「蜘蛛」(『化物怪奇譚』)①
やはり、この土地は僕に合わなかったのだろうか、と考えてみる。
自然豊かな地方都市、小暮市。大学進学と共にこの街にやって来て間もない頃、僕はすぐにここを好きになる事が出来た。元々、高校時代少し成績が良かった僕が調子に乗って一般入試で仙台のとある難関大学を受験し、それに及第出来ずにやって来た土地だった。杜の都と呼ばれた仙台、東北一の大都市でありながら東京圏程混沌としておらず、自然と共にある街。生まれも育ちも仙台だった僕は、これから先自分が学生生活と呼ばれる日常の最後の一括りを生きる土地として、小暮を好きになる事は出来ないだろうと思っていた。
辺鄙すぎても駄目、発展しすぎていても駄目。
そんな持論を振り回していた僕だったが、小暮は思いがけなく第二の故郷となるべき場所かもしれない、と思ってしまった。
見渡せば山や森がすぐ傍にあり、昭和風の風景や古くからの街並みが至る所に点在する地方都市。そこで、最初に改札を抜けた僕が街の土を踏み、空気を吸った時感じたのは、ある種の解放感だった。
それは、僕が今まで如何に猥雑な人工物の犇めく世界に生きていたのか、という事を実感させるような、初めての感覚だった。
大学二年生、夏。
僕は今や、一度は好きになった小暮に別れを告げ、電車に揺られて新たな世界に向かおうとしている。両親にも、ここで新たに出会った友人たちにももう会う事はないのではないか、と薄々気付いている。
やはり、この土地は僕に合わなかったのだろうか。
そんな事はないと信じたかった。むしろ、こうしてある人を追いかけて街を去る決心をした事こそ、僕がこの街に対して適性のある人間だったという証明なのではないだろうか。
僕は、小暮に根差した文化を、伝承を受け容れたのだ──。
急行に揺られながら、僕はそんな事を考えていた。
胸襟の内は、嵐の凪いだ後のように静かで、穏やかだった。だが、それは満たされていたというより、空虚に近かった。
ホームで、たった一人僕を見送り続けていた霞さんの姿が思い起こされた。
* * *
この夏の出来事を語るに当たって、欠かす事の出来ない人物は何人か居るが、その長たる人が小暮市の古刹「量仁寺」の住職である末崎彰人さんだ。
彼の年齢は定かではなく、時々物思いに沈む表情には経験を積んだ年配者のような深みを感じる事もあるが、普段の朗らかな表情は三十代、事によると二十代に見える事もある。
彼の両親は、彼が小学校を卒業するのと殆ど時期を同じくして、事故で亡くなったと聞いている。先代住職を務めていた父が、ある檀家の方の回向に向かおうと自動車を転がし、たまたま同じ方角の百貨店に用事があった母もそれに乗っていたところ、見通しの悪い交差点で、右折信号を赤になって通過してきたトラックにぶつかられたのだそうだ。
当時、量仁寺で仏事に当たっていたのは末崎さんの両親とアシスタントのスタッフである二人、階蔀さんと弘津さんのみだった。世襲の済まない状態で先代が亡くなった上、末崎さんを養う人が居なくなってしまったので、親戚の方々は協力して本山から次の住職、兼、末崎さんの後見人として浦隅藤水氏という人を呼び寄せた。彼は先代の大叔父の息子、つまり先代の祖父の甥に当たる人物で、大叔父は婿に行った為名字が末崎ではなくなっているのだが、代々の末崎家長男と同じように僧侶を目指し修行を行ってきた身だった。
彼は量仁寺を継承する直系ではない為、住職を務める寺を持たなかった。だからすぐに小暮にやって来る事が出来、世襲の問題はひとまず事なきを得たのだが、末崎さん自身はそれでも浦隅氏に言ったそうだ。
僧侶を目指せる”高校卒業”を果たし、雲水となって大本山での修行を終えたら、その後の量仁寺は自分が継ぐ、と。つまりは、浦隅氏の引き継ぎはあくまでも一時的なものだと。
末崎さんの父親は元々柔軟な人で、彼に仏事に関する諸々の宗教的な事柄を学ばせながらも、彼自身に他にしたい事、叶えたい目標があるなら無理に寺を世襲する必要はないと生前言っていたそうだ。浦隅氏のように本山から新たな住職を迎える事も、可能と言えば可能だったからだ。
だが、末崎さんは頑なな意志を持ち、いずれ僧の道に入る事を決めていた。そして現在、それを果たしたのだった。
何故、このような事を僕が知っているのかについてはこれから述べる。
これから僕が話す事は、末崎住職の話であり、僕が彼の「見えざる糸」に引かれて”第二の故郷となるべき場所”を去るまでの話である。
* * *
量仁寺の裏には、戌亥の森と呼ばれる広大な森が広がっている。奥はそのまま山へと繋がっているので禁足地に設定されているのだが、その手前の方では例年夏に古本市が開かれる。
本来は、京都の下鴨神社の納涼古本まつりに触発され、寺の前方、辰巳の森という対の森で向かい合うように建っていた加苅神社で行われていた行事だったそうなのだが、二十年程前神社は落雷により全焼。だが尚市の開催を願う人々の声に応え、寺は裏の戌亥の森を開催地として貸与する事にしたらしい。
夏休みの最初の日、僕が初めて量仁寺へ足を運んだのもその日だった。
読書が数少ない趣味の僕は、本は買って読む方で、それも汚れたり破れたりした中古品ではなく新刊書を読む事を好んでいた。だが大学入学と共に一人暮らしを始めた僕は、配達業務のアルバイトと月々の仕送りでの慣れない生活で節約癖が身に着き、次第に本を買わなくなった。読書をする時間が減った要因は、取れる単位は一、二年で取った方がいいぞと様々な人から言われ、それを実行に移した為日々講義尽くしだった、という事も少しはあるが。
二年生になって繁忙が少し収まってくると、読書に対する欲求は再び僕の中で再燃を始めた。その為、筋を曲げて古本にも手を出してみようか、などと考え、その下見も兼ねて古本市を訪れたという訳だ。
声を掛けられたのは、迷路のような本棚と木々の形成する二層の森を歩き回る事に疲労を覚え、寺の裏側に当たる小さな庭のような場所、細石の敷き詰められた一画の傘の下のベンチで休んでいた時だった。
「お目当てのものは見つかったかな?」
顔を上げると、黒い僧衣を纏った僧侶がそこに立っていた。彼が「お邪魔するよ」と断りながら隣に腰を下ろしてくるので、僕は少し腰の位置をずらした。
「お坊さん、ですか?」
「急にごめんね。私は量仁寺の住職、末崎だよ」
「僕は土門璃紗と言います。小暮農商連携大学の」
一応、挨拶を交わしながら名乗っておいた。
「土門君、か。農商大という事は、このすぐ近くだね。家も近いの?」
「そうですけど……何か?」
「小さな街だからね。近所の話はよく入ってくるんだけど、土門、なんて名字は初めて聞いたから。君たちくらいの世代の人と話すと、進学と同時に引っ越してきたりした子も多くて、顔見知りになれるのが楽しいんだよ」
末崎住職は、市で購入したらしいボロボロの本の表紙を指でトントンと叩きながら言う。僧侶と聞くと固いイメージを持っていた僕だったので、その若々しく朗らかな彼の第一印象が何となく気に入った。
「僕も引っ越してきたんですよ。仙台からです」
「それは随分と都会から。びっくりしただろう、小暮はあまりにも田舎だから」
「いえ、気に入りましたよ。こんなに自然の中に生きる暮らしって……何だか、懐かしいような気もします。日本人のルーツなんでしょうかね」
気持ちが解れたのか、舌に潤滑油でも点されたかのように僕は喋っていた。末崎住職は嬉しそうに微笑む。
「それは良かった。君みたいな移住者だと、この街の文明は遅れている、なんて言う人も結構居るからね。古い伝承は幾つも残っているし、未だに自然信仰みたいな風習もあるしね」
「去年も、地元出身のサークル仲間からそんな話をされました」
──この街にはな、化け物が居るんだよ。
楽しそうに語られたその話を思い出す。自然豊かな小暮は、山や森が隣接している事もあり、時折街中にも猿や狸、鹿などが紛れ込む事がある。だが、自治体は害獣としてそれらを駆除したりはしない。無論住民に被害が出たら大事なので、その場合は警察が出動したりして捕獲には当たるものの、出来るだけ殺しはしないという。穏便に捕まえて、元居た山に返すだけだ。
古い文献によると、この辺りの獣は日本の中でも平均的にかなり大きく、昔は神々として敬われていたものもあったらしい。代々受け継がれてきた伝統と観念は、常識という知識だけで完全に上書きされるものではないのだろう。
「私がさっき買ったこの本も、そういう信仰の歴史とか怪談とかが沢山載っているんだよ。『小暮民俗資料集』、私は一から十のうち九まで持っているんだけど、これだけなかったんだ。無論私は仏教徒だけど、読み物としては面白いよ。今度土門君にも貸してあげようか?」
住職は、表紙を叩いていた本をこちらに見せてくる。その紙のカバーには、上の方で雲を纏いながらとぐろを巻く龍神、そしてそれを左右に分かれて拝むように額づいている鼬のような動物と、複眼を持つ蜘蛛が描かれていた。
僕は肯き、それから暫らくの間僕と住職は本や伝承の事などについて話に花を咲かせた。ゼミの学生やサークル仲間、バイト仲間を含め、僕がこんなに”会話”らしい会話をしたのは久しぶりだな、と思った。
* * *
話し始めて暫らくすると、末崎住職は不意に
「夏休み、土門君は予定はあるかい?」
と尋ねてきた。
「特にありませんよ。海も花火も一人で行く度胸はありませんし、仙台の実家に帰る格別の用事もないですから」
「それじゃあどうかな? 夏の間、量仁寺でアルバイトをしてみない?」
突然切り出され、僕は思わず顔を上げる。
「君の事が気に入ってしまった。それにお盆シーズンに重なるだろう、うちの寺は人手不足でね。君が来てくれたら大助かりだよ」
末崎住職は目を輝かせて言ってくるので、僕は困惑した。前述した通り、僕は既に山猫宅急便という運送会社でアルバイトをしている。
その事を末崎住職に言うと、彼はそれすら予想していたようだった。
「何、そんなに細かく時間を決めたりはしなくていいんだ。来れる時に来て、少し手伝ってくれたりするだけでいい。フリーター、と言うのかな。山猫さんの方が本業なら、そっちを優先するのは当然だろうしね」
彼は言い、ベンチから立ち上がった。
「今度、さっき言った民俗資料集を貸してあげるから遊びにおいで。答えはその時に聞かせてくれればいいから」
* * *
結局、僕は「フリーター」として量仁寺での仕事とバイトを掛け持ちする事になった。この寺は古刹なだけあって檀家も多く、このお盆の季節は参拝者への対応や物品販売などに毎年人手が足りなくなるという。それを聞いてからは、何だか断りづらいような気もしたし、末崎住職についてもっと知りたいと思う気持ちもあった。
仕事を始めて分かった事は幾つかある。
あまり知られていないが、神職以外の、寺でのアルバイトの業務はかなり多い。まず寺院内の清掃に始まり、参拝客への対応、法要の準備の手伝い、web上での檀家の方々の管理など。
末崎住職は由緒正しい寺の住職なので、僕に対してああは言ってくれても公私混同はせず、仕事に対しては厳しく気難しいかもしれない、などと思っていたのだが、彼はとても優しく、僕は前述したような仕事を担当する事になったとは言え寺自体に関する知識を丁寧に教えて下さった。
山猫宅急便のアルバイトがない日などは、特別にする事もないので、僕は寺でのバイトが終わると専らここに留まり、末崎住職やスタッフの階蔀さん、弘津さんたちと談笑した。彼らにも気に入って貰う事が出来、僕は嬉しかった。




