穢れた手に触れられて
廊下を歩くユウの後ろで、イーライがためらいがちに口を開いた。
「……控え室には、キヨ様がお待ちです」
その言葉に、ユウの足がぴたりと止まる。
空気が一瞬、冷えた。
「あの男が?」
ユウの瞳に、怒りと戸惑いの色が走る。
イーライはすぐに一歩前に出て、頭を下げた。
「事前にお伝えした方が良いと、思いまして」
「……そう」
短く返した声は、静かだったが、わずかに震えていた。
ーーイーライは命じられた任務を行っただけ。
責めることはできない。
そう理解しても、感情が乱れる。
イーライは胸に手を当て、低く続ける。
「私も近くにおります。――それに、エル様も。二人きりにはいたしません」
そのすぐ後ろから、静かな声が重なった。
「私も、近くにおります」
シュリが低く、しかしはっきりと告げた。
ユウは振り返る。
朝の光を受けたシュリの瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。
その視線に、ユウの緊張がわずかにほどける。
拳を握りしめた指先が、ほんの少し緩む。
「……ええ。心強いわ」
ユウが小さく答えると彼女は顔を上げた。
怒りはまだ胸の奥にくすぶっている。
けれど、その瞳には恐れも迷いもなかった。
「行きましょう」
ユウは前を向き、歩き出した。
その背に、朝の光が静かに差し込んでいた。
◇
控え室の扉が開くと、空気が一瞬、張り詰めた。
キヨは振り向き、息を呑む。
その場に立つユウを見た瞬間、全身が固まった。
淡い水色のドレス。
銀糸が朝の光を受けて揺れ、白い首元には青のリボンが凛と結ばれている。
――まるで、シリ様だ。
キヨの喉がひくりと鳴る。
言葉を探すより早く、胸の奥が熱くなった。
「……来てくれた……」
声が震える。
ユウは静かに頷いた。
「お見送りに参りました」
その声は澄んでいて、微塵の揺らぎもなかった。
キヨは数歩、近づいた。
その目は焦がれるようにユウを見つめ、低く呟く。
「……お美しい。本当に……お美しい」
言葉の端が震え、息に熱が混じる。
背後でイーライがわずかに身構え、シュリがユウの方へ半歩、踏み出した。
ユウはそれに気づき、片手を軽く上げて制した。
「ありがとうございます」
ゆるやかに頭を下げたその仕草は、完璧に礼を尽くしていた。
だが、その瞳だけは冷ややかに澄んでいた。
「これから、わしは国王を目指して励む」
キヨはコホンと空咳をした。
――この男が、国王に?
ユウは思わず怪訝な表情を浮かべてしまう。
湧き出た感情は。隠しきれなかった。
「今は笑い話かもしれない。けれど、成し遂げたい夢なのじゃ」
キヨは胸を張り、どこか誇らしげに笑った。
「はい」
ユウは淡々と答える。
その声には、何の感情も宿っていなかった。
キヨは咄嗟にユウの手を取った。
「ユウ様が十八になるまでに、わしは国王になる」
ユウの喉がひゅっと鳴る。
何か言葉を返そうとしても、声にならなかった。
「国王になったら……ユウ様にお話ししたいことがあります」
キヨの濁った茶色の目が、彼女を真っすぐに見つめた。
その視線に、ユウの背筋が冷たくなる。
その目は、娘を見る父のものではなかった。
ーー理解したくない。
だが、キヨが何を言おうとしているのか、ユウにはもう分かってしまっていた。
ベタつく掌の感触に、背筋がぞくりと冷える。
あらゆる礼節を忘れぬように、ただ静かに手を引こうとした。
「それでは、行って参る」
名残惜しそうに、キヨはその手を離し、背を向けた。
裾がひるがえり、重い足音が遠ざかっていく。
ユウはその背中を見つめたまま、何も言わずに唇を結んだ。
控え室に残されたのは、震えるユウと、イーライ、シュリ。
そして、ヨシノは入口に立ち尽くしていた。
彼女の足も、わずかに震えている。
「……気持ち悪い」
ユウは、キヨに触れられた手のひらを何度も、何度もドレスで拭った。
拭っても拭っても、あの湿った感触が離れない。
「あの男が、国王だなんて」
吐き捨てるように言うと、ユウは顔を上げた。
「戯言よ!」
叫ぶ声が控え室の壁に反響した。
強大な力を持つ叔父でさえ、手に入れられなかった王位。
それを――あんな卑しい男が?
成し遂げたらーー私を……。
想像するだけで吐き気がした。
「ユウ様」
ヨシノがそっと、水を汲んだブリキの洗面器を差し出す。
ユウはドレスが濡れるのも構わず、乱暴に手を突っ込み、何度も手を洗った。
冷たい水が、肌に染みる。
それでも、心の奥の穢れまでは洗い流せない。
その様子を、シュリは黙って見つめていた。
ユウの背後に立つイーライの拳も、固く握られていた。
やがてユウは、深く息を吐いた。
「行くわ」
怒りを押し殺すように、低く言う。
◇
ユウは静かに、指定された場所に立った。
隣にはウイがいる。
城の女たちの先頭にはミミ、その背後には多くの妾たちが並んでいた。
キヨが、できる限りの威厳をかき集めて出陣の支度を整える。
その姿は逞しくもなく、領主としての輝きもなかった。
ユウの背後で、妾たちが声を上げる。
「お気をつけて!」
「キヨ様!」
涙声で手を振る女たちの中に、ユウはそっと目を伏せた。
白々とした想いのまま、ただそこに立ち尽くす。
家臣たちの行列が続く。
鎧の金具がかすかに鳴り、馬の吐息が白く空に消えていく。
ノアの姿が前を通るとき、ユウは救いを求めるように顔を上げた。
その強い瞳に、ノアは静かに頷く。
一瞬だけ、胸の奥に小さな安堵が生まれた。
だがすぐに、隣のウイの肩がわずかに震える。
彼女の視線の先には――リオウ。
ウイは息を止めた。
リオウがこちらを見る。
けれどその視線は、姉へ向いていた。
「リオウ様!」
ウイが叫ぶと、リオウは微笑んだ。
肩には、コク家の旗印を刺繍した布が巻かれている。
リオウは、その後、ユウをじっと見つめた。
強い眼差しに、ユウはわずかにたじろぐ。
どうしてよいかわからず、曖昧に頷いた。
その隣で、ウイの胸が小さく震えた。
胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。
ウイは視線を落とした。
戦へ向かう彼の背に、何かを言いたかった。
けれど、声が出なかった。
馬の蹄の音が響く。
ユウの横顔が朝の光に照らされている。
ウイはそっと手を握りしめ、何も言わずに見送った。
こうして、キヨたちは出陣した。
待ち受ける敵は――西領のジュン。
そして、レイの夫セージ。
ユウは小さく息を吐いた。
――今、この国で“王”に最も近い地位を持つのは、キヨか。
あるいは、西領のジュンか。
果たして、どちらが勝つのか。
勝敗は、五分五分。
勝っても、負けても。
傷つくのは、姉妹たちだった。
次回ーー明日の9時20分
出陣を見送った直後、ユウの胸に残ったのは“恐怖”と“罪悪感”だった。
ミミの優しさに触れながらも、キヨの執着が静かに迫る。
湖の風が冷たく吹き、ユウとシュリの胸に、言えない不安だけが積もっていく――。
「あの男に抱かれる日が来る」




