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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第九章・炎に呑まれる声

 胸の奥に積もっていた言葉を、押し出すようにして紗世は口を開いた。

「私は、誰かの役に立ちたいんです。でも、そのために自分を捨てたくはありません」

 迷いからではない。これまでの生き方そのものを切り出して差し出すような声だった。

 その一言に、目の前の男の気配が変わる。

「――贅沢を言うな!」

 叩き付けられた怒声が、部屋の空気を一変させる。

 次の瞬間、熱が立ち上がった。

 床板の下から、壁の内側から、天井近くから、あらゆる場所で炎の気配が膨らみ、部屋という器そのものが火口になったかのように温度が跳ね上がっていく。

 壁際の布がひるがえり、縁が赤く染まる。

 飾り棚の金具が熱を帯び、指輪に似た光が一瞬だけ走った。

 乾いた木の匂いに焦げの匂いが混じり、息を吸うだけで喉が焼けるようだ。

 廊下の向こうで、誰かの小さな叫びがこだました。

「また王太子殿下の炎が――!」

「近寄るな、巻き込まれるぞ!」

 慌てて足音が遠のいていく気配がある。

 恐怖と警戒が、王宮全体へ波紋のように広がっていくのが分かる。

 それでも、紗世の目に映ったのは周囲ではなかった。

 燃え盛る空気の中心で、炎に呑まれそうになっているただひとりの男だった。

 レオンの肩は緊張で固まり、握りしめた拳の骨が白く浮き上がっている。

 金の瞳は荒れた炎の色を帯びているのに、その奥にあるものは違って見えた。

(どうして、そんな顔で怒るの?)

 怒りに燃やされている、というよりも。

 炎に追い立てられ、逃げ場を失っているような表情だった。

 胸の奥が軋む。

 足は震えそうなのに、後ずさることはできなかった。

 この場から離れれば熱からは逃げられる。けれど、目の前の男が抱えているなにかから目を逸らしたら、きっと二度と届かなくなる。

 それが分かってしまったからだ。

 熱波が肌を刺し、髪の先が乾いた風に持ち上げられる。

 眉の際に汗が浮かび、滴り落ちそうになる。

 それでも紗世は、握りしめた手をゆっくりと開いて下ろした。

「私は……」

 炎が耳元で暴れるような音を立てる中、その声だけがまっすぐに伸びていく。

「あなたに、怒鳴られたいわけじゃありません」

 レオンの目がわずかに大きくなる。

 その反応を確かめる余裕もなく、紗世は続けた。

「私は、誰かの役に立ちたい。ここで暮らして、できることがあるならそうしたい。でも、そのたびに自分の気持ちを潰して、『仕方ない』って飲み込む人生には戻りたくないんです」

 元の世界で重ねてきた日々が脳裏に浮かぶ。

 家族の事情で進路を変えた夜。

 会社の方針だからと、何度も無言のまま受け入れさせられた決定。

 「あなたなら耐えられる」と笑顔で告げられ、その言葉がいつの間にか「あなたの気持ちは二の次」という意味に変わっていたこと。

「自分を捨てて誰かの役に立つのは、もう嫌なんです」

 よろめきそうになる心を、紗世は言葉で支えるように重ねていく。

「だから、そういう生き方が『贅沢』だと言われるなら、私はきっと、この国とは合わないんだと思います」

 言い切った瞬間、熱の重さが一段と増した。

 床がみしりと鳴り、壁にかけられた紋章旗の布が、熱風に押されて膨らむ。

 レオンの双眸が燃え立つ炎を映し、紗世をまっすぐ捕らえた。

 怒りと、苛立ちと、焦りと、それから名前のつかない感情の影。

 燃え上がる空気の中で、ふたりの呼吸だけがやけに鮮明に聞こえた。

「……お前は、自分の立場を分かっていない」

 低く押し殺した声が、熱のうねりの中に落ちる。

 レオンは額に手を当てることもできず、ただ拳を握りしめたまま続けた。

「王の番は、国の命脈だ。血と加護と炎をつなぐ楔だ。そこに生き方などという主張を持ち込むな」

 口から出た言葉は、冷酷に響く。

 だがその実、ひとつひとつが自分自身へ向けた刃にもなっていた。

(俺は、そんな主張を捨てて、ここまで来たのだ)

 幼いころから、そう教えられてきた。

 王家の子は自分の生き方を選べない。

 国のために使われることそのものが、存在の意味だと。

 妹――リアナが命を落とした時も、レオンに与えられたのは悲しむ時間ではなく、「王太子として振る舞う」という役目だけだった。

 悲嘆に膝をつきたかった。

 それでも、炎の王としての顔を保つことを優先した。

 そうして燃やしてきた炎は、いつの間にか自分の内側まで焼き始めていた。

「……あなたは……」

 紗世の声が、その炎の縁をなぞるように響く。

「私にはあなた自身が、その炎にいちばん燃やされているように見えます」

 短い一言だった。

 それだけなのに、熱の奔流に亀裂が入ったような感覚が走る。

 レオンの肩から力が抜け、周囲の空気に満ちていた圧が、じわりとしぼんでいく。

 床を撫でていた熱が引き、壁を薄く染めていた赤も、徐々に本来の色へ戻っていった。

 王宮全体が、安堵と緊張をないまぜにした息をついた気配がする。

 廊下の向こうで、誰かがひそやかに祈りの言葉を口にした。

(俺を焼いてきたのは、外からの炎ではなく、自分自身の火だったのか)

 胸の奥で、その理解が突き刺さる。

『強くあれ。弱さを見せるな』

『己の心を削ってでも立ち続けろ』

 それらは、これまでレオンを支えていた呪文だった。

 同時に、いつしかその呪文が縄となり、喉と心臓を締め上げていたのかもしれない。

 紗世は、それ以上なにも言わない。

 責め立てることも、説き伏せようとすることもせず、ただレオンを見つめていた。

 怯えているわけでも、憎しみを向けているわけでもない。

 炎に焼かれた心の奥を見ようとしている、冷静な眼差しだった。

 その眼差しから逃げたくなかった。

 逃げてしまえば、これまで積み上げてきた強さが、空っぽだったと認めることになる気がした。

「俺は――」

 レオンは口を開く。

 だが、言葉は続かない。

 なにかを言いたいのに、なにを言えばいいのか分からなかった。

 謝罪を口にすれば、政を軽んじたことになるのではないかという恐れが喉を塞ぐ。

 政を盾にすれば、目の前の娘の心を踏みにじることになると知っている。

 内側で相反する二つの義務がぶつかり合い、どちらの言葉も出口を失っていた。

 紗世は、一歩だけ後ずさる。

 それは怯えではなく、これ以上は踏み込んではいけない線を感じ取ったからだ。

「……王族を守りたい気持ちも、この国を守りたい気持ちも、本当なんですよね」

 問いかけではなく、確認するような言い回し。

 レオンは短く頷いた。それだけで、喉の奥が焼けるように痛くなる。

「そのために、自分を燃やし尽くさないといけないと、ずっと思ってきたんですね」

 穏やかな声音に、責める色はなかった。

 理解しようとする言葉が続くことが、かえって胸に刺さる。

「でも、それであなたが壊れたら……この国は誰が守るのでしょうか?」

 紗世の問いに、すぐ答えられる者はここにはいない。

 王も、重臣も、兵も、預言も、この部屋にはいない。

 いるのは、炎に呑まれかけた王太子と、その炎をまっすぐに見つめる異界の娘だけだ。

 レオンは片手で顔を覆った。

 その仕草は、気高く力強い炎の王ではなく、苦悩に苛まれるひとりの男のものだった。

「出ていけ」

 絞り出すような声が、空間を震わせる。

 冷たく突き放す響きの裏側に、これ以上見られたくないという切実な防御があった。

 紗世は小さく会釈をした。

「分かりました」

 踵を返し、扉へ向かう。

 足首に絡みついていた熱はすでに消えているはずなのに、歩みは重かった。

 扉に手をかける前、一瞬だけ振り返りそうになる。

 それでも、紗世はその衝動を飲み込み、まっすぐ前を向いた。

 ここで立ち止まれば、自分も炎の中へ引き戻されてしまう気がしたからだ。

 扉が開き、外の冷えた空気が細い筋となって部屋へ流れ込む。

 紗世の姿が廊下に消えたあと、室内には焦げの匂いだけが薄く残った。

 レオンはひとり、その場に立ち尽くす。

 床にはもう炎の跡はない。

 それでも、自分の胸の内には焼け跡が残っていた。

(……このままでは、誰かが壊れてしまう)

 紗世が感じたていたものと同じ予感が、遅れてレオンの胸にも沈む。

 だけど今は、その先に続く言葉を持たない。

 炎の王と異界の娘。

 ふたりの衝突は、まだ始まりにすぎない。

 この部屋で燃え上がった火が、やがて戦の火種と絡み合っていくことを――今の彼らは、まだ知らないままだった。


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