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つい先週のこと  作者: 雪森十三夜
第七巻 補綴・新月「中学校・高等学校・浪人編」
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予備校編 パリは燃えているか(一)

 主人公の御気田箏詩おけたことねは、第一高等学校を卒業した予備校生。少しの独立心と反抗心、そして好奇心を持ち、「斜に構えた」姿勢も持つ典型的な思春期少女。

 同窓との昼食の席、箏詩は話の勢いで駿河と「年末まで手をつなぐ」ことに。

 箏詩は自ら申し出たそのことに戸惑いを感じながらも、「退却」をする理由も思い浮かばず、自身の中に生じる「これまでとは違った感覚」を意識しつつ、駿河と昼食を共にしている。そして、彼がごく自然に繰り出してくる「魅力的」など、箏詩の容姿を素直に讃える言葉に戸惑いと疑問を感じている。

(私ってば、何を恥じらっているのか知ら。)


 単に商品の宣伝文句や、その効能効果を思い出しただけだというのに、何故、身体の中からふつふつと泡が浮き上がって来るようにどきどきするのか。

 これと似たようなことは、少し以前にも経験していた。


 まだ熊沢達と昼食を始めて間もない頃、ロビーに出ると、珍しい人物の姿が眼に入った。


「あら、建子(たづるこ)さん。」


 建子は、箏詩(ことね)の一級上で、同窓会の事務局でも先輩。今年二浪目を迎えていた。

 脇には、箏詩と共に研数に席を置いている私立理系志望の上倉の姿もあった。


「お時間あるかな?」

「ええ。毎日、何もありませんから。」

「まあ、ありきたりだけれど、貴女、勉強しなくちゃ不可(いか)んよ、時間があったら、時間があるだけ。その貴重な時間だけれど、鳥渡、昼に行こうか。」


 冗談めかしてはいるが、建子(かれ)の言葉は軽そうに見えて重い。

 現役でも一浪でも、模試の結果では太鼓判を押されていたというのに、名前か番号でも書き忘れたのかとしか思えない結果で、苦杯を舐めていた。


「この苗字がいかんのかな。女子と思われて、事前にハネられているとか。」

「防大でもない限り、そんなことありませんし、受験票に写真も貼ってありますし、そもそもが苗字ですし、それに受理されている段階で…」

「ああ、良いんだ。そこまで真面目に返されると、かえって身につまされる。」


 上倉と、そんな何の解決にもならない会話を繰り広げている建子を見ていると、箏詩は得も言われぬ不安感が湧いてくる。

 一高には、浪人するものが多い。東京大学を始めとする著名な大学に進学する者が多いとは言っても、昔のように「ほぼ無試験」で帝国大学のどこかに入学出来る特権を持っていた頃は兎も角、現在のように「ごく普通」に他の高校と同様に受験をしなければならない状況では、「プライド」は時として人生の進行を妨げる要因にもなる。


 箏詩は、プライドというものは、「出来ぬことに対して無理をする」ためのものではないと考えていた。「努力」をする上での肥やしになることは否定しないが、プライドのために自分が振り回されることなど、本末転倒であるという立場であった。

 特に、「一高に入ったのなら東京大学に行かねば」という「信仰」にも近い考え方が、現在の制度に変わってから何年も経つというのに、全く消え去っていないどころか、一高生の殆どに根付いていることに驚いた。


「願うことは叶うこと?」

「いや、そうは言わないけれどさ。」

「念仏のように、東大、東大、言わないでよ。どうひっくり返ったって合格出来ないような成績や日常を繰り返している学生に限って、東大に拘っているのは、哀れでしかないわよ。」

「しっ、お前、あんまり、大きな声でそういうことを言わない方がいいぞ。」

「どうしてよ。皆、そう思っているじゃないの。」

「そうは言ってもな、本人だけではどうにもならないことだってあるだろ。」

「何よ、それ。」

「一高に入った、っていう段階でな、親類縁者が東大だ東大だって、騒ぐ家だって。」

「そうね、まだあるわね、そういうお家。」

「当人が一番辛いんだろうから。」

「息子や甥や従姉や孫が東大に入ったって、親や伯父や従弟や祖父が偉いわけじゃないのにね。」

「まあ、まだ全国から秀才を集めていた頃の昔の名残があるんだ。東京に出して、学問をさせて、末は博士か大臣か、ってな。」

「立身出世や、親孝行は否定しないけれど、現実を見ないと皆が不幸になるわ。」

「それを簡単に出来れば、受験小説なんてものは、とうの昔に廃れているだろ。」


 今でこそ、箏詩はこうした現役時代に北山にぶつけていた毒を吐くようなことはないが、建子は、まさにこうした境遇にある典型であった。

 早慶には毎年合格しているが、誰が否定しているのか進学せず、東京大学だけを受験し続けている。


「建子さん、何でもやり過ぎは身体に毒ですよ。」

「くぁあ・・俺もそう言えるほどやっていたら、今頃、こうした身分で君らの前には居ないだろうに。」

「やっていなかったんですか?」

「徐々に、時間は延びてはいる。」

「成績は?」

「それは横ばいだ。」

「辛いですね。」

「うーん。まあ、まだまだ出来ない問題があるうちは、そこが原因だから。」

「もぐら叩き戦法ですか。」

「それほど上位合格を目指しているわけじゃないからな。もぐら叩きでもいつか行けるさ。」


 普段とは反対方向の西神田へと向かい、三崎町から東京大神宮をかすめ、飯田橋へと辿り着くと、一軒のファストフードに入った。


「注文は、俺が取り敢えず基本を一括して頼んでおくから、君等は先に上に上がってなさい。」

「有難う御座います。」


 こういう段取りのときは、大抵、目上の者が軍資金を拠出することになっている。

 足りなければ自分で補えば良いとはいっても、ファストフードなら話し込んでいるうちに腹が満たされてしまう分、余程の長尻でもしなければ喫茶店の昼食よりは安くあがるだろう。


 ぼこぼこと音の鳴る、こうした俄か造りの店舗にありがちな、狭い階段を二階に上がると、正面から声が掛かった。


「こっちこっち。」


 声を掛けて手を挙げているのは建子と同期で東大の看護学校に通う杉野、その横にさらに一級上で東大文一の五反野、その前には、五反野越しに外を見ている駿河、そして応援部で駿河の一級上で建子同様二浪中の副島、その隣には北山の姿があった。


「やあ、杉野さん、久し振りです。」

「ソーシ、元気にしてるぅ? また髪伸びたんじゃない?」


 杉野は、普段通りの明るさだが、五反野は心なしか苦虫をかみつぶしたような顔をしていることが気になった。

 箏詩達三人分の基本セットを持った建子も到着して全員が食事を済ませると、五反野が咳払いをして口を開いた。


「今日は、俺の支払いだから、その替わりと言っては何だが、一席話を聞け。」


 五反野の話は、早い話がお説教であった。

 曰く、まだ入試まで月日があると多寡を括っていると、とんでもない目に遭う。

 曰く、周囲は放っておいても進んでいるのだから、その上を走らねば置いて行かれる。

 曰く、君等は二浪の副島と建子を除けば、推薦で予備校に入ったのだから、結果は後輩に影響する。

 曰く、一年もない決まった時間なのだから、寸暇を惜しんで準備に励め。

 曰く、間違っても、男女交際などという色気に拐かされてはならない。


「いやぁ、五反野さんも厳しい。」

「予備校経験者ですしね、お目付役もしなければいけないんでしょう。」


「後は腹を満たして、早々に帰れ」と、追加の軍資金を置いて杉野と店を後にした五反野の姿を、窓越しに確認した建子と北山は、首を回して肩の凝りを解した。


「余計なお世話だってぇの。」

「おや。一言、お返しかい?」


 箏詩の言葉を建子が拾い上げた。


「至極ご尤もで御座いますし、言わねばならぬお立場も判る。でも、余計なお世話。」

「じゃあ、言うことを聴かないのか?」


 熊沢は、先ほどまでの無口を解禁したのか、真正面から切り込んできた。


()うするかは、私の自由だわ。」

「要は結果だろ? まあ、最後まで黙って見てろ、じゃあ親心にも申し訳ないから、模試である程度見せていけば、安心するんじゃないか。」

「ギエンは、ああも紋切り型に断罪されて、腹は立たないの?」

「まあ、寝てばかりいるのは本当だしな。それに、見解の相違に腹を立てても仕方ないだろ。見解の相違に決着をつけるのは、結果くらいしかなかろ?」


 駿河の達観したような言い振りに、箏詩は反応した自分が何やら子供染みていたかのように思われ、急にバツが悪く感じ、早々に一人で席を後にした


 啖呵を切るなら、五反野当人の眼の前ですれば良かったかと思ってもみたが、それでは余りにも失礼だと、箏詩は解っていた。それが解っているならば、五反野の言っていることを自分も認めていることになる。

 認めていながら当人が居ないところで啖呵を切るのは、陰口ではないか。

 一人になって考えてみると、そうした自己嫌悪感と、何やら得も言われぬ感情がふつふつと湧いてきて、侘しくなってきた。


 その時と、状況は全く異なるが、身体の中から「ふつふつ」と沸き上がって来る感覚は同じように思われた。


(えっと、前は、先走って啖呵を切った割には自分が子供染みて思えて、恥ずかしくなって。その後、自己嫌悪とよく判らない感覚が浮き上がってきて。今回は、洗いたての髪を維持するシャンプーやリンスのことを思い出して。って、全然、共通項なんかないじゃん!)


 箏詩は、今夜も出口のない堂々巡りの思考に陥り、また翌朝にドタバタとすることを懸念した。


(何だ、この感覚? 同じ感覚なら、絶対に共通項がある筈だ。何だろう?)


 英語の問題集を解く心算(つも)りで机上に出した紙に、整理を始める。


(今回のきっかけは、シャンプーとリンスのコマーシャルだ。前回のきっかけは、先走って啖呵を切ったことだ。ここに接点はない。もう一つ遡るとどうか知ら。シャンプーとリンスの前は髪の毛だ。啖呵の前は、五反野さんのお説教だ。ここにも…。あれ。)


 高校三年の時に、北山を伴って他学級の演目をひやかしに廻っていた時の感覚が出て来た。


(あ、何か判りそうよ。えっと、何だ。引っ掛かるな、出て来い。)


「そうだっ!」

「姉ちゃん、五月蠅いっ!」


 隣室との境の壁を弟が叩く。


(あ、折角分かりかけたのに、忘れちゃうじゃないの。えっと、何だ。そう。啖呵の前は五反野さんなんだけど、前回のこの感覚は、啖呵の前じゃなくて後なのよ。そう、啖呵の後に駿河氏がさらっと達観するようなことを言ったから、バツが悪くなって「まあ、仕方ないか」って自己嫌悪に繋がったのよ。そこが直接の原因。)


 紙に、大きくバツを引いて、直接の原因を書きこむ。


(で、今回は、コマーシャルの後には何もないわね。だから、前で大丈夫。髪の話よ。その髪の話は…、そうそう駿河氏が褒めたのよ。私の「生まれながら」のものではない「今している努力」について褒めたんだわ。それで、そういうことを人工的に作れるシャンプーとリンスがあるってことを思い出して、あっ…!)


「わかったぁ!」

「…!!!」


 先程よりも強く、壁が叩かれる。


(そうよ、単純なのよ、共通項は駿河氏だわ。あ…れ、でも、共通項が解っても、全然、解決しない。)


 どちらも駿河が関与していることには辿り着いたが、なぜ、そんな感情に繋がったのかが全く理解出来ない。


(んん? 前回は恥ずかしい、恥をかかされた? 今回は、恥ずかしい、褒められた? 正反対?)


 机上の紙に、矢印や説明を書きこんでいるうちに、また何やら引っ掛かっているものが出てきそうな気配を感じた。


(感情的には全く違う「恥ずかしい」なのに、何うして同じ感覚が沸き上がってきた? どちらの感情を生じさせられても、同じ感覚が沸き上がる…。感情を生じさせられる事柄が問題なのではなくて、人?)


 双方の感情を書き記した部分に丸をつけ、そこから一つの同じ個所に矢印を引く。


(駿河氏だから? 相手が彼だから恥ずかしい? もしかして、そういうこと? じゃあ、極論を言えば、何をされても恥ずかしい?)


 ここまで来て、箏詩は再び解決の道を見失ったように思った。


(私、彼にいいように転がされてる? 振り回されている? そういうことか知ら。)


 そう思うと、手をつなぎ始めてからの、全てのことがそこに集約されているように理解されてきた。


(でも、彼は、そんな作為は微塵も見せないじゃないの。憎らしいほどに。でも、私は、現実的に転がされている、振り回されている。)


 ここで、今日の命題となっている二つの心理とは異なる、少し虚しいような、それでいて何か焦りを感じるような感情が沸き上がって来た

 と同時に、自身が抱いている無力感の裏返しとして、無性にその当事者に反抗してやりたい気持ちでいてもたってもいられなくなり、小銭と手帳を手に家を出ると、公衆電話の受話器をとった。


 ソウシさんは、自身の心が「揺らぐ」ときは、「対象に関心がある」のだと理解しています。

 それは、必ずしも好意ばかりではなく、嫌悪であるときも少なくないわけで、特に一高時代での男子との接触では、前者が殆ど無かったことで、多少の先入観も出来ているようです。

 一高時代は、議論を好む学生が多かったためか、会話を続けていれば、苦労せずとも勝手に相手の思うところ、望むところが自然に現れてくることが多かったことに対して、駿河君の場合は、特段隠し立てをしているようにも見えないのに、一向にその「本心」というものが見えてこない。

 だから、自身の心の動揺の原因が駿河君であるということに辿り着いても、はっきり見える壁にぶつかったソウシさんは、苛立ちを募らせています。そして、また、行動に出てしまいましたね。

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