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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第一章・同じ朝の終点

 目覚ましの電子音が鳴る前に、紗世は目を開けた。

 いつもの時間より数分早いだけなのに、身体の感覚は「もう起きなさい」と言っている。

 六畳一間の天井は、夜の名残を少し含んだ灰色で、塗装のムラが筋になっていた。壁に耳を澄ませても、隣室の生活音はほとんど届かないと、毎朝一度は思う。

 布団から身体を起こし、足裏で畳のざらつきを確かめる。冷気が足首を撫で、肌がきゅっと縮んだ。小さく伸びをしてからカーテンを開けると、薄いレース越しに路地の形が浮かびあがった。

 細い路地と、三台分だけの駐車場。通勤の車が数台、決まった方向へ順番にアスファルトの上を走り抜けていき、音だけが窓ガラスを震わせた。

 洗面台で顔を洗い、水滴をタオルで拭き取る。鏡の前に立ち、下地を塗り、ファンデーションを重ねていく。目元に少しだけ色を足すと、鏡の中にはどこにでもいる二十代後半の女性がいた。

(人混みの中に紛れたら、きっと自分でも見つけられないよね)

 その考えがよぎるたびに、化粧を整える意味を一瞬見失う。だが仕事中に「疲れているの?」と心配されるのは面倒だと知っているから、眉を整え、口紅をさっと引いた。

 リビング兼ダイニングに出ると、両親がテーブルを挟んで座っていた。父はYシャツ姿で、スマートフォンを親指で送り続けている。母は化粧前の顔でタブレットを両手に持ち、ニュース画面を睨んでいた。

「おはよう」

「……ああ」

「おはよう」

 その三言で朝の挨拶は終わる。声の高さも順番も、昨日とほとんど変わらない。

 テーブルにはトーストとゆで卵と、昨夜のスープの残り。紗世はキッチンの棚からマグカップを三つ取り出し、コーヒーメーカーに豆をセットした。湯気が立ちのぼる音を聞きながら、それぞれのカップに黒い液体を注いでいく。父のカップには砂糖を二杯、母には牛乳を少し多めに。頼まれたでもなく、手が自然と同じ順番で動く。

「今日は、帰りが遅くなるかも」

 母がタブレットから目を離さないまま口を開いた。

「会議?」

「そう。今月の予算のやつ」

「夕飯は各自でってことでしょ?」

 紗世は、コーヒーカップをそれぞれの席に置きながら答える。

「そうしてくれると、すごく助かる。お父さんもいい?」

「分かった」

 父は短く返事をすると、別の通知に応じてメッセージを打ち続けた。指先だけが忙しく、眉は一度も動かない。

 パンをかじり、スープをひと口飲む。味は昨夜の延長線で、新しさはない。紗世は自分の皿を片づけ、食器をシンクに運んだ。シンクの中で陶器が軽く触れ合う音が、妙に大きく響く。

 玄関でパンプスを履き、鞄の中身を確認する。社員証、定期入れ、財布、薄い手帳。どれも同じ位置に収まっていることを確かめると、紗世はドアノブに手をかけた。

「行ってきます」

 言い終えてから一拍置き、家の中の返事を待つ。

「気をつけて」

 母の声がキッチンから届き、父の「ああ」が少し遅れて追いかけてきた。返事があるだけまだ良いのだと思いながらも、胸の奥に薄く残る空洞は埋まらない。

 最寄り駅までの道は、コンビニと古い商店と新しいマンションが入り混じっている。八百屋の店先には季節の野菜が並び、コンビニの自動ドアが一定のリズムで開閉を繰り返す。その間を通学中の学生や自転車を押す老夫婦が行き交っていた。

 制服姿の高校生たちが、昨夜のドラマの話で盛り上がっている。笑い声を背中で聞きながら、紗世は改札を抜け、いつもの車両のいつもの位置に並ぶ。

 車内はほとんど同じ顔ぶれで埋まっている。毎朝すれ違っているのに、名前も職業も知らない人たち。つり革に掴まり、窓の向こうを流れていく景色を眺めながら、紗世は「ここで倒れたら、何人が名前を聞いてくれるだろう」とふと思った。答えを出す前に、乗り換えのアナウンスが流れる。

 勤務先は、市が運営する情報センターだ。図書館と資料管理室を合わせたような部署で、紙の資料もデジタルデータも扱う。建物は少し古いけど、閲覧フロアだけはリニューアルされ、明るい木目の棚と新しい照明が並んでいた。

「おはようございます」

 出勤の挨拶をすると、フロアのあちこちから「おはよー」「おつかれ」と声が返る。声の主たちはパソコン画面から顔を上げることなく、手元の作業を続けていた。

 自分の席に鞄を置き、パソコンを立ち上げる。メールボックスには、夜のあいだに溜まった新着がいくつか並んでいる。催促ではないが、どれも「急ぎで」「できれば今日中に」という言葉を含んでいた。

「紗世さん、この前の統計、また一覧にしてもらっていい?」

 隣の島の先輩職員が、書類の束を抱えて近づいてきた。

「分かりました。期限は今日中で大丈夫ですか?」

「助かる」

 その一言に、苦笑が喉の奥で丸く転がる。余裕があるかどうかは、頼む側よりも受ける側の問題だ。そう思いながら、紗世はいつもの笑顔で書類を受け取った。

 彼女の仕事は、資料整理やデータ入力、問い合わせ履歴の管理など、名前の残らない作業が多い。誤入力はほとんどなく、期限も守る。数字を拾い、分類し、ファイル名を整えるその作業は、誰かがやらなければ始まらず、終わりもしない。

 それでも会議で評価の対象になるのは、企画や提案に関わった人たちばかりだ。

「紗世さんがいて助かるよ。誰もやりたがらないところを黙々とやってくれるから」

 以前、上司にそう言われたことがある。続いた一言も、耳から離れない。

「まあ、最悪一人欠けても回る部署なんだけどね」

(じゃあ、私はなんのためにここにいるんだろう)

 昼休み、職員用の休憩スペースで、コンビニのおにぎりを食べる。周囲では同僚たちが他愛ない話に花を咲かせていた。その輪の縁で相槌を打つ自分の声が、どこか他人事のように聞こえる。

 定時を過ぎ、残務を片づけ、パソコンを落とし、机の上を整える。机の端に置かれた付箋の色だけが、その日一日の仕事量を示していた。ゴミ箱に投げ入れるとき、胸の中に特別な達成感は立ち上がらない。

 帰りの電車の窓には、朝と同じ自分の横顔が映っている。薄く疲れの色が差している気もするが、それすらもよくある顔の範疇だった。

 自宅に着き、冷蔵庫の中身を見て、今日の夕食を決める。

「今日は遅くなるって言ってたのに、早く終わったの?」

「先方が急にキャンセルになってね」

 母の言葉に、そうなんだと返しながら、味噌汁をよそい、皿を並べていく。三人で食卓を囲み、テレビから流れるニュースに各々が小さな反応を返す。会話は途切れ途切れに続くが、心の奥に触れる話題には届かない。

 食器を洗い、ゴミをまとめ、翌朝出す袋を玄関脇に置く。洗濯機の音が止まるのを待ちながら、自分の部屋に戻り、スマートフォンの画面を適当に流した。通知はあるが、どれも「本当に自分でなければ」という内容ではない。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。朝と同じ灰色の面が、今度は一日の終わりを静かに受け止めている。

 今日一日に、特別な出来事はなにひとつとして起きていない。

 そう区切りをつけることで、また同じ朝が用意される。終点のような夜が、そのまま明日の始まりへと繋がっていくことを知りながら、紗世は目を閉じた。


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