あなたに、ついていきたい
イーライは、給仕室に一人立っていた。
盆の上に整えられた茶器を前に、深く息を吸う。
まず、布巾を広げる。
皺が寄らぬよう、端を揃え、角を正す。
次に、カップを一つずつ手に取る。
欠けはないか。
絵柄が剥がれはないか。
――問題なし。
そう判断してから、静かに盆へ戻す。
いつもと同じ動作。
何度も、何度も繰り返してきた手順。
それなのに、指先がわずかに冷えていた。
湯を注ぐ前に、ポットを温める。
カップにも、軽く湯を通す。
――落ち着け。
自分に言い聞かせるように、動作を一つずつ区切る。
茶葉の量を量る。
少なすぎれば、味が立たない。
多すぎれば、渋みが出る。
今日は――
ほんの、わずかに控えめにして、手を止めた。
――ユウ様。
脳裏に浮かぶのは、白薔薇を抱えて立ち尽くしていた、あの姿。
キヨ様の手に触れられた瞬間、硬直した指先。
逃げ場を失ったような、あの目。
――従うと言わせてみせる。
妃の部屋で聞いた、あの低い声が、耳の奥にこびりついている。
茶葉をポットに入れる指が、一瞬、止まった。
――あの方は、本気だ。
冗談でも、虚勢でもない。
領民から王へ。
不可能を、可能にしてきた男。
その視線が、今――ユウ様に向いている。
こうなることを、数年前から分かっていたはずだった。
キヨに仕えてから、何度も同じ光景を見てきた。
望む女に文を送り、贈り物を渡し、陥落するよう、周囲を整える。
最初は警戒していた女たちも、
やがて心を許し、彼を受け入れていった。
キヨ様には、女を喜ばせる術がある。
――だが。
それが、ユウ様だけは違った。
文にも、贈り物にも、興味を示さない。
今なお、心を開かない。
そして――何よりも痛手だったのは。
彼女の笑顔を守りたいと、思ってしまう自分だった。
イーライは、ユウの部屋の前で足を止めた。
静かに、息を吸う。
――気持ちを切り替えろ。
それが、側近としての務めだ。
そう自分に言い聞かせ、イーライは扉に手をかけた。
そして、音を立てぬよう、ドアを開ける。
扉を開けた瞬間――
イーライの耳に飛び込んできたのは、笑い声と弾んだ歓声だった。
思わず、目を見開く。
部屋の中央では、ウイが黄色のドレスを纏い、くるくると円を描くように踊っている。
柔らかな布がふわりと広がり、春の光をそのまま映したようだった。
水色のドレスを着たレイは、少し離れたところで微笑みながら手を叩いている。
そして――ユウは、その様子を静かに見つめていた。
一歳年下の妹を見守る眼差しは、まるで母のようで。
そこには、張り詰めた気配はなく、ただ深い慈愛だけがあった。
イーライが立っていることに気づいたウイが、ぴたりと足を止める。
「イーライ! 今日のおやつは?」
無邪気な声で駆け寄ってくる。
「杏のゼリー寄せです」
イーライは答えながら、後ろに控えていた茶色の髪の侍女へ目配せし、
デザート皿とカップを追加するよう指示を出した。
「着替えてから、お茶にしましょう」
乳母のモナカが頷き、ウイとレイを促す。
「姉上! 着替えたら、すぐ戻るわ」
ウイは手を振り、レイと並んで部屋を後にした。
扉が閉まる。
騒がしさの余韻を残したまま、部屋は静けさを取り戻した。
「ウイもレイも・・・とても似合っていたわ」
ユウの瞳は、嬉しそうに弾んでいる。
「あとで、ミミ様にお礼を伝えないと」
その微笑みに、イーライは思わず給仕の手を止めた。
「・・・ミミ様は」
口が、勝手に動いてしまう。
「ユウ様を、妾にされぬよう・・・奮闘しておられます」
――しまった。
言葉にしてから、後悔が胸を刺した。
主はキヨ様だ。
それでも、口にしてしまった。
ユウの目が、大きく見開かれる。
ヨシノとシュリも、はっと振り返った。
「・・・それは、本当?」
ユウの問いに、イーライは目を伏せる。
「極秘に、お願いいたします」
一瞬の沈黙の後、シュリとヨシノが力強く頷いた。
部屋の空気が明るくなった。
「ミミ様が、そうしてくださるなら・・・心強いわ」
ユウは差し出された茶を一口含み、ほっと息をつく。
「・・・美味しい」
その柔らかな声に、イーライの胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
「・・・あの男が戻ってから、心が折れそうになったけれど」
ユウは静かにカップを置き、背筋を伸ばす。
「私も、覚悟を決めないと」
「・・・覚悟、とは」
イーライが、控えめに問う。
「ウイとレイを守るためなら、何でもする」
迷いのない声音だった。
「あの子たちを幸せにするために、私は負けない」
その瞳は、姫のものでも、妃のものでもない。
領地を背負う者の――強さを宿していた。
イーライは、思わず胸に手を当て、息を呑む。
「はっ」
深く頭を下げた、その瞬間。
扉が勢いよく開く。
「お待たせしました!」
大急ぎで着替えたウイとレイが、部屋に飛び込んできた。
半透明のゼリーを見て、「美味しそう!」と歓声が上がる。
「姉上が好きな杏だね」
レイがそう言って、思わせぶりにイーライを見た。
その視線を受けながら、イーライは背筋を正す。
忠誠を誓う主は、キヨ様。
だが――
心が従おうとしているのは、目の前にいる、この美しい女性だった。
――主は一人。
だが、守るべきものは、もう一つある。
◇ 一ヶ月後――
秋の風が、城内を抜けていった。
その日、一人の商人がサカイ城に入った。
「いかがでしょうか」
商人ソウはそう言って、白く輝くドレスを広げる。
光を受けて、布地が静かに波打った。
イーライは言葉を発さず、ドレスを手に取る。
正面から、斜めから、縫い目を確かめるように、ゆっくりと視線を巡らせた。
長い沈黙。
やがて――
「・・・素晴らしい仕上がりだ」
低く、確かな声。
その一言に、ソウはようやく息を吐いた。
「最高の出来になりました」
このドレスは、まもなく迫る
キヨの国王就任式のために仕立てられたものだ。
商人が退出し、扉が静かに閉まる。
残された給仕室で、イーライはぽつりと呟いた。
「・・・問題は」
一拍。
「誰の意思で、これを着せるのかだ」
次回ーー明日の20時20分
「私のために着てほしい」
それは命令でもなく、願いでもなく――ほとんど告白だった。
だが王は、もっと確かなものを望んでいる。
就任式の夜、何かが決定的に動く。




