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婚礼の報せに、姉は立つ

この日は気温が高かった。

それでも、部屋の空気は凍りついたように冷たかった。


誰も口を開けない。

風だけが、カーテンを静かに揺らしている。


ユウは机の上のカップを見つめたまま、指先に力を込めた。


――十一歳の妹を、嫁に出すというのか。


「・・・サム。お相手を教えてくれる?」

声は掠れていた。


サムは一瞬、目を閉じてから答える。


「セージ・ロス様です。セージ様の母上は、シリ様の姉・・・。従兄弟同士の婚姻となります」


その言葉の響きに、部屋の誰もが息を呑んだ。


「お相手の年齢は?」

ユウの声が低く沈む。


「・・・十九歳です」


その瞬間、ユウは椅子を静かに押しのけ、立ち上がった。


無言のまま、扉へ向かって歩き出す。


サムとイーライが思わず顔を上げたとき、シュリが咄嗟にユウの腕を掴んだ。


「ユウ様、どちらへ行かれるのですか・・・?」


シュリの声はかすかに震えていた。


――答えはわかっている。


だが、それでも聞かずにはいられなかった。


ユウはその手をそっと振りほどき、顎を上げる。

青い瞳が真っ直ぐに前を見据えていた。


「あの男のところへ行くつもりよ」


その声音は、怒りではなく――決意の色を帯びていた。


シュリは息を呑む。


――やはり。

この方は、逃げるよりも先に、立ち向かう人なのだ。


「ユウ様、それは・・・!」

ヨシノが悲鳴のような声を上げた。


ーーこちらは庇護を受ける身。


まして女が、領主に意見をするなど、許されることではない。


シュリは低い声で伝えた。


「あの方は、話の通じる人では・・・」


「知っているわ」

短い答え。


それでも、その声音に迷いはなかった。


ユウがドアノブに手をかけたその瞬間――ドレスの裾が引かれる感触がした。


振り向くと、そこにレイがいた。


小さな手で裾を掴み、黒い瞳で姉を見上げている。


「姉上・・・やめて」

いつもは揺るがぬ瞳が、ほんの少しだけ震えていた。


「レイ、どうして」

ユウは静かに問う。


「私のために・・・そのようなことをしなくても・・・」

レイの言葉は、祈るように小さかった。


ーー姉上がやろうとしていることは常識外だ。


それは幼いレイでも理解していた。


自分のために、姉上が動く。


それは耐えられないことだった。



「レイ、これは私の問題です」

ユウの声は凛としていた。


見守るウイは、ただ手を握りしめていた。


姉の背中が遠くに見えて、胸が痛かった。


ウイは理不尽なことがあっても、それを心のうちにしまうか、乳母に愚痴るしかできなかった。


それが、この時代の嗜みであり、女の生き方だった。


姉上がやっていることは――常識外。


その姿は、どこか母を思わせた。


「順番に嫁ぐのなら、私が相応しい」


青い瞳が一瞬、光を放つ。


「お相手は十九歳。なぜ、あなたが嫁ぐのか――あの男に、質問をしたいのよ」


怒鳴り声ではなかった。


それでも、その声音には威厳と覚悟が宿っていた。


まるで、母シリがかつて兄ゼンシに立ち向かった時のように。


沈黙が落ちる。


レイは唇を噛み、シュリは息を呑んだ。


その中で、ユウだけが微動だにせず、まっすぐ前を見据えていた。


「・・・イーライ」

ユウは部屋の隅に控えていた男へと声をかけた。


「なんでしょうか」



「あの男の部屋に案内をして。いますぐ」


イーライの黒い瞳が一瞬、わずかに揺れた。


ーー抗えない。


この強い瞳に・・・逆らうことはできない。


本来ならば止めるべき命令だった。


だが、イーライはそれを口にできず、思考が止まる。


隣にいたサムが無言でイーライの肩を叩き、小さく頷く。


「・・・かしこまりました」

イーライは静かに頭を下げた。


その声音には、主従の礼と同時に、抑えきれぬ不安が滲んでいた。


ユウは振り返らず、静かに扉を押し開けた。


熱風が一瞬、部屋に流れ込む。


ヨシノも、ウイも、レイも、誰一人として止めることができなかった。


「こちらでございます」


イーライは先を歩きながら、後ろから聞こえる足音に耳を澄ませた。


一歩ごとに迫るその気配に――彼は敗北を感じた。


ーー逆らえない。


この少女の命に自分は逆らえないのだ。


背筋を伸ばし、ユウは長い廊下を進んでいく。


その足取りは速くもなく、遅くもない。


まるで、処刑台へ向かう覚悟を決めた者のように、静かで揺るぎなかった。


階段を上り、キヨの私室前にたどり着く。


中からは、キヨの甲高い声とくぐもった笑い声がかすかに漏れていた。


ユウは一度、深く息を吸った。


――怖い。それでも行く。


母上がそうしたように、私も、背を向けない。


扉を叩く音が、廊下に響いた。


「・・・ユウ様!」

後ろに控えるシュリの声がかすれる。


だが、ユウは一度も振り向かなかった。


「ユウ様、面談をご希望です」

イーライが声をかける。


キヨの甲高い笑い声が止まり、沈黙のあと、

扉の向こうから、くぐもった声が返ってくる。


「・・・入れ」


取っ手にかけた手に、シュリが一瞬、触れた。


しかしユウはそれを静かに振りほどく。


扉が開かれる。


強い香の匂いとともに、重い空気が流れ出した。


光を浴びた私室の奥――。


椅子に丸まって腰掛けたキヨは、ゆっくりと顔を上げた。


そして、口角を上げる。


「・・・ほう。珍しいこともあるものだ。 ユウ様が、自らこの部屋を訪れるとはな」



キヨの背後には、弟のエル、妻のミミ、そして妾のメアリーが座っていた。


三人とも驚いた表情で、ユウを見つめている。


「お話をしたくて伺いました」

ユウの瞳が、まっすぐにキヨを射抜いた。


キヨの前に立つユウの背は、誰よりもまっすぐだった。


揺れる陽の光が、その輪郭を静かに照らしている。


――婚礼の報せに、姉は立ったのだ。



十一歳の妹を嫁がせる――理不尽な命に、姉ユウは立ち上がった。

「嫁ぐのなら、私が行きます」

凛とした声が、静寂を裂く。

権力の理よりも、家族の誇りを選んだ姉。

その瞳に、亡き母シリの影が宿っていた。


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