プロローグ・国境の朝に咲く願い
国境線に沿って広がる牧草地は、朝の風に撫でられて、色を塗り替える絵筆のように表情を変えていた。
露を含んだ草は淡い銀をまとい、日の昇り始めた東の空は、青と金のあいだでゆっくりと濃度を変えていく。
見張り台の上、高く掲げられた王国旗が大きく翻り、その影が草原を斜めに横切った。
夜気の冷たさがまだ頬を刺すのに、不思議と胸の内は晴れやかだった。
リアナは、しっかりと両脚で馬腹を挟み、背筋を伸ばす。
肩の下まである金の髪は、儀礼のために丁寧に結い上げられている。
まだ齢十五の少女らしい丸みを残した横顔に、王家の紋を織り込んだ外套の赤が映えていた。
瞳の奥には幼い頃から見てきた〝王族〟という立場の重さと、それを自らの手で支えたいという決意が、静かな線となって刻まれている。
緩やかな丘陵をひとつ隔てた先では、兵たちが出立の準備を進めていた。
革鎧の擦れる音。
馬の嘶き。
金具が触れ合う乾いた音。
それらが、規律ある気配として辺り一帯に広がっている。
手綱を握る掌に伝わる馬の熱と鼓動が、これから始まる一日の重みを教えてくるようだった。
(今日から、私は兄様のただの妹ではいられない)
胸の内で密やかに言葉を形にする。
兄王子の背中に憧れて走ってきた年月が、今朝の冷たい空気と混ざり合う。
そして、ひとつの節目として輪郭を帯びていく感覚があった。
鞍に結わえた革の鞄から、小さな日記帳を取り出す。
手袋を外し、素肌の指先で表紙をなぞる。
深い青の革に押された王家の紋章は、彼女が十歳の誕生日に兄から贈られたものだ。
まだ文字も拙かったあの日から、リアナは嬉しさと誇らしさをごちゃ混ぜにしながら、この帳面に日々の思いや願いを書き綴ってきた。
(兄様……いいえ、兄上。今日のことこそ、最初の一頁にふさわしいですよね)
ぱらりと表紙をめくると、その裏には幼い文字が跳ねるように並んでいた。
《早く兄様のおそばで役に立ちたい》
《国を守る人になりたい》
消えかけたインクのひとつひとつに、過去の自分の息遣いが重なり、胸の奥に熱が集まった。
新しい頁を開き、腰に差した細いペンを取り出す。
筆先を走らせる前に、リアナは一度、国境の向こうへと視線を上げた。
山並みが緩やかな稜線を描きながら連なり、折り重なった色が朝靄の向こうに淡く溶けている。
あの山の向こうに、王都で地図を眺めているだけではわからなかった領土の暮らしがある。
守るべき民の生活がある。
(兄上。言葉にできなかった想いを、ここに残します)
心の中でそう告げると、迷いがすっと消えた。
《私は、いつか兄上と肩を並べてこの美しい国を守ります。この晴れやかな朝を、未来の始まりと信じています》
羽根ペンの細やかな音が、草原を渡る風のリズムに重なる。
羊皮紙に刻まれた文字は、東から差し込む日の筋を受け、淡く金を含んだ影を落とした。
書き終えた瞬間、胸の奥に灯った小さな炎が、緊張に固くなっていた身体を内側から温めていく。
国境視察という言葉にまとわりついていた不安は、現実として形を持ったことで、むしろ心地よい張りつめた感覚へと変わっていった。
日記帳を慎重に閉じると、リアナは外套の内側にある小さな内ポケットにそれをしまい込む。
そこには、兄から授かった手紙や、大切な護符だけを収めている。
胸のすぐ上に硬い表紙の存在を感じながら、彼女は手綱を握り直した。
本来なら、斜め後ろからからかうような声が飛んでくるはずだった。
『緊張で顔が固まっているぞ、リアナ。そんな顔で兵を率いたら、不安が伝染する』
少し笑いを含んだ青年の声が、耳の奥によみがえる。
レオンの姿は、今日、この場にない。彼は王都に残り、王自らが命じた別任務に就いている。
馬を操る彼の背を追って走った訓練場。へとへとになった時に差し出された水筒。ふとした折に投げられる、皮肉まじりの励ましの言葉。
それらを思い出すと、不意に心細さが首筋を撫でたが、リアナは小さく首を振った。
「……大丈夫。今日の私は、兄上の妹である前に、この国の王女です」
誰にも聞こえない声でそう呟く。すると背筋が自然と伸びた。
王族として国の境を自らの目で確かめる――それは幼い頃、兄の背中ばかり追いかけていた自分が、いつか必ず果たしたいと願った約束のひとつだった。
隊長格の騎士が先頭で号令をあげる。
列が動き出し、馬の蹄が湿った土を踏みしめる音が、朝の静けさを切り開いていく。
リアナは馬首を並べる位置に進み、振り返って護衛部隊と従者たちの顔ぶれを確かめた。その一人ひとりの存在が、自分を支える盾であると同時に、自分が守るべき命でもあることを思い、胸の炎がさらに強くなる。
◇◇◇◇◇
同じ頃、王都の訓練場では、石畳に、朝露が縫いとるように細い光の跡を残している。
レオンは、人影の少ない隅に腰を下ろし、稽古を終えたばかりの剣を布で拭っていた。
鍛錬の熱が残る掌に、冷えた金属の感触がじわりと伝わる。
目の前の景色はいつも通りで、兵士たちは交代で走り込みに向かい、教官の声も規則正しく響いている。だが、彼の意識は別の場所に半分ほど引き寄せられていた。
(あの子なら、きっとやり遂げる)
リアナが昨日、視察の説明を受ける席で浮かべた表情を思い出す。
大きな誇らしさとほんの少しの不安と期待が入り混じった、年相応の顔つき。
それでも、その目は真正面から任務を見据えていた。
(あの目を見てしまった以上、引き止める理由なんて、もうどこにもなかった)
自嘲気味に笑おうとして、口元の動きが途中で止まる。
喉の奥に言葉にならないざらつきが引っかかった。
剣の刃をなぞる指の動きが不自然に止まり、レオンはふと顔を上げる。
空気の層が、薄い膜を重ねたように歪んでいた。
訓練場の端、古い石壁の向こう――そこに広がる見えない流れが、ほんのわずかに軋む。
霊術師として鍛えられた感覚が、その違和感を逃さない。
地面に吸い込まれていく霊脈の線が、一瞬だけ逆流したような感覚が走り、レオンは手にした剣を思わず握り直した。
(……今のは)
霊脈の乱れは、生き物が息を潜める時のように、世界の奥で密やかに起こる。
普段であれば見過ごす程度の揺らぎで、わざわざ報告書に記す必要もない些細な変化だ。
だが今日は、微かな波が何度も同じ場所を打っては返しているような、不自然な波長があった。
(国境の方角か?)
頭の中で地図を思い描く。王都から放射状に延びる霊脈の線。そのうち一本が、北の境界付近でわずかに濁って見える。気のせいと言い切るには、今しがた送り出したばかりの少女の顔が鮮明すぎた。
(いや……大丈夫だ。あの子には、王家直属の護衛部隊がついている)
自らに言い聞かせるように紡いだ言葉は、嘘や気休めではない。護衛の騎士たちは、王都の中でも選りすぐりの精鋭だ。リアナの剣術の師も、その一人として同行している。
(それでも……)
胸の奥で、説明のつかないわだかまりが形を持ち始める。
幼い頃、初めて霊術の才を示した時、師から教えられた言葉が脳裏によみがえった。
『理屈では説明できない違和感ほど、見逃すな。世界の綻びは、大抵そこから始まる』
気のせいだと切り捨ててしまえば、何事も起こらないかもしれない。だがもし、この胸騒ぎの先に小さな兆しが潜んでいるのだとしたら――。
レオンは立ち上がり、剣を鞘に収めた。
訓練場を一望できる位置まで数歩進み、北の空を仰ぐ。そこには、王都の朝を照らすいつも通りの青が広がっていた。
空雲の切れ間から差す陽の道筋も、兵士たちの笑い声も、なにひとつ変わったところはない。
(……帰ってきたら、真っ先に顔を見に行こう)
そう決めることでしか、このざらつきを持て余せない自分がいた。
いつも通りの調子で皮肉を飛ばし、いつも通りの調子で「よくやった」と褒めてやろう。
それが、今の自分にできる唯一のことのように思えた。
◇◇◇◇◇
その頃、国境では――。
隊列は牧草地の一角に差しかかっていた。丘を背に、低い石垣が続く。その先には、他国との境を示す境界標が点々と立っている。
湿った土の匂いと、刈り取られた牧草の青い匂いが混ざり合い、朝の空気を満たしていた。
リアナは、馬を進めながら辺りの様子を目に焼きつけていく。石垣に刻まれた古い刻印、見張り台に立つ兵士の表情。遠征に同行した書記官が、携えた板に細かな文字を書き込んでいるのも見えた。
(この境を越えないことが、何人もの夜を守ってきた)
王都で地図を眺めていた時には、ただの線としてしか認識できなかった境界が、今は生々しい存在感を持って迫ってくる。
人の暮らしと暮らしを分け、時に争いをもたらし、時に平穏を保ってきた線。
その両側には、同じように朝の支度をする誰かがいるのだと考えると、胸の奥でなにかが軋んだ。
(私も、兄上のように、この線の意味を理解できる人間にならなければいけない)
そう思うからこそ、この視察は彼女にとって、ただの見学では終わらない。
王家の一員として、ここに立った実感と重みを、日記に、そして心に刻んでおく必要があった。
小休止の合図がかかり、隊列が一旦速度を落とす。リアナは馬から降り、足元の土を踏みしめた。
乗馬靴の下で湿った大地がわずかに沈み、その感触が直に伝わる。
護衛の騎士がすぐ傍らに控え、辺りの安全を確かめている。
その心遣いが頼もしくもあり、自分が守られる側であることを思い知らされるようでもあった。
(いつか、この足で前線に立つ日が来るなら――)
リアナは胸元に手をあてた。
外套の下、生地越しに日記帳の硬さが触れる。
そこには、今朝綴ったばかりの言葉が眠っている。兄と肩を並べたいという願い。国を守る者として在りたいという祈り。その両方が、幼い筆致だった頃から一度も揺らいだことはない。
見上げた空は、濃さを増した青で一面を満たしていた。
雲の端が陽を受けて白く縁取られ、風に押されるように流れていく。
今日という一日が、このまま穏やかに終わることを、その景色は当たり前のように約束しているかのようだった。
――この時、誰も知らなかった。
牧草地のさらに奥、視界の届かない地平の向こう側で。
世界の深層を走る霊脈に、小さな皺が刻まれつつあることを。
静まり返った土の底で芽吹いたその歪みが、やがて国境を、そして王国そのものを試す試練へと繋がっていくことを……。




