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穢れた手に触れられて

廊下を歩くユウの後ろで、イーライがためらいがちに口を開いた。


「……控え室には、キヨ様がお待ちです」


その言葉に、ユウの足がぴたりと止まる。


空気が一瞬、冷えた。


「あの男が?」


ユウの瞳に、怒りと戸惑いの色が走る。


イーライはすぐに一歩前に出て、頭を下げた。


「事前にお伝えした方が良いと、思いまして」


「……そう」


短く返した声は、静かだったが、わずかに震えていた。


ーーイーライは命じられた任務を行っただけ。


責めることはできない。


そう理解しても、感情が乱れる。


イーライは胸に手を当て、低く続ける。


「私も近くにおります。――それに、エル様も。二人きりにはいたしません」


そのすぐ後ろから、静かな声が重なった。


「私も、近くにおります」

シュリが低く、しかしはっきりと告げた。


ユウは振り返る。


朝の光を受けたシュリの瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。


その視線に、ユウの緊張がわずかにほどける。


拳を握りしめた指先が、ほんの少し緩む。


「……ええ。心強いわ」

ユウが小さく答えると彼女は顔を上げた。


怒りはまだ胸の奥にくすぶっている。


けれど、その瞳には恐れも迷いもなかった。


「行きましょう」

ユウは前を向き、歩き出した。


その背に、朝の光が静かに差し込んでいた。



控え室の扉が開くと、空気が一瞬、張り詰めた。


キヨは振り向き、息を呑む。


その場に立つユウを見た瞬間、全身が固まった。


淡い水色のドレス。


銀糸が朝の光を受けて揺れ、白い首元には青のリボンが凛と結ばれている。


――まるで、シリ様だ。


キヨの喉がひくりと鳴る。


言葉を探すより早く、胸の奥が熱くなった。


「……来てくれた……」

声が震える。


ユウは静かに頷いた。


「お見送りに参りました」

その声は澄んでいて、微塵の揺らぎもなかった。


キヨは数歩、近づいた。


その目は焦がれるようにユウを見つめ、低く呟く。


「……お美しい。本当に……お美しい」


言葉の端が震え、息に熱が混じる。


背後でイーライがわずかに身構え、シュリがユウの方へ半歩、踏み出した。


ユウはそれに気づき、片手を軽く上げて制した。


「ありがとうございます」


ゆるやかに頭を下げたその仕草は、完璧に礼を尽くしていた。


だが、その瞳だけは冷ややかに澄んでいた。


「これから、わしは国王を目指して励む」

キヨはコホンと空咳をした。


――この男が、国王に?


ユウは思わず怪訝な表情を浮かべてしまう。


湧き出た感情は。隠しきれなかった。


「今は笑い話かもしれない。けれど、成し遂げたい夢なのじゃ」

キヨは胸を張り、どこか誇らしげに笑った。


「はい」

ユウは淡々と答える。


その声には、何の感情も宿っていなかった。


キヨは咄嗟にユウの手を取った。


「ユウ様が十八になるまでに、わしは国王になる」


ユウの喉がひゅっと鳴る。


何か言葉を返そうとしても、声にならなかった。


「国王になったら……ユウ様にお話ししたいことがあります」

キヨの濁った茶色の目が、彼女を真っすぐに見つめた。


その視線に、ユウの背筋が冷たくなる。


その目は、娘を見る父のものではなかった。


ーー理解したくない。


だが、キヨが何を言おうとしているのか、ユウにはもう分かってしまっていた。


ベタつく掌の感触に、背筋がぞくりと冷える。


あらゆる礼節を忘れぬように、ただ静かに手を引こうとした。


「それでは、行って参る」

名残惜しそうに、キヨはその手を離し、背を向けた。


裾がひるがえり、重い足音が遠ざかっていく。


ユウはその背中を見つめたまま、何も言わずに唇を結んだ。


控え室に残されたのは、震えるユウと、イーライ、シュリ。


そして、ヨシノは入口に立ち尽くしていた。


彼女の足も、わずかに震えている。


「……気持ち悪い」


ユウは、キヨに触れられた手のひらを何度も、何度もドレスで拭った。


拭っても拭っても、あの湿った感触が離れない。


「あの男が、国王だなんて」

吐き捨てるように言うと、ユウは顔を上げた。


「戯言よ!」


叫ぶ声が控え室の壁に反響した。


強大な力を持つ叔父でさえ、手に入れられなかった王位。


それを――あんな卑しい男が?


成し遂げたらーー私を……。


想像するだけで吐き気がした。


「ユウ様」


ヨシノがそっと、水を汲んだブリキの洗面器を差し出す。


ユウはドレスが濡れるのも構わず、乱暴に手を突っ込み、何度も手を洗った。


冷たい水が、肌に染みる。


それでも、心の奥の穢れまでは洗い流せない。


その様子を、シュリは黙って見つめていた。


ユウの背後に立つイーライの拳も、固く握られていた。


やがてユウは、深く息を吐いた。


「行くわ」

怒りを押し殺すように、低く言う。



ユウは静かに、指定された場所に立った。


隣にはウイがいる。


城の女たちの先頭にはミミ、その背後には多くの妾たちが並んでいた。


キヨが、できる限りの威厳をかき集めて出陣の支度を整える。


その姿は逞しくもなく、領主としての輝きもなかった。


ユウの背後で、妾たちが声を上げる。


「お気をつけて!」


「キヨ様!」

涙声で手を振る女たちの中に、ユウはそっと目を伏せた。


白々とした想いのまま、ただそこに立ち尽くす。


家臣たちの行列が続く。


鎧の金具がかすかに鳴り、馬の吐息が白く空に消えていく。


ノアの姿が前を通るとき、ユウは救いを求めるように顔を上げた。


その強い瞳に、ノアは静かに頷く。


一瞬だけ、胸の奥に小さな安堵が生まれた。


だがすぐに、隣のウイの肩がわずかに震える。


彼女の視線の先には――リオウ。


ウイは息を止めた。


リオウがこちらを見る。


けれどその視線は、姉へ向いていた。


「リオウ様!」

ウイが叫ぶと、リオウは微笑んだ。


肩には、コク家の旗印を刺繍した布が巻かれている。


リオウは、その後、ユウをじっと見つめた。


強い眼差しに、ユウはわずかにたじろぐ。


どうしてよいかわからず、曖昧に頷いた。


その隣で、ウイの胸が小さく震えた。


胸の奥に、言葉にならない痛みが広がる。


ウイは視線を落とした。


戦へ向かう彼の背に、何かを言いたかった。


けれど、声が出なかった。


馬の蹄の音が響く。


ユウの横顔が朝の光に照らされている。


ウイはそっと手を握りしめ、何も言わずに見送った。


こうして、キヨたちは出陣した。


待ち受ける敵は――西領のジュン。


そして、レイの夫セージ。


ユウは小さく息を吐いた。


――今、この国で“王”に最も近い地位を持つのは、キヨか。


あるいは、西領のジュンか。


果たして、どちらが勝つのか。


勝敗は、五分五分。


勝っても、負けても。


傷つくのは、姉妹たちだった。

次回ーー明日の9時20分


出陣を見送った直後、ユウの胸に残ったのは“恐怖”と“罪悪感”だった。

ミミの優しさに触れながらも、キヨの執着が静かに迫る。

湖の風が冷たく吹き、ユウとシュリの胸に、言えない不安だけが積もっていく――。


「あの男に抱かれる日が来る」



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