攻めた、その先で
「・・・そこまでだ」
低く、静かな声が、薔薇のアーチの下に落ちた。
シュリは息を詰め、反射的に庇うようにユウの前へと立つ。
月光の下、影のように佇むひとりの男。
赤い髪が月の光を受け、風に揺れていた。
「・・・リチャード」
その名を呼ぶと、シュリの声には、わずかな安堵が滲んだ。
「お楽しみのところ、申し訳ありません」
リチャードはそう言って、ユウに向かって深く頭を下げる。
シュリの背後で、ユウが小さく身を縮めた。
「大丈夫です」
シュリは振り返らず、そっと囁く。
――この場所を教えたのは、彼だった。
「聞こえるか?」
リチャードが静かに言った。
「もうすぐ、ダンスの終わりだ」
シュリは耳を澄ませる。
遠くから、夜会の終幕を告げる曲が微かに流れてきていた。
「家族席に姫様がいないと、不審に思われる」
リチャードは、腰に手を当て淡々と告げる。
「あ・・・」
シュリは思わず声を漏らした。
ユウと一緒にいることしか、考えていなかった。
「シュリ」
リチャードは、少しだけ口角を上げる。
「逢い引きというのはな、そこまで考えてやらないと――」
一拍、置いて。
「破滅する」
リチャードはそう言って、二人に背を向けた。
ユウは、疑問を抱えながら、その背中を見つめる。
月光の下で振り返った、鈍い青の瞳は――どこか苦しそうに見えた。
――口づけをしているところを、見られた。
姫と乳母子の逢い引き。
このことが広まれば、シュリは職を失うどころか、命さえ危うい。
ーー本当に・・・この人を、信用していいの?
庭を抜け、廊下を少し進んだ、その時。
暗がりから、ひとりの女が駆け寄ってきた。
「ユウ様・・・」
声をかけたのは、乳母のヨシノだった。
その手には、ユウの靴が抱えられている。
「・・・どうして?」
驚き、立ち尽くすユウの横で、リチャードが振り返った。
「足が痛いと、さっき話していたのが聞こえました」
――それで、ヨシノを?
偶然ではない。
最初から、戻る段取りまで整えていたのだ。
ユウの視線に気づいたリチャードは、静かに口を開く。
「俺の妻は、元は女中だった」
二人にしか聞こえない低い声で話す。
「身分差のある逢い引きは、
根回しと、信頼できる協力がなければ成立しない」
ユウは、じっと彼を見つめた。
「それは――」
リチャードは、短く言い切る。
「戦と同じだ」
その一言で、ユウは理解した。
――この男は、無責任な傍観者でも、気まぐれな協力者でもない。
最初から、守る前提で盤を動かしている。
ーー敵ではない。
それどころか、この男は、
自分たちより先に“最悪”を想定して動いている。
リチャードは、靴を抱えて部屋へ戻ろうとするヨシノに声をかけた。
「その靴は、そのまま持っていろ」
ヨシノは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに小さく頷いた。
そしてリチャードは、ユウとシュリに向き直る。
「ホールの入り口に戻るときは」
淡々と、事実だけを並べるように。
「俺とシュリ、姫様、それから乳母が一緒にいる方がいい」
視線は前を向いたまま、続ける。
「姫様は足が痛くなり、別部屋で休んでいた。それに付き添った――ただ、それだけだ」
説明口調ではない。
“そういう光景”を作るための確認だった。
「誰も説明を求めない。見れば、分かる形にする」
それだけ言うと、リチャードは歩き出す。
まるで、最初からそこまで含めて決められていたかのように。
「あなたは・・・ナノ領の・・・」
歩きながら、ユウが静かに口を開いた。
「ああ」
リチャードは足を止めずに答える。
「ナノ領領主の次男。今は、人質だ」
淡々とした声だった。
「俺の父親はな、主を四度変えた」
その言葉が含む意味は、重い。
主を何度も変える――それは騎士道から最も遠い選択であり、生き方だった。
「その男の息子だ」
リチャードは肩をすくめる。
「だから俺は、誰にも信用されちゃいない」
そう言って、いつものように、にやりと笑う。
ユウは、足を止めた。
そして、逃げも探りもない眼差しで、彼を見つめる。
「・・・あなたのお父上は」
少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「生き残るために、模索していた方だと、私は思うわ」
リチャードの足が、わずかに止まる。
「いくら忠誠を尽くしても、死んでしまえば意味がない」
ユウの声は、柔らかいが、揺るがない。
「とても現実的で、賢い選択だと思う」
一瞬、リチャードは目を瞬かせた。
だが、すぐにいつもの調子に戻る。
「その息子が、女中に惚れて、結婚した」
自嘲気味に笑う。
「俺は、聡い現実主義者じゃない」
ユウは、静かに首を振った。
「いいえ」
短く、しかし迷いなく。
「その賢さは、生かす時がきっと来るわ」
あまりにも自然に、あまりにも当然のように。
リチャードは、思わず口を開けたまま、言葉を失う。
――否定されなかった。
切り捨てられなかった。
利用価値でも、皮肉でもない。
ただ、「そういう人間だ」と認められただけ。
「・・・今日は、ありがとう」
ユウはそう言って、微笑み、ホールの入り口へと歩き出した。
その背を見送りながら、
リチャードはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
自分が、初めて――
“信じられる価値がある”と言われた気がして。
ユウがホールに足を踏み入れた瞬間、無数の視線が、一斉に降り注いだ。
ユウはわずかに顎を上げ、揺るぎのない足取りで、堂々と歩む。
その背後に続くのは、リチャード、シュリ、そしてヨシノ。
あまりに意外な並びに、
リオウは眉をひそめ、イーライは何かを測るように、静かに目を細めた。
ユウは静かに着座をした。
金色の髪をまとめた首筋の線に、
母と同じ、揺るがぬ芯が通っていることを、
それを知る者ほど、はっきりと見てしまう。
美しいからではない。
――あの人の娘だ、と分からせる静けさがあった。
その完成された姿に、
キヨは思わず、ため息をつき、ミミは理由もなく、背筋を正した。
「・・・大した姫様だ」
前を歩きながら、リチャードが低く呟く。
「足を引きずって歩いてた。わざとだな――」
そう言って振り返り、
シュリに向けて、悪戯めいた笑みを浮かべる。
その笑顔を見た瞬間、シュリははっきりと理解した。
――自分だけでは、足りない。
剣を抜けば守れると思っていた。
身体を張れば、それで十分だと思っていた。
だが、違う。
姫を守るというのは、斬ることでも、隠すことでもない。
“世界に対して、理由を用意すること”だ。
そして――それを、リチャードはやってのける。
それは、自分にはできない。
――だからこそ、この男が必要だった。
「リチャード」
シュリは足を止めた。
「どうした?」
振り返ったリチャードに、シュリは短く告げる。
「オレは・・・攻めた。これからも・・・頼む」
何を指しての「攻め」かは、言わなかった。
だが、この聡い男なら、理解する。
そう、確信していた。
「あぁ」
リチャードは面白そうに目を細めると、軽くシュリの手を叩いた。
「任せとけ。協力するぜ」
50万文字を近く、172話まで続いたこの物語に、複数のブックマークをいただきました。
正直に言うと、とても驚いています。
長い物語をここまで読んでくださる方がいること、本当にありがたいです。
初期から支えてくださっている皆さまにも、新しく出会ってくださった皆さまにも、心から感謝いたします。
これからも丁寧に書き続けます。
次回ーー明日の20時20分
攻めた夜の代償は、
朝の静寂に潜んでいる。
「謝るな」
「何もなかったように振る舞え」




