全てを奪った男に頭を下げねばならない
深い絶望の中、ユウは寝台の端に身を寄せ、静かに涙を流していた。
隣では、あの男のいびきが不快に響いている。
少しでも遠ざかりたくて、掛布の端を握りしめる。
身体は痛み、唇を手の甲で何度拭っても、あの感触が甦り、身の毛がよだつ。
――私の身体は、汚れてしまった。
母は、この男のもとに下ることを拒み、爆破した城の中で自ら命を絶った。
美しく、賢く、毅然としていた母。
金色の髪、青色の瞳、背は高く、凛とした眼差しに揺るぎない意志を宿していた。
私の容姿も性格も、母譲りだと人は言う。
隣で寝ている男――キヨは、母が十二の頃から憧れ、求めていたと聞く。
やがて叶わぬ想いが狂気へと変わっていった。
その執着の果てが、今の惨状だった。
ユウは静かに目を閉じた。
その夜、ユウは誓った。
――二度と、この男に心を渡さない。
そして思い出す。
あの日から、すべてが始まった。
◇
――あれは、四年前の春。
十四歳で、両親を殺した男の庇護に置かれたとき。
妹たちを連れて、私は馬車でロク城へ向かった。
「姉上、あそこがこれから暮らす城ですか?」
馬車の中で、一つ年下の妹ウイが問いかけてくる。
馬車の窓から、ロク城の姿が現れた。
広大なロク湖のほとりに立つその城は、湖面に浮かぶ要塞のようだった。
切り立つ石垣が水面に影を落とし、外界から隔てられた孤立を思わせる。
城の腹には大きな水門があり、船の出入りができる。
陸路で近づけるのは、ただ一本の橋だけだった。
「そうよ。あの城で暮らすの」
ユウの視線は真っ直ぐにロク城を捉えていた。
ウイの隣に座る末の妹レイは、静かに頷いた。
「知らないところに行くのは・・・怖いわ」
ウイはドレスの裾を握りしめ、声を震わせる。
「・・・もう母上は・・・いない」
レイの呟きに、車内の空気が沈んだ。
私たちは三人姉妹――長女の私、次女のウイ、四つ下のレイ。
昨日、母を失い、今日から新たな居城で暮らさねばならない。
けれど私は、妹たちの前で涙を見せるわけにはいかなかった。
落城寸前、母は最後に私の手を握り、二つの約束を託した。
一つは、「セン家とモザ家の血を繋ぐこと」
それは両親の悲願でもあった。
血を繋ぐ、それは私たちが子供を産み、血筋を残していくことを意味する。
もう一つは、「妹たちを守ること」
その日から私は、母の代わりに妹たちの母となる。
父、母、兄、祖父母ーー大事な人をすべて、あの男に奪われた。
そしてその男に、これから頭を下げて生きていかねばならない。
馬車が揺れる。
隣でウイとレイが裾を握りしめるのが視界に入る。
――もう二度と、この子たちに悲しい思いをさせない。
唇を噛み締めて、心に刻む。
あの城にはあの男の妻――妃がいる。
いったいどんな女性なのだろう。
あの男と結婚しているのだから、きっと相当強かなはずだ。
妃だけではない。
あの男には数多くの妾がいると聞く。
――気持ち悪い。
けれど、その妻――妃に、私はこれから会わねばならない。
ユウは思わず拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、胸の奥から嫌悪がこみ上げる。
その瞬間、馬車の揺れがふっと止まった。
城に到着したのだ。
城門に到着すると、ワスト領の重臣サムが「ようこそ」と頭を下げ、
黒い瞳の家臣イーライが馬車の扉を開けた。
「どうぞ」
妹たちは怯えて降りようとしない。
「私が先におります」
そう告げて、ユウは差し伸べられたイーライの手を取った。
湖風に金の髪を揺らしながら地面に降り立つ。
イーライの視線が、ほんの一瞬ユウの横顔に釘づけになる。
次の瞬間には慌てて逸らし、咳払いをした。
ユウはそれに気づかず、毅然と前を見据えていた。
――そして、新たな居城の扉が開こうとしていた。
次回ーー本日の20時20分
亡き母のために造られた部屋。
そこに通された娘が、初めて“妃”と相まみえる――。
次回「母のために造られた部屋に閉じ込められる」
初日は3話更新(9:20/12:20/20:20)
◇登場人物メモ(第2話時点)◇
※物語の進行に合わせて更新していきます。
・ユウ → 長女。母の遺志を継ぎ、妹たちを守る決意を胸にロク城へ向かう。
・ウイ →次女。姉を慕う素直な少女。
・レイ →末の妹。幼くして現実を受け止めようとする静かな子。
・キヨ →セン家を滅ぼした王。母を愛し、娘を妾とした男。
・サム → ワスト領の重臣。かつてユウの母に仕えていた家臣。今もその誠実さを失っていない。
・イーライ →若い家臣。ユウに複雑な視線を向ける。