第十章・炎の行軍
王宮前広場に、重い金属音が連続して鳴り渡った。
まだ朝の名残をとどめる空の下、炎獅隊の兵たちが、決められた配置に次々と歩を進めていく。
武器庫から運び出された槍や大剣が、整然と地面に並べられていく。刃には油が丹念に塗られ、余分な布で拭われたばかりの鉄の色が、陽の光を受けて硬質な輝きを返していた。
胸甲から肩当てへと続く太陽色の鎧は、一騎だけでも存在感があるのに、それが広場一面を埋め尽くすと、金属の壁が立ち上がったかのような圧が生まれる。
兵たちの背中から伸びる鬣が風をとらえ、同じ方向へ流れた。鍛え上げられた脚が同じ間隔で地を踏みしめるたび、大地に浅い震えが伝わる。
広場中央に張られた陣幕の内側では、炎獅隊総大将バルガスが軍略図に掌を置き、地形と進路を改めてなぞっていた。
羊皮紙には、獅子国と狼国の国境線、その手前に広がる谷と小丘の連なりが細かく描き込まれている。
「第一陣は、ここだ。谷を回り込み、側面から圧をかけろ。第二陣は北の尾根筋を抜けて敵の退路を断て。焦るな、包囲が整うまで無闇に突っ込むな」
低く通る声が陣幕を震わせる。
周囲に控えていた各隊の指揮官たちが、腰の符札に素早く印を記し、そのまま幕の外へ駆け出した。
少し離れた位置では、副長ラドンが兵列の間を行き来している。
腕を組み、足を止めた兵の肩を拳で叩きながら、苛烈な声で叫んだ。
「顔を上げろ! 今日の行軍は、ただの武威示しではない。獅子国の名を刻む日だと刻んでおけ!」
その一声に、列のあちこちで胸甲が鳴った。
喉の奥からせり上がる咆哮が、やがてひとつに重なる。
地面に立つ者の心臓にまで響くような、その声が広場を満たしていった。
軍旗に描かれた炎獅の紋が、高々と掲げられる。朱と金の布が風を受け、躍るように形を変えた。旗の影が、広場の石畳に大きく落ちる。
兵たちの列の端では、補給隊が樽や袋を荷車へ積み込んでいた。
水、干し肉、硬焼きの携行食。矢束、予備の槍。
全てが無駄なく配置され、行軍中どの隊にも届くよう動線が組まれている。
やがて、出陣を告げる角笛が鳴った。
深く沈んだ音が空気の層を震わせる。
その合図と同時に、無数の槍の穂先が一斉に掲げられた。
土が跳ね、赤みを帯びた砂埃が軍列の足元から立ち上る。金属と革が擦れる音が混ざり合い、ひとつの流れに変わっていく。
炎獅隊が動き出した。
規律正しい足音が、大地に長い線を刻んでいく。
最前列の盾持ちが進めば、その背に続いて槍兵が歩を合わせ、その後方には術師と弓兵を守る護衛が位置する。
それぞれの役目が、長年の訓練で染みついた身体の動きに置き換わり、ひとつの巨大な獣の骨組みのように組み上がっていく。
広場の端には、兵を見送る家族の姿もあった。
幼い子が父の鎧の裾を握り、母がその手を包んでいる。
兵は膝を折り、子の額に軽く唇を触れさせてから、なにも言わずに立ち上がった。
別れの言葉を交わせば、歩みが鈍る。
それを知っているからこそ、互いに多くを語らない。
その代わりに、互いの肩、両の手、短い抱擁だけで全てを伝えようとしていた。
軍勢が王宮前から城門へ向かって流れ出す。
炎を象る紋章を胸に抱いた兵たちの列は、広場を出てもなお途切れることなく続いていた。
その様子を、高台に立つレオンが見下ろしていた。
王宮の外周を囲む石壁の上、風を遮るための欄干に片手を置き、彼は目の前の光景を黙って受け止める。
陽に焼けた石の匂いと、鎧に塗られた油の匂い、馬の息が混ざり合って上がってくる。
これだけの兵が一度に動くのは久しぶりだ。
炎獅隊は王太子直属の主力部隊。その一歩は、獅子国全体の意思として周辺諸国に伝わる。
彼らが力を示せば、国境沿いに潜む小国も、狼国ですら軽々しく牙を見せられない。
それでも、レオンの胸の内で膨らむのは誇らしさだけではなかった。
(今回は……もう誰も失わない)
喉の奥に押し込んだ声が、風に紛れるほど小さく洩れる。
幼い頃、王妹リアナの出立を同じ場所から見送った記憶が、火の粉のように蘇る。
あの日も、炎獅隊の一部が護衛として随行した。
誓いを胸に出ていった彼らの何人かは、二度とこの城門をくぐることはなかった。
戦はいつも、守るために始まる。
だが、守る相手が増えれば増えるほど、燃え広がる炎も大きくなっていく。
広場の喧噪が、軍勢の退行と共に段階的に薄れていく。
角笛の響きはやがて途切れ、代わりに遠ざかる行軍の足音が地を伝って届いた。
レオンは欄干から手を離し、拳を握り込む。
紗世の顔が脳裏に浮かんだ。
政に押し潰されるようなやり取りをしてしまったあの部屋。
『私はモノではない』と主張した彼女。
炎を上げ、彼女を傷つけた自分。
今、広場を出ていく兵たちは、国を守るための炎だ。
だが、胸の内で荒ぶる炎はどうだろう。
国を守るために掲げたはずの強さが、聞くべき声を焼き尽くそうとしてはいないか。
(守りたいと願うほど、炎は荒ぶろうとするのか)
矛盾が、胸の内で形を変えながら居座る。
王太子としての自分は、この行軍を止めない。止めれば、狼国に隙を見せることになり、国境の民を危険に晒す。
一方で、ひとりの男としての自分は、これ以上誰かを炎に呑ませたくないと叫んでいる。
石壁の下では、兵たちの列が城門をくぐり、王都の大通りへと流れていく。
通り沿いの家々の窓から、人々が身を乗り出し、行軍の列を見送っていた。
手を振る者、胸の前で両手を組む者、ただ静かに頭を下げる者。
それぞれの仕草に、それぞれの祈りが込められている。
誰もが、戻ることを願っている。
その願いの重さが、炎獅隊の鎧へ幾重にも積もっていくかのようだった。
「殿下、出立の刻は定めました」
背後から声が届く。
振り向けば、副官のひとりが控えていた。
「ラガン将軍率いる近衛の一部も、追って合流するとのこと。王都防衛の布陣については、マーリス殿とカリナ殿が調整中です」
「そうか」
レオンは短く答えた。
声が自分のものではないように遠く感じる。
王都を守るためにも、王宮を空にし過ぎるわけにはいかない。
番を巡る政争、狼国との緊張、王の容体。
どれひとつとして軽いものはない。
それでも――炎獅隊の背中が視界から消えかけたとき、レオンはふと空を仰いだ。
雲ひとつない青の高みを、刻印鳥が一羽横切っていく。
次の報せは、勝利か、さらなる火種か。
どちらであれ、この行軍が国の形を変えることになる。
そして、紗世の未来もまた、その変化から逃れられない。
(戦の炎に、彼女を巻き込みたくはない。だが、俺が炎を掲げる限り、彼女はその光の中に立たされる)
言葉にならない思いが、胸の内でせめぎ合う。
高台を吹き抜ける風だけが、熱を帯びた思考を冷ますように通り過ぎていった。
戦への流れは、もう誰にも止められない。
その事実だけが、レオンの胸に沈んでいった。




