二人の男と姫 ―奇妙な始まり―
ロク城に来て、すでに一月半。
季節は初夏へと移り、湖面から吹き上げる風が湿り気を帯びていた。
廊下の突き当たり、バルコニーに佇むユウの金の髪が、風に大きく揺れる。
隣に立つシュリは、声もかけずにその横顔を見守っていた。
「失礼します」
背後から低い声が届く。
イーライだった。
振り返ったユウと目が合うのを避けるように、彼は慎重に告げる。
「お話がございます・・・どうか、お部屋へ」
◇
部屋へ戻ると、イーライは深く頭を下げた。
「キヨ様からの報せでございます」
「・・・あの男の」
ユウの眉がぴくりと動く。
「シュドリー城を落とした、とのこと」
一瞬で、ユウの表情が固まった。
――母の生家が、またあの男の手に。
「・・・そうですか」
覚悟していたはずだった。
敵わぬと知っていた。
それでも耳にすれば、胸は抉られる。
「・・・マサシは?」
従兄の名を絞り出す。
イーライは目を伏せ、短く答えた。
「ご自害されたと」
背後でヨシノとシュリが息を呑む。
「そう・・・」
ユウは唇を噛み、俯いた。
「また一人・・・モザ家の者が消えたのね」
声は震え、今にも崩れそうに響いた。
「・・・お茶を淹れます」
イーライは深々と頭を下げ、無言のまま茶器を並べ始めた。
湯の温度を測り、茶葉を掌で包み込むように扱う。
一つ一つの所作は驚くほど丁寧だった。
ユウは、その真剣な横顔に視線をとめた。
「・・・ミミ様に、お茶を淹れるよう命じられたの?」
悲嘆を慰めるように、そう配慮されたのだろうか。
イーライは手を止めず、静かに首を振った。
「違います」
「だったら・・・なぜ?」
問いかけると、伏し目がちだったイーライが顔を上げ、青い瞳をまっすぐに見つめ返した。
「私が――ユウ様にお茶を淹れたいと思ったからです」
一瞬、時が止まったようだった。
ユウの胸がひときわ強く打つ。
思わず視線をそらし、カップに目を落とした。
「・・・そう」
それだけを返す声が震えていた。
差し出されたカップを両手で受け取り、口に含む。
ほのかな渋みと温かさが、冷えた胸に広がっていく。
「美味しいわ・・・」
自然と口に出た言葉。
その言葉にイーライは、脳面のような顔の表情を緩めた。
「ありがとうございます」
ーーその言葉が聞きたくて、茶を淹れた。
「・・・イーライ」
ユウはそっと名を呼んだ。
手にしていた空のカップを机に置き、青い瞳で彼をまっすぐに見つめる。
「あなたは聡い。そして・・・人を思いやれる」
黒い瞳に、一瞬ざわめきが走った。
「ありがとうございます」
淡々と返した声は、しかし僅かに震えていた。
「そんなあなたを、あの男は戦場に連れて行かない。・・・どうしてかしら」
鋭い問いに、イーライはわずかに伏し目になった。
――言えるはずがない。
ユウ様に男がつかぬよう監視せよと、命じられているなど。
喉までせり上がる言葉を押し殺し、彼は低く答えた。
「私は・・・武術に秀でた者ではございませんので」
「・・・あなたは、武術が得意ではない?」
ユウの眉がわずかに寄せられる。
この時代、家臣に求められるのは武と力。
戦場で役立つ者こそ重んじられる――それが当然だった。
「はい。私の生家は、代々セン家に仕える家柄です。
ですが、私は三男で・・・剣を学ばぬまま十五を迎えました」
イーライの言葉に、シュリはわずかに頷いた。
彼も早朝稽古に顔を出してはいたが、その剣筋は確かとは言いがたい。
「何の才覚もない私を、キヨ様は拾ってくださった。
そこから必死に剣を学んでも・・・腕は上がらない」
淡々とした声の奥に、押し殺した悔しさがにじむ。
「私ができることといえば・・・人質の確保、交渉、そして茶を淹れること」
それは静かな悔しさが滲んでいた。
「・・・私は役に立たぬ人間なのです」
表情を動かさぬ顔に、押し殺した無念さが浮かんでいた。
「役に立たないということは・・・ないわ」
ユウは静かに口を開いた。
その声音に、イーライの手がピクリと止まる。
ゆっくりと顔を上げ、彼女に向き合った。
「・・・ユウ様」
「あの男は・・・小賢しく抜け目がない。役に立たぬ男をそばに置くはずがない」
ユウは少し顎を上げ、静かに告げた。
「しかし・・・」
思わずイーライは顔を上げる。
「サムが良い例だわ」
ユウの視線は揺らがない。
「レーク城の元重臣。一番冷静で賢い男を、キヨはここでも重臣にした」
背後で聞いていたシュリは、思わず小さく頷いていた。
セン家に仕えて生き残った重臣は四人。
その中でも一番能力の高いサムを、キヨが選んだのは必然だった。
「あなたの能力は、今の時代に合わないだけ」
ユウは淡々と続けた。
「今回の争いは交渉の余地がなかった。勝ち戦は最初から決まっていたのだから」
「・・・はい」
イーライは押し黙った。
――その言葉、確かにキヨ様も話していた。
戦を知らぬ少女が同じことを口にするとは、思いもしなかった。
「けれど、あの男にとってノルド城の争いは人質の交渉が全てだった。・・・母上を救うために」
ユウの瞳が一瞬揺れ、すぐに閉じられる。
再びイーライを見据えるその眼差しは、もう揺らいでいなかった。
「だから、その争いには、あなたを連れて行ったのよ」
「・・・はい」
イーライは控えめに頷く。
――だが実際には、ユウの母シリの救出は失敗に終わった。
自ら救えなかったことを、彼はいまも責め続けている。
それを見透かしたように、ユウは言葉を繋いだ。
「あなたの交渉と人質の対応は見事だった。淹れてくれたお茶も、美味しかった」
顔を上げたイーライに、ユウは震える声で告げた。
「母上は・・・自ら死を選んだ。イーライに落ち度はない」
その瞬間、イーライは崩れ落ちそうになった。
ポットを持つ手は激しく震え、声はかすれていた。
「・・・ありがとう・・・ございます」
ユウは深く息を吐き、落ち着きを取り戻す。
「そのうち、平和な時代が来たら、あなたはキヨにもっと重宝されるわ」
否定したかった。――そんなことはない、と。
けれど、イーライは言葉を飲み込む。
ユウの眼差しは領主のように深く、揺るぎなく自分を見つめていた。
だからこそ、彼は静かに頭を垂れた。
「・・・そのお言葉を励みに、日々精進いたします」
イーライの胸の奥で、何かがじわりと熱を帯びる。
否定され続け、自分でも諦めていた存在を――今、この姫は確かに肯定したのだ。
頭を下げた先に、空になったカップが見えた。
「・・・お茶のおかわりを」
イーライは震える声で言った。
「お茶のお代わりは、ヨシノに任せるわ」
ユウが静かに告げる。
「・・・?」
疑問に思ったイーライが顔を上げた瞬間――
「イーライ、こちらへ」
ユウは向かいの椅子をすすめた。
「い、いえ! 私は・・・!」
イーライの声が途端に硬くなる。
家臣と姫が向かい合って座る――それは、あってはならぬ行為だった。
「構わないわ。シュリもこちらへ」
ユウは隣の椅子を指差す。
「はい」
ユウの扱いに慣れたシュリは、静かに腰を下ろした。
「イーライも、早く」
ユウはわずかに顎を上げて命じる。
「・・・はっ」
小さく頭を下げ、イーライは畏まって腰を下ろした。
その心臓は早鐘のように鳴り、座った椅子の冷たさが、なおさら身分の壁を意識させていた。
三十分後――。
ユウの様子を案じたサムが、部屋の扉をノックした。
扉を開けたヨシノが、不安そうな彼に小声で告げる。
「大丈夫ですよ」
その声音は、意外にも穏やかだった。
ヨシノの視線の先に目をやったサムは、思わず息をのんだ。
ユウがシュリとイーライと並んで座り、談笑している。
ユウは嬉々として戦術を語り、シュリが静かに応じる。
向かえに座るイーライは背筋を伸ばしたまま、黙って聞いていたが――その横顔には、かすかな楽しげな影が差していた。
そして何より。
ユウの表情は、かつて仕えたシリを思い出させるものだった。
妃であり、領主でもあったシリ。
その血を濃く受け継ぐユウ。
彼女の隣に座るシュリとイーライ――
その姿は、いずれユウを支える者たちの影を、かすかに映していた。
三人の姿は、どこか不思議な調和を見せていた。
けれどその調和は、同時に――奇妙な始まりを告げるものでもあった。
次回ーー明日の20時20分
ユウとシュリ、イーライの間には、静かな調和と淡いざわめき。
一方、馬場に現れたウイの前には、かつて想いを寄せたリオウの姿――。
再会は喜びを連れてくるはずだった。
けれどその瞳が向かう先は、いつも姉のユウだった。
若草の香る午後、
ひとつの恋が生まれ、ひとつの恋が壊れ始める。




