第14話 ずっとずっと、もう我慢しないのでしゅ♡
第14話 ずっとずっと、もう我慢しないのでしゅ♡
契約式の朝、ピコは日の出より早く目を覚ました。窓の外には薄い朝靄が残り、王城の庭師たちは夜露に濡れた石畳を布で拭いている。衣装室の机には糸巻き、真珠、切り残した白いレースが散らばり、侍女が夜中に飲んだ香草茶も冷たいまま残っていた。ピコは妖精用の寝台から起きると、白い寝間着の裾を踏んで転び、枕へ顔から突っ込んだ。
「今日は王子のお嫁しゃんになる日なので、転んでも泣かないのでしゅ」
ピコは何事もなかったように立ち上がり、乱れた桃色の髪を両手で押さえた。正式には王国公認パートナーとして契約を結ぶ日だが、ピコは朝から「お嫁しゃんになる日」としか呼ばない。鏡の前へ飛び、目元の腫れや羽の傷がないか、何度も体の向きを変えて確かめた。
「まずは朝食を召し上がってくださいませ」
侍女は指先ほどの白パン、柔らかな卵焼き、木苺を小皿へ並べた。ピコは早く支度を始めたくて首を横に振ったが、食べなければ式の途中で腹が鳴ると言われる。以前の会議で大きな音を響かせたことを思い出し、白パンへ花の蜜を塗って食べ始めた。
「ドレスを汚さないよう、今日は先に食べるのでしゅ」
ピコは卵焼きを口いっぱいに頬張り、木苺の果汁を寝間着へ一滴こぼした。侍女は、今のうちでよかったと胸をなで下ろす。ピコは残った木苺を半分に切り、式の前にアルフレッドへ食べさせるため、葉の包み紙へしまった。
朝食が終わると、セレスティアが大きな衣装箱を抱えて現れた。彼女は妖精大使の正装である深緑色のドレスをまとい、銀色の髪へ桃色の薔薇を飾っている。目の下には薄く隈があり、昨夜までピコの衣装を縫い直していたことが分かった。箱を机へ置くと、白薔薇と花の蜜を混ぜた香りが部屋へ広がった。
「お待たせしました。世界に一着だけの契約衣装ですわ」
セレスティアが箱を開けると、白いミニドレスが現れた。薄い絹を何枚も重ねた裾には、森の木苺、王家の薔薇、公爵家の白薔薇が刺繍されている。背中には桃色の羽を傷つけない柔らかな布が使われ、飛んだときにも裾が乱れないよう小さな重りが縫い込まれていた。
「ピコのお洋服なのでしゅか?」
ピコはドレスの周囲を飛び、刺繍へ顔を近づけた。最初に王城へ来た日は、虫に食われた赤い花びらのワンピースを着ていた。それが今では、人間と妖精が一緒に作った衣装を着て、王子と正式な契約を結ぼうとしている。
「ピコさんのためだけに作りました」
セレスティアはピコの寝間着を脱がせ、白いドレスを慎重に着せた。腰には青い宝石を一粒だけ飾り、頭には白い花びらで作った小さな冠を載せる。桃色の羽にも真珠と花びらを一つずつ結び、動くたびに淡い光が反射するよう整えた。
「重くないのでしゅ。ちゃんと飛べるのでしゅ!」
ピコは衣装室を一周し、空中でくるりと回った。真珠が触れ合って小さな音を立て、羽からこぼれた金色の粉が白いドレスへ降りる。セレスティアは目元をハンカチで押さえながら、羽ばたきやすさも計算どおりだとうなずいた。
「セレスティア様、ありがとうなのでしゅ」
ピコはセレスティアの鼻先へ抱きつき、両頬へ一回ずつキスをした。白薔薇の香油と、徹夜で飲んだ濃い紅茶の匂いがする。セレスティアは化粧が落ちることも気にせず、小さな友人を両手で包んだ。
「本日はアルフレッド様へ譲りますが、明日からはまた研究所へ来てくださいませ」
セレスティアは、結婚したからといって妖精大使の特別顧問を辞めることは認めないと伝えた。雑草堆肥の新しい試験区画も、みみずの観察記録も残っている。ピコは王子のお嫁さんと研究所の仕事を両方すると約束し、胸を張った。
王城の南庭園には、人間と妖精の双方から参列者が集まっていた。人間用の椅子の隣には木の実で作った小さな椅子が並び、空中にも妖精たちが休める花の輪が浮かべられている。長いテーブルには白パン、香草を詰めた鶏の丸焼き、蕪と豆のスープ、木苺のタルトが用意されていた。料理長はピコが式の前に飛び込まないよう、ケーキの前へ二人の衛兵を立たせている。
「ピコ様なら、衛兵の間を抜けられるのではありませんか」
ローランドは式典記録の帳面を開き、ケーキの警備を見た。今日は濃い灰色の礼装を着て、腰の干し肉袋も外している。しかし胸元から香辛料の匂いがしたため、アルフレッドは隠し持っているのだろうと気づいていた。
「式の途中で腹が減った場合に備えています」
ローランドは真顔で答え、帳面の最初へ日付と天候を書き込んだ。昨夜までの雨は上がり、秋の空には薄い雲が流れている。庭の土からは湿った匂いが立ち、薔薇の香りと焼いたパンの匂いが重なっていた。
アルフレッドは噴水の前でピコを待っていた。白い礼装の上へ青い上着をまとい、金髪はいつもより丁寧に整えられている。左手からは古い婚約指輪の跡もほとんど消え、自分で選んだ相手へ贈る新しい指輪だけを右手に持っていた。それでも何度も襟を直すため、国王から落ち着けと注意された。
「お前がそれほど緊張する姿は、剣術大会以来だな」
エドワード国王は赤い礼装を着て、焼き栗を一つ口へ入れた。式典前の食事は禁止されていたが、朝食が早すぎて腹が減ったらしい。アルフレッドは注意する気力もなく、庭園の入口を見つめ続けた。
「妖精を王家へ迎える日が来るとは思わなかった」
国王は木の実の椅子へ座る妖精たちを眺めた。王国公認パートナー制度の成立後、人間と共に働きたいという妖精から相談が届き始めている。法律を変えたことへの反対はまだ残っているが、今日ここへ集まった人々の顔に恐れはなかった。
「ところで、妖精の子どもは、どのくらいで生まれるのだ?」
国王が尋ねると、アルフレッドは勢いよく咳き込んだ。妖精と人間の間に子どもが生まれるかどうかも分かっていない。国王は実の孫にこだわらず、ピコの仲間が王城へ増えれば孫のようにかわいがると弁解した。
「陛下は、すでに妖精用の遊び部屋を作らせています」
ローランドが帳面を見ながら報告した。国王は秘密にしていたつもりだったらしく、焼き栗を持った手を背中へ隠す。アルフレッドは父へ何か言おうとしたが、そのとき庭園の入口から音楽が聞こえた。
セレスティアの手のひらへ乗ったピコが、白い花の道を進んできた。桃色の羽は朝日を受け、真珠と一緒に輝いている。参列した妖精たちは金色の粉をまき、人間たちは椅子から立ち上がった。ピコは大勢の視線に緊張し、セレスティアの指へしがみついた。
「みんな、ピコを見ているのでしゅ」
ピコは小声で言い、白いドレスの裾を確認した。飛び方がおかしくないか、髪にパンくずがついていないか、急に心配になった。セレスティアは、誰よりもかわいいから見ているのだと答え、噴水の前まで歩いた。
「王子、ピコを落としたらだめなのでしゅ」
ピコはアルフレッドの差し出した手へ移った。緊張で羽がうまく動かず、着地するとすぐ親指へ抱きつく。アルフレッドは絶対に落とさないと答え、ピコを胸の高さまで持ち上げた。
「朝ごはんを半分、持ってきたのでしゅ」
ピコは突然、ドレスのポケットから葉の包み紙を取り出した。中には少し潰れた木苺が入っている。大切な日だから、一人で食べず王子と分けたかったのだという。
「式が終わってから食べよう」
アルフレッドは木苺を包み直し、自分の胸ポケットへ入れた。参列者から柔らかな笑いが起こり、ピコの羽も少しずつ動き始める。き始める。セレスティアは目元を押さえ、ローランドは「木苺一個を共同所有」と式典記録へ書いた。
国王が二人の前へ進み、王国公認パートナー契約の証書を読み上げた。互いを所有せず、意思を尊重し、生活と責任を分け合うことが定められている。病気や困難が起きたときには支え合い、一方だけに我慢を押しつけない。どちらかが話し合いを求めたときは、黙って森へ帰らず、必ず向き合うという一文も加えられていた。
「最後の決まりは、ピコだけなのでしゅか?」
ピコが尋ねると、国王はアルフレッドにも適用されると答えた。王子も悩みを一人で抱え、仕事へ逃げてはいけない。アルフレッドはピコと目を合わせ、互いに約束しようとうなずいた。
「アルフレッド・フォン・エルトリア。あなたはピコを対等な伴侶として認め、その意思と尊厳を守りますか」
国王の問いに、アルフレッドは迷わず誓うと答えた。手のひらに立つピコを見つめ、守るだけでなく、彼女の言葉を聞き、自分の言葉も隠さないと約束する。ピコは大きな瞳を潤ませ、アルフレッドの親指を握り直した。
「ピコ。あなたはアルフレッドを対等な伴侶として認め、その意思と尊厳を守りますか」
国王が小さな声でも届くよう身をかがめた。ピコは胸へ両手を当て、何度もうなずく。王子が嫌がることを魔法で無理にさせず、公務中の羽根ペンもなるべく隠さないと約束した。
「なるべくでは困る」
アルフレッドが訂正すると、ピコは一週間に一回までならどうかと交渉した。参列者から笑いが起こり、国王は式のあとで二人で決めるよう命じる。ピコは少し考えたあと、今日だけは隠さないと約束した。
アルフレッドは青い布を敷いた小箱を開けた。中には、妖精の細い指に合わせて作られた銀色の指輪が入っている。中央には小さな青い宝石があり、その周囲を桃色の石が花びらの形に囲んでいた。王家の宝石職人が何度も大きさを測り、ピコが飛んでも外れないよう魔法をかけた品だった。
「私が自分の意思で選んだ伴侶の証だ。受け取ってくれるか」
アルフレッドは指輪をつまみ、ピコの左手へ近づけた。ピコは緊張で指を握り込み、なかなか開くことができない。セレスティアに深呼吸を教えられ、ようやく小さな薬指を差し出した。
「王子がつけてくれるのでしゅ♡」
指輪が収まると、ピコは手を何度も光へかざした。青と桃色の宝石が輝くたび、羽から金色の粉がこぼれる。ピコはその粉を集め、自分の両手で丸い光を作った。
「今度はピコから王子へ贈るのでしゅ」
ピコはアルフレッドの左手へ飛び、薬指の周囲を一周した。桃色の羽から出た金色の光が細い輪となり、彼の指へ結ばれる。光の中には森の匂い、木苺の甘さ、満月の夜にこぼした涙、二人で交わした約束が妖精の魔力として込められていた。
「ピコは王子が白いお髭のおじいしゃんになっても、ずっとそばにいるのでしゅ」
ピコは光の輪へ両手を添えた。アルフレッドが病気になれば看病し、食事を残せば人参まで口へ運び、悪夢を見れば妖精の光で追い払う。自分だけが長く生きる日が来ても、一緒に過ごした毎日を忘れないと誓った。
「俺も、生涯君のそばにいる」
アルフレッドは光の輪がついた手を胸へ当てた。人間と妖精では寿命も体の大きさも違うが、今日から始まる一日ずつを共に生きる。ピコは返事の代わりに彼の鼻先へ飛びついた。
国王が二人を王国公認パートナーとして宣言すると、人間と妖精の参列者から拍手が起こった。妖精たちは色とりどりの粉を空へまき、王城の楽団が明るい曲を奏でる。ローランドは拍手をせず、式典の一言一言を帳面へ記録していた。しかし、頁の隅には小さな妖精と王子の絵が描かれていた。
「ローランドも絵を描くのでしゅか?」
ピコに見つかり、ローランドは記録に必要だと答えた。絵の中のピコは実物より丸く、羽も左右で大きさが違う。ピコは描き直してあげると言い、木炭を持とうとしたが、白いドレスを汚すためセレスティアに止められた。
「次は、わたくしからご報告があります」
セレスティアは妖精大使の任命書を広げた。王国初の妖精大使として、人間と妖精が対等に話し合える森の公館を作る。公館には人間用と妖精用の扉、同じ高さで顔を合わせられる会議室、雑草堆肥や腐葉土を研究する畑も設ける予定だった。
「ピコさんには、名誉顧問をお願いいたします」
ピコは仕事の内容を尋ねた。妖精の暮らしを人間へ教え、間違った図鑑を訂正し、会議の菓子を味見する役目だという。最後の仕事を聞いた瞬間、ピコは両手を上げて引き受けた。
「菓子だけではありませんわよ」
セレスティアが念を押すと、ピコは分かっていると答えた。しかし視線はすでに祝宴の木苺ケーキへ向いている。料理長と二人の衛兵は、式が終わったため警備を解き、ようやくケーキの前から離れた。
祝宴が始まると、テーブルには温かな料理が運ばれた。鶏肉の皮は香ばしく焼け、蕪と豆のスープからは湯気が上がり、収穫した小麦の白パンには新しいバターが添えられている。妖精たちには木の実の殻を使った小皿が配られ、人間と同じ料理が小さく切り分けられた。ピコはアルフレッドの皿と自分の皿を見比べ、鶏肉の大きさが違いすぎると料理長へ抗議した。
「体の大きさに合わせたのです」
料理長が説明すると、ピコは契約した伴侶は同じ大きさの肉を食べるべきだと主張した。アルフレッドは自分の鶏肉を小さく切り、ピコの皿へ一切れ載せる。ピコは満足してかじったが、三口で腹がいっぱいになった。
「残したらだめなのでしゅ」
ピコは自分へ言い聞かせ、残った鶏肉を葉の包み紙へ入れた。夕食に食べるか、明日のスープへ加えるつもりである。セレスティアは命をいただいて生命をつなぐという研究所の決まりが、王城にも根づき始めたことを喜んだ。
「ところで、二人の子どもはいつ頃になるのだ?」
国王が木苺のタルトを食べながら尋ねた。アルフレッドは紅茶を飲み損ねて咳き込み、ピコは子どもをどこで見つけるのかと首をかしげる。セレスティアは研究の必要があると真剣に帳面を開き、アルフレッドは今すぐ閉じるよう命じた。
「陛下は、妖精用の子ども部屋をすでに三つ用意しています」
ローランドが記録を読み上げると、国王は焼き菓子で口をふさいだ。孫のような妖精が増えれば、読み聞かせや木の実拾いをしたいらしい。ピコは自分の仲間を遊びに連れてくればよいと答え、国王はそれでも十分だと笑った。
祝宴の最後に、アルフレッドはピコを手のひらへ乗せて参列者の前へ立った。ピコは白いドレスの裾を整え、青い指輪を見せるよう左手を上げる。桃色の羽には花びらと真珠が残り、飛び回っても一つも外れていなかった。
「今日から、キスは一日何回までにするつもりだ?」
アルフレッドが尋ねると、ピコは指を折って数えるふりをした。十回、二十回、百回まで考えたところで、両手の指が足りなくなる。そこで最も自分に合う答えを思いつき、胸を張った。
「むげんなのでしゅ♡」
参列者から大きな笑いが起こった。アルフレッドは顔を赤くしたが、今度は回数を減らすよう注意しない。ピコが我慢し続けた日々も、離れて泣いた満月の夜も知っているため、今日は好きなだけ愛情を受け取るつもりだった。
「そう言うと思った」
アルフレッドが答えると、ピコは鼻先へ抱きついた。右頬、左頬、額、耳へ次々にキスをし、最後には金髪の中へ飛び込む。髪を両腕いっぱいに抱え、桃色の羽を大きく広げた。
「王子、大好きなのでしゅ! もう、ずっとずっと、がまんしないのでしゅーーーっ♡」
ピコの声が庭園へ響き、祝福の妖精粉が金色の雨のように舞った。アルフレッドは頭上からピコを両手へ移し、白いドレスごと大切に包み込む。ピコは手のひらからもう一度飛び上がり、王子の鼻先へ百年分の最初のキスをした。
夕方、祝宴が終わった庭園には、空になった皿、飲み残した紅茶、子どもが落とした白いハンカチが残っていた。庭師は花びらと落ち葉を集め、翌年の花を育てる堆肥へ運んでいく。ローランドは最後の記録を書き終え、残ったパンと干し肉を布へ包んだ。セレスティアは白いミニドレスの裾についた木苺の染みを見つけたが、今日ばかりは叱らずに笑った。
アルフレッドはピコを頭へ乗せ、二人の寝室へ戻った。枕の右端には柵つきの小さな寝台が固定され、桃色の毛布と木苺の形をしたクッションが置かれている。机には二人分の契約証書が並び、その隣にはピコが朝に残した半分の木苺があった。
「王子、一緒に食べるのでしゅ」
ピコは木苺をさらに半分へ割り、アルフレッドの口元へ運んだ。小さな実は一口にも満たなかったが、彼は時間をかけて味わうふりをした。ピコも残りを食べ、種を翌春に植えるため小皿へ残した。
「明日も、その次の日も、王子を大好きでいるのでしゅ」
ピコは白いドレスから柔らかな寝間着へ着替え、枕の右端へ座った。自分の寝台へ入る前にアルフレッドの頬へキスをし、鼻先へも一回追加する。アルフレッドは回数を数えず、掛け布団をピコの寝台までかけた。
「おやすみ、ピコ」
アルフレッドが目を閉じると、ピコは柵の隙間から小さな手を伸ばした。二人の指が触れ、青い指輪と金色の光の輪が暗い寝室で並んで輝く。世界で一番小さく、世界で一番愛の重い伴侶は、もうどこへも隠れず、王子の枕の隣で眠りについた。




