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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第十章 ・燃える境界線

 王宮の高みを切り裂くように、空から影が降りてきた。

 刻印鳥だ。霊脈に沿って飛ぶ伝令用の鳥が、炎を模した紋章の刻まれた筒を脚に結わえつけている。

 広間の中央に据えられた円卓には、すでに重臣たちが並んでいた。

 天井近くまで積み上がる柱には獅子の紋が彫り込まれ、壁一面には戦の歴史を描いた掛け布が連なっている。赤と金を基調としたその空間は、晴れの日には威厳を示す舞台となるが、今は重苦しい圧を増幅させる箱にも思えた。

 刻印鳥を受け取った兵が、玉座下の席へと早足で進み出る。

 筒から取り出された羊皮紙が、乾いた音を立てて広げられた。

「獅子国西方巡回隊、狼国兵の襲撃を受ける――被害軽微」

 読み上げた声が、わずかに震える。

 その短い文言だけで、この国にとってどれほど危うい報せかを誰もが理解していた。

 円卓の端で、老将ガルシュが身を乗り出す。日に焼けた額には幾筋もの皺が刻まれ、その目には幾度となく戦場を渡ってきた年月の重みが宿っていた。

「その書状をこちらへ」

 兵が両手で差し出した羊皮紙を受け取り、ガルシュは走り書きされた状況報告を一つひとつ確認する。

 戦場の地名、隊の編成、戦闘に至る経緯。そこまでは常の報告と変わらない。

 だが、武器の項で指が止まった。

「この報告、腑に落ちん。発見された武器……鍛えたばかりの刃のように新しい。それに、狼の印章まで刻まれておるが……見せつけるように柄の正面に打ち込んであるではないか」

 眉間に寄った皺が、深くなる。

 隣の席にいた文官が、別の紙束を差し出した。

「被害状況報告も、ご覧ください。巡回隊の負傷は軽傷ばかり。奇襲にしては、不自然なほど浅い切り傷が多いのです」

 紙に記された負傷の場所――腕、脚、肩。致命傷に至る急所が、きれいに外されている。

 重臣たちの間に、低いざわめきが広がりかけた、その刹那だった。

「これは狼国が王妹殿下の件を蒸し返した証左!」

 鋭い声が、円卓にぶつかる。

 発したのは、深紅の衣をまとった宰相オルディスだった。

「陛下の御病状が優れぬ今、我が国を試しているのです。獅子の炎が弱ったと見くびり、牙の鋭さを誇示している!」

 卓を叩いた拳がわずかに震え、杯の水面に波紋が走る。

 彼の言葉は強硬派の耳に心地よい火種となり、若い武官たちの胸へ次々と落ちていく。

「報復を!」

「このまま黙っていられるか!」

「王妹殿下を奪われた件も、同時に清算すべき時だ!」

 押し殺していた怒りが一気に噴き上がった。

 肩を反らし、拳を握りしめて叫ぶ若者たちの鎧が、金属同士の触れ合いでざらついた音を立てる。

 一方、長年国境の土と血の匂いを知るガルシュは、周囲の熱を冷ますように静かに口を開いた。

「落ち着け。狼国が本気で仕掛ける時は、こんな粗い布陣は取らぬ。あいつらは、もっと徹底して喉笛を狙ってくる。これは……あまりにも分かりやす過ぎる」

 己の経験に照らし合わせた違和感が、声色に滲む。

 だが、その冷静な指摘は、すでに沸き立った空気の中で掻き消されかけていた。

 王宮の石床に、見えない熱が広がっていく。

 〝戦〟という二文字が、獅子の民の血にとってどれほど強い誘いであるか、誰もが知っている。

 円卓から一歩下がった位置で、レオンは黙して一連のやり取りを見つめていた。

 炎を象る金糸の肩章に、窓から射す朝の光が淡く差し込み、その横顔を輪郭だけ浮かび上がらせる。

 手元には、先ほど受け取った巡回隊の詳細報告。

 紙に記された文字は冷たいのに、その裏側にある血の色だけが、生々しく胸に残る。

(……動き出したな)

 心の内でそう呟いた瞬間、背筋をなぞるものがあった。

 誰の意思でも止められない方向へ、国そのものが傾いていく感覚。

 それは、幼いころから何度も見せられてきた歴史書の一節と同じ匂いをまとっていた。

「陛下に、ご進言申し上げるべきです!」

「狼国への牽制としても、討伐軍の編成は避けられぬでしょう」

「王太子殿下自ら出陣されれば、諸国も軽々しく動けまい」

 次々と飛び交う言葉が、円卓の上空で渦を巻く。

 それぞれの主張に、自らの立場と損得が滲んでいるのをレオンは感じ取っていた。

 国境付近の商いに利権を持つ者は、戦を避けたい。

 軍功を渇望する若い将は、戦場に立つ機会を欲している。

 オルディスのような政治家は、王家への忠誠を示す場として戦いを利用したい。

 それぞれの思惑が、狼国という外敵という形でひとつの方向へ押し出される。

 円卓の奥で、老医師が跪いたまま身じろぎもせずにいる。

 王の容体が記された報告書は、別の卓に伏せられていた。

「……陛下の脈は、昨夜からさらに弱まっております。激しい動揺を与えるのは得策ではありません」

 掠れた声での進言は、広間の熱の中ではあまりに細い。

 しかし、その一言が示す現実は残酷だった。

 王の炎は、いつ消えてもおかしくない。

 その事実が、逆に重臣たちの焦りを煽っている。

「ゆえにこそ、殿下には早急に〝炎の継承者〟としての威をお示しいただかねばならぬ!」

 オルディスが再び声を強めた。

 その目の奥には、王亡き後の権力地図を描いている気配がある。

「狼国に膝を折らぬためにも、番の件と併せ、ここで明確な方針を――」

 紗世の名を出しかけたのか、そこで言葉を飲み込んだ。

 わずかな沈黙の間に、レオンの胸の内でなにかが軋む。

 昨夜の光景が甦る。

 政を理由に紗世の想いを切り捨てるような言葉を投げ、炎を噴き上げた自分。

 『私はモノではない』と震えながらも前進で主張した人間の娘。

 あの部屋で生まれた亀裂はまだ浅い。だが、あのまま放置すれば簡単に深くなっていくことを、レオンは本能で分かっていた。

 だが、広間を満たす声は、それすら呑み込もうとしている。

「王太子殿下、ご決断を‼」

 円卓の周囲に並ぶ重臣たちの視線が、一斉にレオンへと集まる。

 期待と不安と打算が混じり合った熱が、肌に刺さる。

 レオンは音もなく立ち上がった。

 椅子の脚が石床をこすり、小さな音を立てる。

 その音だけで、広間のざわめきがすっと引いていく。

 胸の内では、ふたつの思考がぶつかり合っていた。

 王太子としての計算。

 今ここで狼国への対応を曖昧にすれば、王家は弱腰だと見なされる。

 炎の民は、一度でも弱いと断じた相手を、二度とまともに見ようとはしない。

 一方で、ひとりの男としての感情。

 これ以上、紗世を政の駒として扱えば、二度と彼女の笑顔は戻らない気がした。

 朱雀祭の夜、朱の灯の中で見た彼女の横顔は、己の胸に思っていた以上に深く刻まれていた。

(どちらを選んでも、なにかを失う)

 その予感だけが、酷く鮮明だった。

「……まずは、真相の精査だ」

 ようやく押し出した声は、広間の天井まで届く。

「狼国が本当に牙を剥いたのか、それとも――別の思惑が絡んでいるのか。ガルシュ、国境付近の霊脈の乱れも含めて調べろ。巡回隊には追加の護衛を送れ。ただし、全面衝突は避ける」

 戦を望む者たちから、不満の唸りが漏れた。

 それでも、王太子の命が出された以上、正面切って反対できる者はいない。

 レオンは続ける。

「報復は最後の手だ。炎は、振り上げたときよりも、納められなかったときに国を焼く」

 その言葉は、己自身への警告でもあった。

 昨夜、納めきれなかった炎がどれほど周囲を傷つけるか、身をもって知ったばかりだからだ。

 会議は一応の方向性を得て散会となった。

 しかし、広間を出てもなお、廊下のあちこちで兵たちが声を潜めて囁き合っている。

「戦支度はどうなる?」

「王太子軍は動かぬのか?」

「人間の娘の件もある。外聞を気にしているのでは……」

 そうしたさざめきが、王宮の石壁を通じてじわじわと広がっていく。

 レオンは窓辺に足を止めた。

 ガラス越しに見下ろす王都は、まだ朝の光の中にある。

 それなのに、城門の近くでは兵が走り、武具を運ぶ姿が目立ち始めていた。

(火種は……もう戦端へと変わりつつある)

 握りしめた拳に、爪が食い込む。

 自分のひと言でさえ、この流れを完全に止めることはできない。

 政治の渦と軍の熱、その両方が王宮を包み込み、見えない炎が城の隅々にまで染み込んでいく。

 そして、その炎はおそらく――、

(紗世も、巻き込む)

 その未来図が、頭の中で輪郭を持ち始める。

 それを払おうと瞼を閉じても、消えてくれなかった。

 燃える境界線は、すでに引かれている。

 国と国の間だけではなく、王太子としての自分と、ひとりの男としての自分との間にも。

 どちらの側に立つのか。

 あるいは、その線を越えてしまうのか。

 答えの出ない問いだけが、レオンの胸の内で熱を持ち続けていた。


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