聞いた時はびっくりした。新聞には改葬公告も出たらしいけど、私は取っていなかったの。
勢威太一さんとは、氏子会で顔を合わせた事があったわよ。まだ当時は小学生だったけど、総代の彼はそんな私にも気を遣ってくれてね。色んな話をしてくれた。昔、勢威家のお墓にあった水晶はもっと大きかったんだよ、って話もそこで聞いた気がするわ」
「それが、双魚球なんです。中に、二匹の鯉の絵が描かれていたという話は?」
「どうだったかしら。何しろ、昔にちょっと聞いた程度の事だから」
となると、彼女もその後実物を見たという事はないのだろうか。僕が考えていると、供華さんが「つかぬ事をお聞きしますが」と発言した。
「安里さんの、北条周作さんとの面識は如何程でしょうか?」
「現在の有鱗屋さん? そうねえ……父が店をやっていた時はお世話になったそうだけど、私も大人になってから会ったのは結婚後かな。その後は昔の誼で、当時の事についてちょっと電話でお話ししたりするくらいよ」
「お話しとは、どのような?」
供華さんが尋ねると、安里さんの表情が若干強張った。僕は、躊躇いながらも供華さんの膝に手を置いた。バブル崩壊当時の事は、あまり思い出したくない上に他人にも話しにくい事だろうからだ。
だが今日の供華さんは、例の妙な敬語は健在とは言え、いつもの遠慮がちな態度ではなかった。段々彼女の空気が鬼気迫るものになってきた事が伝わったのか、安里さんは口籠りながらも答えた。
「店が潰れる事になった話は、慎平君から聞いたかしら? その原因を作ったのが羽立って男なんだけど、彼について尋ねてくるのよ。彼が店に行った接触について、なるたけ詳しく教えてくれって。最初は私も、有鱗屋さんを経営危機に陥れる原因を作った事で彼を恨んでいるのかな、と思ったんだけど、どうも違うみたい。今、周作さんはちゃんとお店を維持出来ているはずだし……私が羽立の事を話したのは十年前だけど、最近になって急に、っていう感じね」
不意に僕の頭の中に、突拍子もない考えが浮かんだ。
父が羽立氏の事を調べ始めたのは、勢威さんの行動がエスカレートし始めたからではないだろうか。父は、抱え込んだ多額の負債を解消する為に、双魚球を手離したのではないか。羽立氏は富豪であり、個人間融資だったという。父が、彼から借金をしていた可能性は十分にある。
だがそうなると、その羽立氏が安里さんの父親が経営していた小売店を意図的に潰すような事をしたのは、偶然なのだろうか。彼は、父に負債を負わせる事が目的だったのではないだろうか。だがそれだけでは、勢威さんの行動が活発になったからといって、父が羽立氏を探す事には結び付かない。
羽立氏が父から奪おうとしたものは、双魚球そのものだったのではないか。
「安里さんは……」僕は尋ねた。「父に、何をお話ししたのですか?」
「遺品整理で見つかった、羽立の住所や電話番号。でも、意味はないと思うの。連絡は取れなくなったし、住所を訪ねたら既に家は売りに出されていたみたいだし。だけど気掛かりなのは、周作さんがそれで納得しなかった事……」
すっと、部屋の気温が下がったように思われた。供華さんが視線を前に向けたまま、大丈夫ですか、と小声で囁いてくる。大きく開いたワンピースの背中に、つーっと一筋汗の雫が伝ったのが見えた。
「あ、それとね、慎平君。周作さん、加苅神社が燃えた時の事について、勢威さんから聞いた事を教えて欲しいっても仰ってたわよ。何でも、あなたのお母さんの事に関係があるとかで」
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僕の母は佳江というらしいが、会った事はない。僕の出産時、相当難産だったらしく、それが原因で亡くなったのだという。
実家では祖母がイタコのような仕事をしていたそうだが、彼女はごく普通の女性だった。父の世襲から五年後、バブルの動乱の中で彼と出会い、結婚した。だが、それ以前の過去については僕も知らないし、父に聞いてもなかなか詳しくは語ってくれない。ややもすれば、父もそこまで深い事を教えられていないのかもしれない。イタコの家の機密を守ろうとする実家の料簡が、そうさせているのだろうか。
写真は見た事がある。カウンターの内側のレジの陰、客からは見えないような位置に置かれたそれに映った母の顔はまだ若く、僕には「この人が母なのだ」という自覚があっても、実感がそれに結び付かない。
それは、何処か超然的なところのある顔だった。おかしな言い方かもしれないが、悟りを開いたように全てを受容し、達観しているかのような。
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安里さんが父から尋ねられた事は、加苅神社に落雷があった夜の事だった。
「これは、私が周作さんにした話と同じ事だからね。
……落雷の日、勢威さんたちは氏子会の集まりで彼のお屋敷に居たんだって。夏だったけど、車軸を流したような、っていうのかな、凄い雨が降って、寒いくらいの日だったみたい。本当はそこで、維持費を集めたりしながら井戸端会議でもするつもりだったのに、集まって三十分くらいでトラブルが起きた。
勢威さんのお屋敷、行った事はない? 百々目川の支流から、この辺りの畑に水を引く六郷堀っていう用水路が裏手にあるんだけど、それが溢れてね。皆が集まっていたのはこのお座敷みたいな場所で、ここから見える庭を越えた辺りがもうその堀なんだけど、気付いたら縁側から水が流れてきたみたいで。誰かが『大変だ』って叫んで、そこから皆で水を汲んで、堀の向こうの林に掻き出して。
何人かの人は、勢威さんと同じく六郷堀沿いに家があったから、上流が決壊したなら我が家も危ないかも、ってすぐに出ていったんだって。でも、皆すぐに戻ってきたそうよ。上流が決壊したんじゃなくて、下流で水が堰き止められたからこんな事になったんだ、って。
で、勢威さんたちは庭に流れ込んできた水を一通り掻き出すと、すぐに堀を下って行った。そしたら、鮒に岩魚、百々目川に居る種類の魚という魚が、田んぼに流れ込む辺りで大量に死んで詰まっていたんだって。ぞーっとした、って勢威さんは言っていたわよ。それが皆、異様に膨らんでお腹が破れたりして、気味が悪いなんてものじゃなかったみたい。
でね、落雷が起こったのはその日の午後。周作さん、佳江さんはその浸水が起こった辺りから落雷の時刻まで、何故か有鱗屋に居なかったって言うの。お店が自宅だから、二人とも家に居た事は確かなのに、佳江さんがいつから居なかったのか、何を言って出ていったのか、周作さんは今でも思い出せないみたいなの」




