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笑わない姫

「失礼します」


ユウの声は謁見の間の高い天井に響いた。


謁見の間に足を踏み入れたユウは、思わず息を呑んだ。


正面には、グラスを片手に笑みを浮かべるキヨ。

その隣に、端正な衣装に身を包んだミミが静かに控えている。


二人の眼差しが、同時に自分に注がれた。


領主の権威と、母のように慕ってきた女。

この場で逆らえるはずがなかった


「ユウ様、お元気そうで安心いたしました」

ミミの柔らかな声が響く。


だが、その笑みは逃げ道を塞ぐ網のように思えた。


「ほう……ようやく姿を見せおったか」

キヨの声は不気味に弾んでいる。


背筋を正したユウは、無理に微笑んで言葉を返した。


「お久しゅうございます」


――ここで逆らうことはできない。


籠もっていたあの部屋の中ならまだ拒めた。


だが、キヨとミミが揃ったこの場では、何を言っても無駄なのだ。


それでも。

せめて、妹たちを巻き込みませんように。


ユウはそう祈りながら、膝を折った。



面会は、あっさりと終わった。


部屋に戻ったイーライは、無言のまま茶の準備を始める。

ユウは静かに椅子に腰を下ろした。


「イーライ。お茶は嬉しいけれど……良いのよ」


「いえ、ミミ様から頼まれました」


ユウは小さくため息をつく。


「……ミミ様は優しいのね。すべてを見通しているわ」


イーライは静かに頭を下げ、ユウの好みの温度になるまで湯を確認した。


その几帳面な仕草を横目で見ながら、ユウはぼんやりと遠くを見つめている。


「ユウ様、今日はご立派な対応でした」

シュリが静かに口を開いた。


「立派ではないわ。でも、ミミ様が素晴らしいお人柄だから……」

言葉を選ぶように、ユウは続けた。


「あの男がいても、我慢できるのよ」


「どうぞ」

イーライが湯気の立つ茶を差し出す。


「ありがとう、イーライ」

ユウは穏やかに微笑んだ。


その笑みに、イーライは一瞬だけ目を伏せた。


「シュリも、イーライも……一緒にお茶を」


誘われた二人は、少し戸惑いながらも向かいに座る。


静かな湯気が三人の間に立ち上る。


今日もまた――奇妙なお茶会が始まった。




その夜――宴の間は笑いと香の匂いに満ちていた。


キヨは膝の上に二人の若い妾を抱え、グラスを掲げて笑い転げている。


「はっはっは! おぬしら、よい香りじゃのう! ほれ、もう一杯!」


妾たちは笑いながら袖でキヨの頬をくすぐり、甘えるように囁いた。

キヨは、子どものように無邪気な笑顔で応える。


その少し離れた座に、イーライが控えていた。


グラスを手に取ることもなく、ただ静かに主を見つめている。


キヨがふと気づき、妾たちを払いのけて声を上げた。


「おい、イーライ、こっちへ来い! たまには笑え、堅物め。

共にどうだ? 酒は? 女も選り取りみどりじゃぞ!」


イーライは静かに首を振り、深く頭を下げた。


「結構でございます」


「ほう、またそれか。

 イーライはつまらぬ男よのう。女の柔肌より茶が好きとは!」


キヨが高らかに笑い、妾たちも、どっと笑い声を上げる。


だがイーライは、ただ淡々とした表情で座っていた。


その眼差しには、笑いの意味も、喜びの色も宿らない。


キヨは顔を赤らめ、肩を揺らして笑っている。


「はっはっは。世の女は、皆わしを好くのう。

 ミミもメアリーも、町娘までも、わしの顔を見ると笑う。……なのに、あの姫だけは……」


その声に、妾たちの笑いがぴたりと止まった。


グラスを持つ手が宙で凍りつく。



「ユウ様は、笑わんのだ。どれほど贈り物をしても、どれほど優しくしても、あの氷のような目で、わしを見透かすのじゃ……」


沈黙。


燃える香の煙が、ゆらりとキヨの顔を覆った。


イーライは静かに頭を下げ、低く告げる。


「キヨ様……ユウ様はセン家の姫にございます。

笑うことを、忘れるほどの過去をお持ちなのでしょう」


キヨの手がグラスを握ったまま、わずかに震えた。


「……イーライまで、ユウ様の肩を持つか」


声は笑いとも怒りともつかぬ、濁った響きを帯びていた。


「わしがこれほど尽くしてやっておるのに、まだ怒っておる。

いい加減、心をひらけばよいものを。まるで氷だ。触れれば冷たく、心まで凍えるわ」


キヨの言葉に、イーライは小さく息を吐いた。


慎重に言葉を選びながら、静かに口を開く。


「キヨ様はユウ様にだけ、強く求めすぎておられます。

 いつものように、他の女性に接するように―― 軽やかに、柔らかく振る舞われてはいかがでしょうか。

 焦れば、相手も心を閉ざしてしまいます」


キヨはグラスを傾けたまま、イーライをじっと見つめた。


「イーライ、ユウ様の味方か?」


「いいえ」


イーライはわずかに首を振る。


ーー惹かれているのは確か。


その想いを口にすることは許されない。



「ただ、いつものキヨ様を誰よりも知っております。

人の心を開く才と術があるのに、

その術を、なぜユウ様の前だけでお忘れになるのか――それを申し上げたいのです」


一瞬、広間に沈黙が落ちた。


燃える香の煙が、ゆらりと二人の間を流れる。


やがてキヨは、苦笑いを浮かべて盃を置いた。


「……ふん。なるほど。少しは柔らかくしてみるかの」


イーライは深く頭を下げた。




翌朝、キヨは鏡の前に立ち、珍しく装いを念入りに整えていた。


「……軽やかに、柔らかく、か」


昨日のイーライの忠告を反芻しながら、薄い髪を撫でつけ、衣の皺を整える。


だが――ユウの部屋の扉を開いた瞬間、その余裕は吹き飛んだ。


ユウはバルコニーに立っていた。


朝陽を背に受け、黄金の髪が風に揺れる。


顔を上げたその青い瞳は、氷のように澄みきっている。


「……ユウ様、ご機嫌はいかがですか」

キヨは笑みを作り、そっと距離を詰めた。


「戦も見事に終わった。ユウ様にご報告を……と思いましてな」


「それは何よりにございます」

ユウの声は穏やかだったが、微塵も温度を帯びていなかった。


キヨはもう一歩、踏み出す。


「なぜ、そんな冷たい顔をする。わしはユウ様を、守ってやりたいだけなのじゃ」


「ありがとうございます」

ユウは短く答え、ゆるやかに顎を上げた。


その一瞬、キヨの脳裏に――ゼンシの姿がよぎる。


あの、決して屈せぬ目。


同じ光を、この娘が宿している。


キヨの呼吸が乱れ、恍惚の色が瞳に滲んだ。


言葉を続けようとしたが、喉が詰まる。


イーライの声が頭をかすめる。


『ーー軽やかに、柔らかく』


だが、その手は無意識に拳を握っていた。


「……よい。今はそれでよい。いずれ、わしの心が通ずる日も来ようて」


ユウは何も言わず、わずかに眉をひそめた。


ーーそんな訳ない。


そう言いたげだった。


風が髪を揺らし、彼女の沈黙が刃のように鋭く刺さる。


キヨが去ったあと、イーライは静かに目を閉じた。


ーーキヨ様は、ユウの前ではいつも崩れる。


ユウはゆっくりと息を吐き、扉の方を見たまま言った。


「……ヨシノ。部屋の換気を」


「はい、ただいま」


ヨシノが窓を開けると、夏の生暖かい風が流れ込む。


だが、それでも――あの男の香の匂いは、まだ消えなかった。


我慢して微笑んだつもりでも、どうしても滲み出てしまう。


あの声。あの目。あの手の動き。


すべてが、嫌悪の対象だった。


「……あの男が、嫌い」

声に出すと、唇が震えた。


その言葉を深く心に刻みながら、ユウは静かにカーテンを閉めた。


陽の光さえ、今はまぶしすぎた。



その頃――。


執務室では、エルが手紙を手に立っていた。


キヨが入ると、低い声で囁く。


「……ロス家が、レイ様との婚約を承認しました」


その夜、誰も知らぬところで、一つの運命が決まった。


祈りは届かぬまま――姉妹の未来を、静かに縛った。


新作短編のお知らせ


ウイが産まれて三週間後のお話です。


タイトルは

『戦のあと、妻は「幸せは私が決めます」と言った』 です。


政略結婚から始まったグユウとシリが、

戦と運命の中でそれぞれの「幸せ」を選ぶ物語です。


▶ 短編はこちら

https://ncode.syosetu.com/n0392li/


本編を読んでくださった皆さまに、

この短編もぜひ読んでいただけたら嬉しいです。


次回ーー本日の20時20分


「末の姫、レイ様の件にございます」

告げられた婚約の報せに、部屋の空気が凍りついた。

十一歳の少女を嫁に出す――それが“命”だという。

怒りと絶望の中、ユウの瞳に母シリの影が宿る。


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