今田
「神崎…」
背後からの声に日向はビクッとした。
思わず振り返る。
「何ボケっとしてんだ?」
声の主は会社の先輩、今田だった。
「あ、いや…すいません…」
日向は昨夜の電話のことを考えていた。
「お前、今日ヒマか?」
「あ、はい…」
「飲みに行かないか?奢るぞ」
「マジすか?行きます」
「じゃあ、終わったら玄関で」
今田は軽く右手を上げて事務室を出て行った。
何かいいことでもあったのだろうか。背中が嬉しそうだ。
仕事が終わり、会社の玄関に向かうと、玄関近くに設置された喫煙コーナーに田中と秋吉の姿を見つけた。
「お疲れ」
日向は胸ポケットから煙草を出しながら、そこに加わった。
「おう、お疲れ」
田中が少しよけて日向の場所を作った。
「お前もあれか?」
秋吉が言った。
「あれって?」
「今田さん」
「お前らもか?」
なんだ。この二人も誘われてたのか。
「何だろうな、急に…」
「パチンコでも勝ったんじゃねぇか?」
田中が笑いながら言った。
日向は喫煙コーナーの窓の外に見える小さな山をぼんやりと眺めた。
空巣山―
カラスと何か関係があるのだろうか。
不思議な名前だ。
だが、そんなことより、日向には忘れられない思い出が、そこにはあった。
あの山の麓にある自然公園で、葵は忽然と姿を消したのだ。
それも日向の目の前で―
あの山を見るたびに恐怖と罪悪感がよみがえってくる。
しばらくすると、今田が小走りにやってきた。
「悪ぃ。お待たせ」
「あ、いえ、お疲れさまです」
日向は二本目の煙草を消した。
「浜太郎でいいか?」
いつもの居酒屋だ。
「行くか」
そう言った今田の横顔は、とても嬉しそうに見えた。
日向の勤務先であるアラマキの社員は、圧倒的に四十代が多い。
二十代といえば日向たち三人だけで、三十代も今年33歳になる今田の他に数人いるだけだ。
だから、日向たちにとって今田は、親しみやすい兄貴分的な存在で、会社に入った頃からかわいがってくれている。
特に今日の飲み会の理由も聞かず、いつものように飲んでいると、次第に今田の口数が少なくなってきた。
普段は酔えば酔うほど明るくなる人なのに、どうしたんだろう。
具合でも悪いのか。
日向は少し心配になった。
「ところで…」
急にかしこまったように今田が言った。
カバンから白い封筒を取り出すと、三人に渡した。
「何すか?」
田中がジョッキを置いて言った。
「いいから開けろ」
三人は黙って封筒を開けた。
「えーっ!」
三人は思わず声を上げた。
結婚パーティー?
「結婚するんですか?」
「あぁ」
今田の顔が赤いのは、おそらく酔ったせいだけではないはずだ。
「えー?相手は?」
山内瑞穂?
「誰ですか?」
「どこで知り合ったんですか?」
「まぁ、いいじゃねぇか…」
今田は言葉を濁したが、後輩たちの容赦ない質問攻めにようやく観念した。
なんでも配達先の会社の受付の女の子らしい。
「いつの間に?」
「まぁ、な…」
口元が緩い。
「まぁなじゃないっすよ。仕事中に何やってるんですか」
今田と同じ配送担当の田中が、からかうように言った。
「いいから、お前ら、開けとけよ」
今田は煙草に火をつけて照れくさそうに笑った。
日向は招待状に目を移した。
6月10日。土曜日か。
えっと、場所は…
RIZE?
日向は昨夜の電話を思い出した。
何だろう。
妙に胸がざわつく。
日向は言いようのない不思議な感覚を打ち消すように、一気にジョッキを空けた。