葛藤と受容
部屋の中とは対照的に、階下ではきゃっきゃとなにやら盛り上がっている声が聞こえる。
「ど、どうやって下に降りればいいの……ぎゃっ」
ドアの方に手を伸ばしたままの小都子の後ろ姿を見ていて、つい背中から抱きしめると、小都子が小さく叫んだ。可愛い。
「ああああ朝くん!」
「ふふ」
「……そこで笑わないで……心臓に響く……」
「ふ、だって……ふふ」
「だから笑わないでってば」
力なく言う彼女の背中は強ばっていて、僕は嬉しくて嬉しくて、こみ上げてくる満たされた笑みを抑えることができない。だって、幸せなのだ。ふりほどこうとしない小都子が、愛おしい。
「どうしてそんなに頑なかなあ」
僕が思わず呟くと、小都子の何かに触れたのか、背の力が一瞬抜けた。
「そんなところも可愛いけど」
再びぎゅっと背に力が入る。
「ふ、ははは」
「……朝くん、私で遊んでるでしょう」
「んー、違うよ」
「さっきの」
「さっき?」
「さっきの、その、け」
「結婚?」
「そ、それ。冗談だよね」
「冗談じゃないよ」
「冗談だよね?」
「念を押すなあ」
「だから、そこで笑わないでってば」
だんだんと体から力が抜けている小都子に、僕は少し踏み込む。
「理央も言ってたけど、僕が好きな相手と結婚させてよ。駄目なの?」
「そういう言い方しないで。ずるいから」
「ずるくても何でもいいよ。小都子の気が少しでも僕に向くのなら」
「……なんで、私なの」
「好きだから」
「……」
「間違った。大好きだからだよ」
うなじがかあっと赤くなる。
こういうときにポニーテールという髪型は威力がすごい。垂れた尾がうなじを辿り、肩で曲がり、胸元に垂れている。それを一筋掬ってキスをしたいが、ぐっと堪えて言葉でしっかりと小都子に伝える。
「ずっと、ずっと前から。優しくて穏やかだって言ってくれたけど、それは小都子が傍にいてくれるからだよ。君といると幸せで、満たされて、心が軽くなる。他のだれといてもそんなことは感じない。理由なんてわからない。ただただ、小都子そのものが好きで好きで、大好きで仕方ないんだ」
小都子は僕の希望で、光で、幸せの象徴で、それはどうしても揺るぎそうにない。
そう伝えると、彼女は少し、俯いた。
「……どうしてそんな恥ずかしいこと言えるの」
茶化してきた彼女の声が少しだけ潤んでいる。
「恥ずかしくないからかなあ」
「……ふふ、恥ずかしくないの?」
「うん。本心だからね」
その背中からじんわりと柔らかな感情が伝わってくる。
受け入れられている。
そんな感覚に、あたたかなもので包まれたような安堵が心の深くに広がっていった。
「小都子」
なるべく優しく名前を呼ぶ。
「いつか僕を信じてくれるまで、待ってる」
受け入れてもらえない、というより、信じてもらえない、というのがしっくりきた。
ずっと、僕がどれだけ好きかを伝えても「そんなわけない」というような分厚い壁を感じるのだ。
信じられないのだろう。
仕方がない。彼女の見てきた前世と、僕の見てきたものはどうしても交わらない。
けれど、それを訂正する気はなかった。
僕らはもう、あの時代には生きていないのだから。
「ここにきても怖くないって思えるまで、待つよ」
願うように、小都子のせに額を当てて言うと、僕はさっと離れて立ち上がる。
「さて、両親たちの騒ぎを納めてくるよ。それにしても盛り上がってるなあ」
「それ朝くんのせいだよ……」
「そうだっけ」
「そうです」
「それはごめんね?」
「絶対悪いって思ってないでしょ」
「うん」
「もう」
小都子の声が少し元気になる。
僕は彼女の顔を見ぬように、マグカップを両手に持って「先に降りてるから、静かになったらおいで」と小都子に言い残して部屋を出た。
階段を下りながら、今までは踏み込まなかったところに踏み込んでいることを感慨深く思う。
佐伯樹里と啓人が現れなかったら、僕らはそつなく「恋人同士」を続けることができただろうが、その時間が増えれば増えるほど、もしかすると溝は深くなっていったのかも知れない。
小都子は、僕を信じていないし躊躇いがある。
けれど、僕を嫌ってはいないし「好き」でいてくれているらしい。
なんらかの葛藤があるようだけど、僕にはその深い場所がわからなかった。
啓人なら、わかるのだろうか。
だとすれば、やはり二人を近づけるのは危険な気がする。
どうにか手を打たなければ。
「で、なんで私のところに来るの」
佐伯樹里は大層不機嫌な顔で僕を睨んだ。
授業中の静まった廊下を歩いて、佐伯樹里のおわす小さな城へ乗り込むと、彼女は一人で窓の外を見ていた。つまり暇だったのだから、少し付き合ってくれてもいいのに。
僕は近くのソファに座って、同じように。窓の外を眺める。
校庭と木、青空だけが切り取られた額縁は、何の変哲もないいつもの景色だ。
「接触しないってことじゃなかったの」
「それはそれ、これはこれ」
「なによ。体調でも悪いの?」
少しばかり心配そうになった表情は、よく見ると年上のそれだ。
大人と子供の違いを一瞬感じる。
「え、本当にどこか悪いの」
「いいや別に」
「……なによ、そういうところが嫌い」
「ありがとう」
「で、何の用事」
「君のとこがどうなってるのか聞きたくて」
「順調よ」
彼女は無表情から突然嬉しそうな表情に変えて、特に聞いていもいないのに事細かに話し始めた。
昔もこうして妻の恋の話を聞いていたなあ、などと、僕は懐かしんだのだった。




