最後の人
ハティの手を握ったディオンは、娼館の離れの私室に連れて行ってくれた。店主は止めなかった。
ぼうっと灯った明かりに照らされたディオンは、繊細な美しさが際立った。
こんなに綺麗なものが、この世界にはあるのだ。だから、未だにやめられないのかもしれない。
「ハティ」
大きくすべらかな両手が、かさついた小さな両手をそっと持ち上げ、左右の甲に口づけた。
あまりに神秘的な光景に、呼吸を忘れる。長いまつ毛をただ見つめた。
「俺と生きてみないかい?」
「…………はい?」
言われたことが理解できないハティを、ディオンは特に気にしない。
「夫婦になろう」
「……」
「俺は引退するよ。年季はとっくに明けてるし、夫が客を取るなんて嫌だろ?」
「いえ……あの……気にしませんが……」
「そう? 俺は、俺以外がハティに触るなんて耐えられないけどねえ」
いやもう本当に、何をおっしゃっているのか。
ハティは目を白黒させつつ、瞬くまつ毛が頬に影を落とす様を見ている。
「ハティが婚姻してくれるなら、俺は店主の後を継いで娼館の主になるかな」
「えっ!?」
「店主は俺に継がせたいらしくてねえ。面倒だと思ってたけれど、夫婦になれるなら頑張るよ」
「えぇぇ……」
「それとも……元男娼の夫なんて、やっぱり嫌?」
そっと伺う金の目に怯えを読み取って、ハティは反射的に首を振った。
兄さん方がどんな心意気で、どんな風に働いているかを知っている。
世間で言われるように、決して色欲な男色家などではないと、誰より近くで見てきた。
「それはありません。兄さん、自分を貶めないで」
「はは。うん……ありがとう。だからハティがいいんだよねえ」
ほんのりはにかむディオンは、色気が凄い。真面目な話をしているというのに、あてられそうになる。
ハティは、落ち着くためにこっそり深呼吸をした。
「おまえがいいよ。生きている間は、傍にいてくれないかい?」
生きている間。つまり、生涯。夫婦として、共に。
婚姻なんて、ハティには縁遠いものだと思っていた。ありえないとまで。
だって、ハティは国に断じられた罪人の娘で。没落した元貴族令嬢で。娼館で働く平民で。
「……あ」
ふと、天啓を得たように思う。
これだけややこしいものを背負っていると知った上で、この人はハティが欲しいという。
────あげてしまおうかな。
男娼という特異な職に就くディオンと、色々と面倒な過去持ちのハティ。
意外と、結構お似合いなのかも。
「わたし、罪人の娘です」
「迷惑な親だねえ」
「没落貴族で、身寄りはありません」
「独り占めできるのはいいなあ」
「色事に疎いです」
「最高だよ」
くすくす擦れるように笑う低い声が甘い。
ハティより十ほど上の、波乱万丈の荒波を生き抜いてきた美しい男の人。
この人に選ばれたことに、なんだかひどく胸が踊る。
「わたしでよければ、あげます」
「違うよ」
薄い唇がゆっくりと近づき、鼻の頭を啄むように食む。
「ハティだから、傍にいてほしいの」
奇妙な、珍妙な道だ。こんな未来にたどり着くなど、過去のどの時も想定なんかしたことはない。
でも、ひどく満ち足りた心地だ。悪くない。
無意識に微笑んでいることに、珍しすぎる笑顔にディオンが瞠目していることに、ハティは気づかなかった。
引退したディオンは、長かった髪をバッサリと切り、宣言通り店主の下で経営を学び始めた。
ハティは変わらず補佐として働きつつ、彼のフォローにも回ったりと忙しい。
二人が婚姻すると報告した時、店主は一週間ほどディオンと口を利かなかった。
そして、ハティには考え直せとめちゃくちゃしつこく迫った。
父親がいたらこんな感じなのかなとつい笑ってしまったら、なぜか呆気に取られて、渋々許してくれたけれど。
可愛がってもらえて、本当に有難い。
ディオンが店を継ぐまで、数年はかかる。ハティは離れに居を移し、二人の生活を始めた。
聞けば、ディオンは元々恋愛に性別を問わない性質だという。
ならば夫婦生活にも問題ないかと、ハティも納得した。
温厚でおおらかなディオンと、凪な性質のハティは、年の差を感じさせないほど相性がいい。
喧嘩をすることもなく、意見の食い違いは話し合い、穏やかな生活を送っている。
ハティは、一度きり、姉に手紙を送った。
婚姻したこと、幸せなこと、姉の幸福を願っていること。
不要と書いたため返事は来なかったが、読んでくれていると信じている。
「ハティ」
ハティを欲しがってくれた、初めての人。最後の人。
「ディオン」
唯一の望みが、ハティにもできた。
もう、空っぽだなんて思わない。諦めなんて、どこかへ放り投げてしまった。
『この人が見る最期は、わたしがいい』
そんな身勝手な願いを、大切に抱えている。
お粗末様でございましたm(*_ _)m




