一
ざわめき。
それから、ざわめき。
この人混みに、どれだけの人が詰まっているのか。
その端っこで、誰かが転んだ。
誰も見向きもしなかった。
この何百、何千の人の塊が、こぞって目もくれなかった。
その誰かは、苦しそうにもがいてから、ゆっくりと体を起こした。
そうして、深いため息をつき、それからまたふらふらと歩きだした。
薄汚れたコートと、拳銃一丁を抱えながら。
***
腕時計の針が6周した。
まだ、何も見つかっていない。
俺の最優先事項は、自分と同じようにこの世界へ来た生物を見つけること。
いるかどうかも分からないが、居ると仮定しないとやっていけない。
生物がいれば、そいつらが生きられる環境であることが確定する。
そしてそれさえ見つかれば、大きく生存率は跳ね上がるのは目に見えているのだ。
だが、手がかりは何もない。
進歩のない苦労というのは、体力の消費を倍増させる。
流石に少し疲れたので、先程まで少し寝転がった。
が、相変わらず眠れなかった。
歩きづらいこの床も、寝転ぶにはちょうどいい。
こうして息を抜くのもいつぶりだろうか。
静かだ。
思えば、俺の人生には静寂が無かった。
ずっと、誰かの声がしていた。
それが、この世界に来てからは誰の声もない。
そして、不思議と孤独は感じない。
よほどあの騒がしい世界の方が、ずっと寂しかった気がする。
孤独とは、結局俺自身の問題なのか。
あくびをする。
伸びをする。
眠れないときのルーティンだ。
相変わらず克明に、全身から血の走る音が聞こえる。
走る音が聞こえる。
走る音が聞こえる。
走る音が。
俺はすぐさま起き上がると、後方、ちょうど自分の右肩あたりを見渡した。
走る音が聞こえる。
どんどん大きくなっている。
獣の足音ではない。
人だ。
人の足音。
人がいる。
だが、感動よりも警戒が勝った。
こんな世界で出会う人間だ。
話が通じる前提でいないほうがいい。
黒い点が、だんだんと大きくなり、やがて人の形を成していく。
瞬間、俺の体は視覚情報よりも先に、もっと強烈な意思をキャッチした。
――殺意。
「敵かよ」
拳銃の残弾数、2発。
1発は威嚇射撃に使い、2発目は確実に攻撃すると決めたら即、撃つ。
一旦はそれで仕留めること前提で立ち回ろう。
向けられた意思の理由を考えている暇はない。
それは対応してからでも間に合うことだ。
弾が届きそうな範囲ギリギリまで引き付ける。
相手の足は止まらない。
拳銃の残弾数、1発。
相手の足は止まらない。
顔すれすれに撃ってやったのに、このまま突っ込んでくるか。
「面倒だな」
俺も走り出し、距離を取りながら様子を見る。
体格は男、結構筋肉質。
身長は、ざっと見て180前半。
「御免」
俺は一気に切り返し、横を取る。
銃口は男の額、脳天をブチ抜くルート一直線。
拳銃の残弾数、ゼロ。
「……うまいな」
発砲音と共に、男は笑顔で口を開いた。
「けど、ソレジャア足りないんだな、これが……」
【生きろ】
男の言葉を遮るように、先生が俺の体を捻る。
直後、轟音と共に何かが飛ぶ。
放たれたはずの銃弾は綺麗に両断され、標的の両脇をすり抜けていった。
「うそだァ、今の避けるかよ」
男はすぐさま距離を取ると、蛇のような目でこちらを睨む。
一方の俺はというと、耳から血と汗を流しながら、無様にもがいていた。
危ない。
本当に危ない、ギリギリだった。
0.3度。
0.2mm。
0.05秒。
この誤差の中に、万の死神が詰まっていた。
やはり、先生には頭が上がらない。
しかしなんだ、今のは。
まるで、巨大なギロチンが高速で発射されたような。
この世界に生きる人間は、ああいう異常な力を持っているものなのか?
「異能バトルなんざフィクションだけにしてくれよ。チクショウ、なけなしの弾台無しにしやがって……」
俺はため息をつきながら、なんとか虚勢を張った。
こんな世界に来た時点で、常識というものは全て当てにならないのだ。
こいつが突然エイリアンに変貌しても、分裂しても、全て受け入れねばならない。
揺れてはいけない。
「ありゃあ。なけなしなら無駄遣いしちゃダメデショ、お兄ィさん」
冷たい黄金色の眼光が、怪しく俺の傷口を照らす。
向こうの世界じゃたいそう綺麗だったであろう銀髪は、幾多もの返り血が染み込んだらしい黒ずみで汚れていた。
手練れ。
予感はしていたが、たった今確信に変わった。
こいつは、慣れている。
人の気配を鋭敏に感じる勘の良さと、一切の躊躇なく襲撃してくる度胸。
おそらく、俺がこちらの世界に来て間もないことも察されているだろう。
そういう相手を、今までも繰り返し襲ってきたとみえる。
大抵こういう状況で最初に現れる敵は、漫画なんかじゃいわゆる主人公の「噛ませ」になることが多い。
なめてかかり、結果返り討ちにあう。
そうして主人公の引き立て役になってくれる。
だが、現実は違う。
獲物を的確に嗅ぎ付け、初見のワザで有無を言わさず息の根を止める。
銃弾を容易に避け、仕留めきれなければ間合いを取る。
こいつには、誰しもの最初の敵となり、最後の敵になってきた貫禄がある。
おまけに、こちらはまだこの世界の常識を把握できていない。
空腹も激しくなり、体力も底をついている。
実力、状況、どれをとっても不利。
故に、最初の敵が一番強い。
「しかし、まさかチャカ飛んでくるとはね……。おっかないなぁ、お兄ィさん。一体何者?」
「さあな。閻魔様にでも聞きに行け」
「墓標が無記名じゃ可哀想だから、気を遣ってあげたのにな」
先ほどまで穏やかで、生温いほどだった空気が、皮膚に染み込むほど張り詰める。
体力の消耗を考えると、相手はそこまで時間をかけるつもりはないだろう。
あの見えない攻撃が、もう一度来る。
考察も何もできたものではない。
ただ、当たれば確実に死ぬと確信できる。
とはいえ射程が分からない以上、障害物が一切ないこの大地で逃走するのもリスクが高すぎる。
迎撃。
残された道はそれしかない。
「……撃って来いよ」
お互いの拳がギリギリ当たるほどの絶妙な距離。
《《あれ》》を避けさえすれば、右ストレートを打ち込むチャンスぐらいはある。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
男の手が上がる。
来る。
来い。
撃って来い。
見えない攻撃を――
刹那。
視界が真っ赤になった。
鈍痛が走る。
さらに腹、腕、脚。
1.5秒間に、およそ7発ほど。
――ジャブ!!
見えない攻撃に意識を割きすぎた。
本来なら余裕をもって避けられる打撃を、あまりにもノーガードで食らい続けてしまっている。
大脳から、エネルギー不足の危険信号が出る。
もはや、自分の判断能力は信用できない。
「警戒しすぎだよ、お兄ィさん」
言うなり、俺の脇腹が裂ける。
足の力が一気に抜け、床に顔面を殴られた。
……ナチュラルに、打撃と見えない攻撃を混ぜてきている。
確実に俺の体力を削りきる気だ。
「疲れてるんでしょ、気の毒に。でもみんなそうだよ。向こうじゃ強かったんだろうなぁって人も、ここじゃ生餌にしかなれない」
「……生餌だと?」
「鮮度が落ちるといけないから、瀕死のうちにいただいておくね」
男は俺の顎を持ち上げると、刃のように研ぎ澄まされた犬歯をむき出しにした。
「お兄ィさん、アタシはね。キミを食べに来たんだ」
メリ
頸動脈が弾ける音がした。
焦るように、息も絶え絶えの脳からアドレナリンが分泌される。
滝のような血液が、男の口に流れていく。
それに溶けるように、俺の意識も薄れていく。
あぁ、結局。
誰しも考えることは同じか。
だが、見ないふりをしていた。
水も、肉も。
何もない世界で、もし生物がいるのなら。
そいつを喰らうのが、もっとも生存に近づく道だということを。
それがたとえ、人間であったとしても。
俺は少し考えて、この首筋に広がる鈍痛を受け入れた。
こいつ自身の、生きようとする意地を受け取った。
それを踏まえて、俺も死ぬわけにはいかない。
自分の中で横たわる理性に、別れのキスをした。
お前なしで生きるすべを、俺は持っている。
「オイ」
首にへばりついた頭を毟る。
薄汚い手を捻る。
そのまま、引き千切る。
声にならない呻きが聞こえた。
「閻魔にゃあ片腕で会うこった」
すでにぶらりと力を失った肉塊。
俺はそれに、猛然とかぶりつく。
言葉にできない味だった。
そして、あぁ、俺はついに、人間を捨てたのだと実感した。
「うまいかい、アタシの腕は」
男はおびただしい血の池を作りながら、静かに立ち上がった。
その顔に、動揺はない。
ただ変わらず、その眼は獲物を捉えていた。
「ちょっとぐらい痛がったっていいんだぜ」
「獲物に噛みつかれる覚悟もない狩人に、命を狩る資格はないデショ。ねぇ、お兄ィさん」
男は静かに笑った。
しゃがむ。
頭上を、轟音が通り過ぎていった。
逃げ遅れた髪の毛が、何本か宙を舞う。
「もう、当たらないね」
「あぁ。もう、当たらないぜ」
鉄のにおいが立ち込める。
赤いリングが形成される。
一歩。
波紋は足を飛び出し――
――衝突する。
ゴングが鳴った。




