攻めろ
二人は手を取り、ホールの中央へと躍り出た。
イーライは、この状況がまだ信じられなかった。
けれど――
自分の手の中にある、ユウの指の温もりが、
これが夢ではないと、確かに教えてくれる。
曲が始まる直前、二人はわずかに距離を縮めた。
イーライはぎこちなく、ユウの背に手を添える。
ーーその瞬間。
大事なことを、伝え忘れていた。
夢見心地だった意識が、はっと現実に引き戻される。
「ユウ様・・・私は、ダンスの心得はありますが」
少し言い淀み、正直に続けた。
「・・・上手ではありません」
申し訳なさそうに見つめると、ユウは、ふっと顔を上げた。
背の高いユウは、イーライとほとんど同じ目線にいる。
ーー近い。
それだけで、イーライの思考が一瞬、途切れた。
「イーライ」
ユウは、穏やかに、しかし迷いなく言う。
「あなたは、小器用な男のはずよ」
「・・・え?」
「海の流れを読み、食料を計算する」
一つずつ、指折り数えるように。
「美味しいお茶も淹れる」
ユウはフッと笑う。
そして、最後に――
「私のために、ドレスを注文する男でしょう」
「・・・はい」
イーライは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「上手じゃなくてもいいわ。私が合わせるもの」
「それでは・・・ユウ様に、委ねます」
「もちろんよ」
二人は、視線を交わし、静かに微笑み合った。
◇
「・・・とんでもないことが起きた」
ヘンリーが茶色の目を見開き、ウイとレイに顔を向ける。
次期国王の誘いを姫が断り、重臣と踊る。
それは、間違いなく“事件”だった。
「姉上が・・・イーライを選ぶなんて」
ウイは、好物の砂糖菓子が目の前にあるというのに、
それに手を伸ばすこともできず、ホールの中央を見つめていた。
彼女にとって、それは大事件だった。
「本当に」
レイもまた、動揺を抑えるように、グラスの水を一口飲む。
「それにしても・・・イーライって、踊れるの?」
ウイが首を傾げる。
普段見ているイーライは、
茶を淹れ、書類を整え、淡々と仕事をこなす姿ばかりだ。
その彼が、舞踏の輪にいる。
想像すらできなかった。
レイは、じっと二人を見つめた。
イーライの動きは、確かにぎこちない。
ーー上手くはない。
けれど。
ユウの呼吸を見逃さず、歩幅を合わせ、
無理に導こうとはせず、ただ穏やかに寄添っている。
「・・・上手ね」
レイは、ぽつりと呟いた。
「“合わせる”のが」
音楽のテンポが上がった瞬間、
ユウの呼吸が、わずかに乱れた。
足運びが、ほんの少しだけ遅れる。
「・・・大丈夫ですか?」
イーライが小さく囁くと、ユウは笑って首を振った。
その直後、イーライの足が、誤ってユウを踏みそうになる。
その瞬間。
ユウが、くすりと笑った。
そしてーーイーライも、目を合わせて笑う。
「・・・笑うと、素敵」
砂糖菓子に伸ばしかけたウイの手が、止まった。
その後、ウイは砂糖菓子を口に入れ、『美味しい』と言わんばかりに、足を少し動かした。
レイは、ホールで踊る二人の動きを、なおも見つめ続ける。
イーライが大きく腕を振った、その瞬間。
――光った。
胸元から。
「・・・あぁ」
レイは、静かに息を吐いた。
イーライのジャケットの裏、
胸元に縫い込まれた、小さな輝き。
ーー姉上と、同じビーズ。
常に冷静で、想いを表に出さない彼の心が、
今夜はーー密やかに形になっていた。
静かに状況を見つめているレイの横顔を見て、
ヘンリーは、ふっと小さく笑った。
「レイ様も・・・色々と見ているんだね」
その口調は、まるで“仲間を見つけた”かのようだった。
その言葉に、ウイは少し首を傾げる。
ーー何のことを言っているのか、よく分からなかったのだ。
「・・・ええ」
レイは視線を落とし、短く答えた。
「僕も同じさ」
ヘンリーは肩をすくめる。
「末っ子っていうのはね、色々と・・・聡くなるものなんだ」
そう言って、テーブルに置かれたままのレイのグラスに、
自分のグラスを、軽く当てた。
かちり、と小さな音。
「さて」
ヘンリーは、ホールの中央へ視線を投げる。
「このままじゃ、兄上の苛立ちは収まりそうにない」
レイも、そっと視線を動かす。
そこには、憤怒を隠そうともせず、
イーライとユウを睨みつけるエドワードの姿があった。
「・・・プライドが、粉々だ」
ヘンリーはそう呟き、林檎のジュースを一口飲む。
レイは、少し不安そうにイーライを見つめた。
すると――
「あ、でも」
ヘンリーが、急に声の調子を変える。
「それどころじゃ、なさそうだ」
「・・・なぜ?」
レイが静かに問い返す。
「義姉上がさ」
ヘンリーは、もう堪えきれないという様子で、口元を押さえた。
「兄上以上に、憤怒の表情をしている」
ついに、くっと笑い声が漏れる。
ウイとレイは、ヘンリーの視線の先を追った。
そこには――
エドワードの妻が、仁王立ちで、凄まじい形相のまま立っていた。
「ああ、これは駄目だ」
ヘンリーは、とうとう声を上げて笑った。
「兄上は、今夜は無事では済まない」
その愉快そうな声につられて、
ウイとレイも、思わず笑ってしまう。
夜会のざわめきの中で、
ほんの一瞬だけ、肩の力が抜ける時間だった。
◇
ホールの片隅に溶け込むように、シュリは立っていた。
人で溢れるホールの中心では、
イーライとユウが、手を取り合って踊っている。
その光景を見つめながら、
シュリの表情に、静かな影が落ちた。
ーーあそこに立ちたいとは、思っていない。
ただ、
嬉しそうに笑うユウ様の顔を見るたび、
胸の奥が、ぎり、と軋む。
リオウも、イーライも、
どちらもよく知る人物だからこそ、余計に苦しい。
どうせなら、
面識のない男と踊ってくれたほうが、まだよかった。
その時ーー
「乳母子殿は、今日も暗いな」
聞き慣れた声に、シュリは顔を上げた。
隣に立っていたのは、リチャードだった。
少し乱れた髪。
胸ポケットに挿した赤いハンカチも、どこか歪んでいる。
「リチャード・・・今までどこに?」
開幕には確かにいたはずだ。
「ああ。高潔な乳母子殿には言えないが・・・」
リチャードは、にやりと笑う。
髪を手櫛で整えながら、肩をすくめた。
「少し、別の場所で楽しんでいた」
俯いたままのシュリを横目に、
リチャードは前を見据えて、小声で続ける。
「城の東側の庭園だ。薔薇のアーチがある」
「・・・?」
不思議そうに顔を上げるシュリに、淡々と告げる。
「穴場だ。誰もいない」
「え?」
「俺も、さっきまで使っていた。大丈夫だ」
「・・・何を言っているのか、分かりません」
その時、曲が終わり、イーライとユウが深く一礼をした。
「・・・あの姫は、目立つからな」
リチャードは顎に手を当て、考えるように呟く。
「さて・・・どうするか」
ふと、シュリは気づく。
ユウが、わずかに足を引きずっている。
「靴が合わないのか」
思わず独り言が漏れる。
「母さんに頼んで、代わりの靴を・・・」
その瞬間、ユウが、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「乳母子殿」
リチャードが、極上の微笑みを浮かべる。
「絶好のチャンスを、俺が作ってやる」
「え・・・?」
状況が掴めず、シュリは戸惑う。
「いいか。チャンスは一瞬だ」
低く、鋭い声。
「逃すな」
「・・・どういう意味ですか」
リチャードは、迷いなく指を突きつけた。
「攻めろ」
その直後、ユウがシュリの前に立ち、白い靴を脱いだ。
「足が痛いの」
そう言って、困ったように微笑む。
気づけば、
リチャードの姿は、ダンスを終えた人波の中に紛れて消えていた。
次回ーー明日の9時20分
「攻めろ」
その一言が、
彼を止められない場所へ導いた。
月下、初めての“選択”。




