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戻りくる影ーー私は負けない

馬場を吹き抜ける風が収まったあとも、重たい余韻は残っていた。


イーライは黙ったまま、その場に立ちすくんでいた。


繋がれたユウとリオウの手、そしてユウの取り繕う声色。


胸の奥で抑えきれないざわめきが広がっていく。


すぐ傍らには、乳母子のシュリがいた。


「・・・お前も見ていただろう」

イーライは低く呟いた。


シュリは一瞬、言葉を選ぶように沈黙し、それからゆっくりと頷いた。


「はい」


「お前は乳母子だ。それなら、なぜ二人を止めに入らない?」

咎めるような口調だった。


任務を全うしろ――その言葉の奥には、隠しきれぬ嫉妬が蠢いていた。


「ユウ様は・・・あの方に心を許しているわけではありません」

控えめながら、見逃さぬ眼差しでシュリは告げた。


イーライの目が驚きに揺れる。


「・・・お前は、どうしてそう言える」


湖面の光を映すように、シュリの瞳は静かだった。


「ずっと、ユウ様を傍で見てきたから、です」


「・・・あなたの任務は、なんですか?」

シュリは静かにイーライを見つめた。


その問いに、イーライは息を呑む。


ユウに悪い虫がつかぬよう見張れ――それが主キヨから命じられた任務だった。


だが今の自分は、その任務すら忘れてしまうほど、私情に囚われている。


まるで蜘蛛の巣にかかった虫のように。


ユウが放つ強さに、抗えず惹き寄せられていく。


「・・・この城と姫様方を守る護衛だ」

表向きの任務を伝えた。


シュリは黙って頷いた。


お互いが、誰に惹かれているのか。


二人はその時、確かに悟った。


けれど、それをはっきりと口にすることはできない。


なぜなら、ユウは姫だからだ。


姫に乳母子、そして、家来も釣り合うような身分ではない。


ーー自分は、あの人に惹かれるただの一匹の虫にすぎない。


イーライは苦笑を浮かべた。


「それでは」

シュリは静かに頭を下げ、ユウの跡を追っていった。



残されたイーライは、その背を見送りながら、胸のざわめきを押し隠した。


誰にも知られてはならない想いを、ただ心の奥深くへ沈めていく。


けれど、風に揺れる金の髪の残像は、どうしても瞼の裏から消えてくれなかった。



◇ 馬場


木陰の下には、さっきまでのざわめきとは打って変わった静けさがあった。


メアリーは冷えた紅茶のカップを持ち上げ、隣に座る弟を一瞥する。


「リオウ、少しやりすぎだったわ」


リオウの目線は、切なそうにユウの背中に釘付けられていた。


彼女の近くには乳母子のシュリ、妹のレイ、そしてウイがいた。


けれどリオウの視線はただ一人、ユウだけを追っていた。


そんな弟の様子に、メアリーは呆れたようにため息をつく。


「あそこで手を繋ぐのは軽率だったわ。重臣のサム様はともかく・・・」

灰色の瞳が冷ややかに細められる。


「家来のイーライは・・・キヨ様に直通よ」


「・・・すみません」

ユウの後ろ姿が角を曲がって消えたところで、リオウはようやく姉の顔を見つめた。


「久々にお会いして・・・つい」


「もうすぐ、キヨ様が帰還される。その時、あなたを家臣にできないか、私が願い出るつもりよ。

でもこの件を知られたら・・・まずいわ」


メアリーの灰色の目には、焦りが滲んでいた。


「姉上・・・それはなぜ?」


「ユウ様はやめなさい」


メアリーは空になったカップを見つめ、それから顔を上げて弟を射抜いた。


「あの子は・・・キヨ様のお気に入りよ。私と同じように、いずれ妾になるわ」


衝撃に、リオウの顔が強張った。


「まさか・・・そんな・・・」


「キヨ様は本気よ」

メアリーは目を伏せる。


「そんな!! あまりにも年齢が違いすぎる!」

リオウの声は引き攣っていた。


衝撃が走り、リオウは息を詰まらせた。言葉にならず、喉の奥で声が途切れる。


「ユウ様は・・・キヨを憎んでいる」

リオウは掠れた声を出した。


「ええ、どんなに嫌っていても・・・避けられないのよ」

苦笑がメアリーの唇をかすめる。


ーーその良い見本が、この私。


リオウの瞳に絶望が募る。


ーー姉のように、ユウ様も・・・。


「女は好きなように生きられないの」

メアリーの声は遠くを見ていた。


「けれど・・・姉上」

リオウは姉の手を強く握る。


「キヨのそばにいるのは、姉上だけだ。どうか・・・妾だけは・・・阻止してください」


その切実な眼差しに、メアリーは困惑した。


「私は・・・ただの妾よ」

声は弱々しい。


「けれど・・・姉上!! どうか!」

リオウは頭を深々と下げる。


「・・・無理だと思うけれど、やってみるわ」

メアリーはため息をつきながら目を落とした。


ーーあのキヨ様の想いを覆すなど、無理。


そう思いながらも、弟の頼みを突き放すことはできなかった。



その日の夜、ユウの部屋の扉が叩かれた。


ヨシノが静かに開けると、イーライが深々と頭を下げて立っていた。


「イーライ、どうしたの?」


「ご報告があります」

硬い声音に、ユウの眉がわずかに動く。


「明日には・・・キヨ様がこの城に帰還されます」


その言葉に、ユウは小さく息を吐いた。


「ずっと争って・・・不在なら良いのに」


本音が零れた瞬間、部屋の空気は張りつめた。


ーー帰ってきてほしくない。

けれど、その願いを声にしてしまうこと自体、決して許されるはずのないことだった。


「イーライ、私は出迎えはしません」

ユウは静かに口を開いた。


「・・・しかし!」

イーライは思わず顔を上げる。


――キヨ様は誰よりも、ユウ様にお逢いしたがっている。


「明日、私は体調不良になります。それで、良いでしょう?」

ユウは澄んだ青の瞳で、まっすぐにイーライを見据えた。


「体調・・・不良・・・」

イーライの声がかすかに震える。


そのとき、ユウの表情がわずかに歪み、抑えていた想いがあふれ出した。


「母の家を奪い、従兄弟を死に追いやった相手を、どうして笑顔で迎えられるのですか!」


突然、吹き出した怒り。


最後は叫ぶように吐き出された。


その激しさは、亡き叔父であり、実の父ゼンシを彷彿とさせるものだった。


イーライは言葉を失い、胸の奥まで押し込まれるような感覚に囚われる。


到底、この激情には抗えなかった。


「・・・お、おっしゃる通りです」

彼は深く頭を垂れ、声を震わせて応じた。


「ユウ様・・・落ち着いて」

部屋の片隅にいたシュリが、激しく震えるユウの肩にそっと触れた。


ユウは震える身体を必死に抑え、立ち尽くす。


「落ち着くのです」

シュリの唇が耳元で囁くように動く。


ユウは悔しげに目を閉じた。


「そうです。息を吸うことに集中して・・・吐く」

静かな声が部屋に響いた。


ーーまただ。

イーライは唇を噛む。


ーーユウ様の憤りを抑えるのは、この男。


けれど、自分には何もできない。


彼女の急激に膨れ上がる怒りに、なす術もなく立ち尽くすしかなかった。


そして――怒りに震えるユウの顔を見るたび、強烈に惹かれてしまう自分がいる。


その激しさに翻弄されるばかりだった。


数分後。


「イーライ」

静かに、しかし怒りを秘めた声が部屋に響く。


「キヨに聞かれたら・・・伝えて。体調不良で申し訳ない、と」


その眼差しはなお熱を宿していたが、先ほどよりも落ち着きを取り戻していた。


「・・・承知しました」


イーライが去ったあと、ユウは部屋の奥にあるバルコニーへと飛び出す。


視界に広がるのは、黒い闇のような湖。


「・・・あの男が、戻ってくる」

震える声が夜気に溶けた。


背後で黙って寄り添うシュリ。


湖風に揺れた金の髪が、彼の肩にかすかに触れる。


ユウは夜空を見上げる。


「・・・私は負けない」


細い月が、闇を切り裂くように昇っていた。





次回ーー本日の20時20分

※木曜日と日曜日は2回更新します


勝利に酔うキヨの次の標的は、

西領ジュン――そして三姉妹だった。


「姫たちを使えばよい」

野望の歯車が、再び動き出す。

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