序
俺は神様につままれると、そのまま何処かへ放り投げられた。
先ほどまで周囲を埋め尽くしていた騒音、建物、人、人、人。
すべて、一瞬にして消えていた。
しん
世界が空白になると、本当にこういう音が聞こえるのだと初めて思い知った。
見覚えのない景色。
灰一色の空。
見渡す限り、空っぽの大地。
生命の枯れ果てた、夜の砂漠。
俺は、そこに立っていた。
目を疑った。
耳を疑った。
疑わずにはいられなかった。
色を塗り忘れた世界。
太陽を描き忘れた世界。
音を置き忘れた世界。
それが、今目の前に広がっている。
「知らぬうちに、川でも渡ったかな」
少し歩く。
砂や、石のような感触はない。
代わりに、湿気た布団を踏んでいるような、妙な硬さと柔らかさがある。
コートを脱ぐ。
寒いわけでも暑いわけでもない。
何か物事に没頭しているとき、体感温度など忘れてしまう、あの感覚に近い。
そうだ。
よく似た感覚を、夢の中で良く味わったことがある。
つまり、これは夢なのだ。
路上でうたた寝でもしてしまったのだろうか。
そんな間抜けな話もないが、そうでなければ道理が通らない。
そうでなければ?
そんなことがあってはならない。
これは夢である。
そうとしか思えない。
そうであってくれ。
この、あまりに非現実的な世界。
そこに突如として立っている今。
それを必死に否定しなければ、頭がどうにかなりそうだ。
自分の頬をつねった。
夢から覚める方法と言えば定番だというのに、一向に覚める気配がない。
肌から離れた指先は、じっとりと湿っていた。
俺はただ沈黙した。
そのうち自分の、荒い呼吸音と心音が、はっきりと聞こえてきた。
壁も障害物も一つない、まっさらな大地に、俺は立っている。
しかし自らの体内からは、耳障りなほどに生命の音が聞こえている。
それも、あたかも密室にいるかのように克明だ。
血液が走り、巡っている。
その事実に触れるだけで、うっすら希望と絶望が湧いてくる。
俺は生きている。
そしてああ、残念ながら、これは夢ではなく現実だ。
疑っていた、疑いたかった、自分のこの体が、懸命に教えてくれている。
罰か。
あるいは、単なる気まぐれか。
神は何を思って俺をこの世界に連れてきたのか。
タダの一人の、ちっぽけな人間のオスには、何もわかりはしない。
死神が、背筋をなぞった気がした。
振り向けば、そこにもただの空白が広がっている。
――俺はここから出られないのか?
慌ててポケットをまさぐる。
くたびれた革財布と、煙草、電子ライター、リボルバー式拳銃一つ。
「クソッ」
手の隙間から、小銭と万札がこぼれ落ちていく。
こんな状況じゃ、億を抱えた長者ですらただの木偶の坊だ。
せめて自販機で何か買っておくんだった。
飲み物もない。
食べ物もない。
となれば、命を掴むすべがない。
そればかりか、命を捨てるすべの方が、懇切丁寧にも用意されているときた。
弾倉を確認した。
3発、まだ残っている。
「……なぁ、俺よ。どう使う。この3発を」
俺の理性は、すでに怖気づいている。
だからこんなにも自然に、こめかみに鉄の感触がしているのだろう。
だが、俺の体は言う。
【生きろ】
【ここで死んではいけない】
本能。
人がそう呼ぶもの。
人の理が届かぬものと相対した時、最後に頼れるのは結局、これである。
この世界の不条理に立ち向かえるのは、肉体に刻まれた遺伝子の意思のみ。
最終的に生き残るには、理性など所詮役立たずなのだ。
死を握りしめるこの手に、じんわりと伝わる体温を感じる。
瞬間、全神経が信号を受け取った。
【やらなければならないことがある】
ならば、やらねばならぬ。
俺はここで生きねばならぬ。
生きて帰らねばならぬ。
俺は咄嗟に銃口を上へ向け、己の理性を撃ち殺した。
「先生、俺に生きるとは何たるかを、もう一度教えてください」
体が、大きく脈打つ。
それは、先生からの無言の返事。
「生くぞ」
途方もない空虚の世界に、男は一人踏み出した。
空傘レイジ、齢28。
異界にて、獣へと成る。




