六
いつも通り、事務所に赴く。
誰もいない。
十数年は通い続けたこの場所で、そんなことは一度もなかった。
この場所は、常に騒がしかった。
分かっている。
これから、何が起こるのか。
感じ取ってはいた。
組織の、家族の、異変。
俺という大きな力は、組織を動かす上では邪魔でしかない。
それでもまだ、俺の家族は——
——家族で居続けてくれるだろうと、そう思いたかった。
***
逃げ腰の子供。
口元血濡れ全裸の俺。
仁義なき戦いが、始まろうとしている。
俺の勝利条件は、彼の手を借りて地上に戻ること。
敗北条件は、彼に逃げられること。
まぁ、良くて2割の賭け……と言ったところか。
問題は、子供に対しての接し方がまるで分らない事。
既に現状、敗色濃厚である。
挙句の果て、この風体と場所だ。
子供でなくても、警戒しない方がどうかしている。
策を弄さねば。
そこで、少し情報を整理することにする。
そもそも、俺は外の景色を見ていない。
ここに連れてこられた時点で、俺は室内にいた。
ということは、昨日俺がいた場所から随分と離れている可能性もある。
そして、あの子どもだ。
一人だけでこの世界に送られてきたのか?
それにしては、身なりも小綺麗だ。
そうなると、彼はこの世界で生まれたと考えられる。
それはつまり、出産できるほど食料に余裕があり、かつ社会が出来上がっていることを意味する。
だが、これはこれで疑問が残る。
『人食いゴリラ』
こう俺を呼んだということは、少なくともあの子供は人を食ったことがなさそうなのだ。
なら、どうやって食料を担保している?
まさか、人以外にも食えるものが存在するのか?
だとしたら、俺は——
……いや、結局あの二人の事は、どう転んでも殺さなければ俺が死んでいた。
そう納得することにしよう。
ともかく、万一社会が存在するなら外にいるのはあの子供だけではないはずだ。
ならば、敢えて脅した上で救援を呼ばせるか?
大人ならばまだ、話が通じる奴がいるかもしれない。
前提条件がもし前者だった場合、この策は通じない。
だが、それでも賭けるしかない!
「おい、ガキ……」
俺は子供の、その後ろを見た。
今の言葉、発したのは俺ではない。
「一人でこんなところ、うろついちゃあダメだよねぇ」
「危ないよお」
二人、三人、次々と男が現れる。
だが、明らかに保護者の放つ覇気ではない。
どうやら、思った以上に外の治安は悪そうだ。
「ここは俺たちにとって大事な場所でねぇ。勝手に覗いたら、おじさんたち怒っちゃうよお」
子供は失禁している。
ここであの子供を殺されるのはまずい。
どう考えても、あの連中が俺をここから引き上げてくれるとは思えないからだ。
なにより、子供を目の前で殺されて気分良くいられるほど、俺は腐っちゃいない。
数秒もない。
だが、どうやってあの子供を……
ここで俺は、自分の犯していた大きな間違いと、抱えている大きな問題に気づいた。
俺の癖なのだ。
理詰め。理論。
そうして、物事を詳細に考える。
殺したはずの理性が、まるで悪霊のように取り付いてくる。
それではダメだと分かっているだろう。
だからここまで、俺は何も解決できていない。
変われ。
先生と共に生きると決めたなら。
目を閉じろ。
息を止めろ。
静止した白の中で、瞬間的な鼓動に応えろ。
一縷の、電気信号。
これだ。
俺は手元の銃で、躊躇なく人差し指を破壊する。
千切れ飛んだそれを捕まえると、思い切り上空へとぶん投げた。
「おい、少年! 死にたくなけりゃ、これを受け取れ!!」
「えぇッ?! な、なんで!!」
「なんでもだ!!」
子供は戸惑いながらも、俺の指を受け取る。
ただ、勢い余って暴漢の方へと取りこぼしてしまった。
それでいい。
「なんじゃあこりゃ、指か?」
「中に誰かいやがるのか?」
男の一人が、中を覗く。
残念ながら、そこには抜け殻しかない。
俺のヤマイ。
肉体を再生させる症状を持つ。
その再生起点は、問われない。
たとえ肉の切れ端であろうと、俺の体であればそこから再生できる。
「おい、何だコイツ! ゆ……指から人が生えてきやがった!!」
指先からの、肉体全再生。
意識もきちんとこちらの体に転送されている。
「ありがとうな、少年。君がいなきゃ、ここまで指は届かなかった」
「ご……ゴリラが生えてきた……」
まだ言うか。
まぁ、実際今の俺は化け物にしか見えないだろう。
だがもはや、他人の評価を気にする次元ではない。
さて。
「お前らは誰だ? 鐵ジンの知り合いか?」
「オイオイ、指から生えてきた化け物になんで俺たちが名乗らなきゃならねぇんだよ」
「はは、その通りだな。ところで」
舐めて足を動かしたやつがいる。
俺が目でけん制すると、雷が落ちたかのように動きを止めた。
「そこを越えるなよ。越えた瞬間、口からお迎えだぜ」
こうは言ったが、どうせ越える奴が出てくる。
群がったチンピラなんてそんなものだ。
相手は4名。
全員、銃を所持。
いきがってはいるが、戦い慣れはしていなさそうな構え。
おそらくは、ジンと武器を取引していた相手だろう。
想像よりも、あの銃は多くの人間の手に渡っていそうだ。
指先から再生したせいで、俺の体力自体は決して多く残っているわけではない。
ジンを食べた矢先に勿体ないことをした。
それを踏まえ、この戦いにどれだけ労力がかかるだろうか。
思考しなくてもいい、感じればいい。
——8秒。
それですべてに片が付く。
「少年、少し目を閉じてな」
5秒後、男たちは首との別れを済ませた。
断末魔は聞こえなかった。
「なぁ少年、君の住む場所にはこういう連中が大勢いるのかい」
「う……うん」
子供は目を閉じたまま頷いた。
なら、この首は見せしめにそこへ持っていこうか。
少しは寄り付く悪漢も減るだろう。
「ゴリラさん、さっきの人たちのこと……殺したの?」
震えた声で、後頭部を殴られた。
あまりにも、純粋な凶器だった。
「あぁ、殺したよ」
「なんで……そんな簡単に殺せるの?」
この子は、どうやって俺が殺したのかを聞いているのではない。
俺の、殺しへの躊躇のなさを問うている。
簡単に、殺す。
それができるまでに、随分と積み重ねがあった。
そうなりたかったわけではない。
そうなってしまったのだ。
俺はヤマイにかかるずっと前から化け物だった。
そう、今の言葉で実感した。
「お父さんもそうなんだ。ああいう怖い人連れて、ぼくの街を仕切ってる。気に入らなければ、変な力を使ってみんなを殺すんだ」
街。
やはり、この世界には社会がある。
ただ、その実態は恐怖政治に近いもののようだ。
それを解決できれば、手っ取り早く住民の信用が得られるだろうか。
「俺ならそのお父さんの事、なんとかできるかもしれない」
「……殺すの?」
俺は何も言えなかった。
返す言葉を見つけられなかった。
悪人とはいえ、父親は父親。
この子供は単に、親に改心して欲しいだけなのだろう。
『家族を殺すのか』
脳裏に、あの声が響く。
俺は、親父を殺すことしかできなかった。
壊れた絆を、ぬくもりを、壊れたままにすることしかできなかった。
そんな俺に、何が出来る?
少なくとも今の俺は、ただ殺すことでしか人を変えることはできない。
強くて、強くて、無力なのだ。
両手にぶら下げた、男たちの顔を見た。
暗く、歪み、恐怖の中にあった。
目の前で立ち尽くす、子供の顔を見た。
暗く、歪み、恐怖の中にあった。
俺は、この子を助けた。
本当に、か?
破壊者に、殺戮者に、ヒーローは務まらない。
俺のやっていたことは、単なる自己満足にすぎないのだ。
そんな俺が、彼の父親をどうにかできると——
——口にした時点で、間違っていた。
「あぁ、きっと殺すだろうよ」
そうとしか答えられない自分に、吐き気がした。
しかし、その吐き気は、思いもよらぬ形で増大することになる。
「お願いします。お父さんを、殺してください」
「……なんだって?」
一度人殺しに慣れた人間は、その因果から外れることはできない。
その事実を、俺はこれから幾度となく味わうこととなる。
歯車が、軋みながら動き始めた。




