第6話 あの日逃げた仕事
翌朝、目を覚ました瞬間、まず視界の端を確認している自分に気づいた。
カーテンの隙間から差し込む光。
見慣れたワンルームの天井。
昨夜脱ぎ捨てたスーツ。
ベッド脇のスマホ。
そして、その上に浮かぶ文字。
【選択ログ】
失敗:127
回避:3
保留:12
昨日と同じだ。
当たり前なのに、少しだけ安心する。
ログが消えていない。
昨日の出来事が夢じゃなかった証拠みたいに思えた。
その感覚に、自分で少しぞっとする。
普通なら逆だろう。
こんな得体の知れない表示なんて、消えていてほしいはずだ。
なのに今の俺は、それがあることに安堵している。
「……慣れるなよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、ベッドから起き上がる。
顔を洗いながら、昨日のことを順番に思い返した。
駅で彼女に声をかけたこと。
資料の修正で失敗を避けたこと。
野上主任から新しい案件の打診を受けたこと。
どれも元の人生にはなかった流れだ。
そして、その全部が今の俺にはまだ少し眩しい。
でも、浮かれてばかりはいられなかった。
昨夜の最後に出た表示。
接点の再来あり。
あれが何を意味するのか、まだわからない。
彼女のことなのか、仕事のことなのか、それともまったく別の何かなのか。
わからないまま、朝は来る。
スーツに袖を通し、駅へ向かう。
人の流れに混じりながら、俺は昨日より少しだけ周囲を意識していた。
彼女は、いない。
同じ時間帯、同じホーム。
それでも、それらしい姿は見当たらなかった。
少しだけ肩の力が抜ける。
同時に、わずかな拍子抜けもあった。
また会えるかもしれないと思っていたのだと、そのとき初めて自覚する。
だが、ログは何も反応しない。
ただ静かに視界の端で揺れているだけだ。
会社へ着き、席に座る。
PCを立ち上げたところで、高橋が缶コーヒー片手に近づいてきた。
「おはようございます。今日も生きてる顔してますね」
「その表現、定着させる気か」
「いいじゃないですか。昨日の村上さん、ちょっと別人でしたし」
別人。
冗談のはずなのに、胸の奥がわずかにざわつく。
「今日は普通だよ」
「いや、普通の人は朝からそんなに画面睨みませんって」
言われて、ようやく自分が無意識に視界の端を気にしていたことに気づく。
「寝不足なだけだ」
「無理しないでくださいよ」
高橋はそう言って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
別人。
たしかに、少しずつそうなっているのかもしれない。
過去を知っている自分。
失敗を覚えている自分。
そして、それを避けようと動き始めた自分。
前と同じ顔をしていても、中身はもう少しずつズレている。
午前の業務が始まってしばらくして、課長に呼ばれた。
「村上、ちょっと来い」
声の調子はいつも通りだったが、その一言だけで胸の奥に嫌な感覚が蘇る。
会議室ではなく、小さな打ち合わせスペース。
前の人生の記憶が、唐突に浮かび上がる。
――あの日だ。
課長から、新規クライアント向けの提案同行を打診された日。
たしか、三年前のこの週だった。
野上主任の案件より少し前。
まだ自分に大きな仕事が回ってくると思っていなかった時期だ。
そして俺は、その話から逃げた。
準備不足を理由に。
経験が足りないと自分で決めつけて。
結果として、その仕事は別の先輩へ回り、俺は「まだ荷が重い」と納得したふりをした。
でも本当は違った。
怖かったのだ。
失敗するのが。
人前でうまく話せないことが露呈するのが。
期待されて、応えられない自分を見せるのが。
「村上、来週の提案なんだが」
課長の声が、記憶とぴたり重なる。
「一件、同行してみるか?」
やっぱり、同じだ。
胸の奥がぎゅっと縮む。
前回の人生では、この問いに対して俺は曖昧に笑って、経験不足を理由に断った。
課長も無理強いはしなかった。
そのまま機会は別の誰かのものになった。
視界に、文字が浮かぶ。
【重要選択候補】
対象:新規クライアント提案同行
前回結果:回避
現在状態:再選択可能
回避。
その二文字が、思った以上に重く刺さる。
やっぱりあれは“仕方なかった”じゃなかった。
ログの上では、はっきりと逃げたことになっている。
「どうだ?」
課長がもう一度聞く。
声は責めるでも急かすでもなく、ただ選択をこちらに預けていた。
喉が乾く。
引き受ければ未来が変わる。
また知らない分岐が増える。
失敗する可能性だって、当然ある。
でも断れば、おそらく元の人生に近い流れへ戻る。
少なくともこの場面だけは、知っている後悔のまま閉じる。
「……少し、考えてもいいですか」
反射的にそう言っていた。
完全に断る勇気も、即答する覚悟も、まだ出なかった。
課長は頷いた。
「今日中でいい。無理にとは言わん。ただ、経験にはなる」
「はい」
打ち合わせスペースを出たあと、胸の奥がざわついたまま落ち着かない。
席へ戻ってPCを開いても、文字が頭に入ってこない。
思考がずっとその件に引っ張られていた。
前回の俺は逃げた。
その結果、何か致命的に悪いことが起きたわけじゃない。
クビになったわけでも、人生が終わったわけでもない。
でも、あそこから少しずつ自分を低く見積もる癖が強くなった気がする。
どうせ自分には無理だ。
まだ早い。
準備が足りない。
そうやって機会の前で立ち止まり続けた。
その積み重ねが、今の数字なのかもしれない。
失敗127。
回避3。
保留12。
そのとき、視界の端でログが揺れた。
【参照ログを表示しますか?】
対象:新規クライアント提案同行
前回選択時の感情記録あり
「感情記録……?」
思わず声が漏れる。
そんなものまで残っているのか。
数秒ためらってから、俺は小さく「表示」と呟いた。
次の瞬間、胸の奥に鈍い感覚が流れ込んできた。
息苦しさ。
手の冷たさ。
胃のあたりが落ちるような不快感。
そして、頭の中を支配していた一つの言葉。
失敗したくない。
記憶というより、感情の再生だった。
あの日の俺は、理屈じゃなく怯えていた。
準備不足なんて後付けの言い訳で、本当はただ怖かっただけだ。
「……くそ」
小さく吐き出す。
直視したくないものを、真正面から突きつけられた気分だった。
だが同時に、妙に腹が立ってきた。
怖かった。
それは事実だ。
でも、それで逃げたことまで正当化していいわけじゃない。
昼休み、社員食堂の片隅で一人トレーを前にしながらも、考えていたのはそればかりだった。
引き受けるべきか。
まだ早いんじゃないか。
いや、前回もそうやって逃げた。
でも今回は野上主任の案件もある。
抱え込みすぎれば、別の失敗を生むかもしれない。
答えは簡単じゃない。
やり直しの力があっても、結局選ぶのは自分だ。
その当たり前さが、妙に重かった。
「珍しいですね、一人でそんな真剣な顔してるの」
顔を上げると、高橋が向かいにトレーを置いた。
「悩みごとですか?」
「そんな顔してたか」
「してました。カレー冷めますよ」
言われて、ようやく手が止まっていたことに気づく。
「仕事の話だよ」
「へえ。村上さんが仕事で悩むって、なんか意外です」
「どういう意味だ」
「いや、いつも“まあ何とかなるでしょ”って顔してるので」
自分ではそんなつもりはなかったが、外から見ればそうだったのかもしれない。
本気で悩む前に、諦めていただけだとしても。
「少し大きめの話が来ててな」
「それ、いい話じゃないですか」
「そうとも限らない」
「でも、声かかったってことは期待されてるってことでしょ?」
高橋は何気なく言ってから、スプーンを動かした。
「俺なら単純に嬉しいですけどね。怖くても」
怖くても。
その言葉に、また引っかかる。
怖いままでいいのかもしれない。
怖くなくなってから動くんじゃなくて、怖いまま選ぶのが本当の選択なのかもしれない。
昼休みが終わりに近づいた頃、俺はようやく席を立った。
課長のデスクの前へ行く。
足取りは軽くない。
むしろ、ひどく重い。
それでも止まらなかった。
「課長」
「おう。決まったか?」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
逃げるなら今だ。
曖昧に保留してもいい。
準備不足だと言えば、たぶん誰も責めない。
でも、それをしたらまた同じだ。
ログはたぶん、静かに“回避”を増やすだけだろう。
「……やります」
自分でも意外なくらい、声ははっきり出た。
「同行、やらせてください」
課長が一瞬だけ目を細め、それから頷く。
「そうか。じゃあ資料は明日共有する。野上の件もあるだろうが、無理なら早めに言え」
「はい」
「無理してでもやれ、とは言わん。だが、経験はしておけ」
「わかりました」
デスクへ戻る途中、心臓が嫌になるほど鳴っていた。
やってしまった、という感覚がまず来る。
次に、少し遅れて熱が追いかけてくる。
引き受けた。
前回は逃げた仕事を、今度は自分で選んだ。
視界の端で、ログが淡く光った。
【選択ログ更新】
新規クライアント提案同行
前回結果:回避
今回結果:受諾
行動信頼値:上昇
精神負荷:増加
精神負荷、増加。
都合のいいことばかりじゃない、という表示が妙にリアルだった。
「……だよな」
小さく苦笑する。
前向きに選んだからといって、怖さまで消えるわけじゃない。
むしろ選んだぶんだけ、重さも増す。
それでも今の俺は、その重さを前より少しだけ受け止められる気がした。
夕方、業務を終えて帰り支度をしていると、PC画面に新着メールが表示された。
差出人は知らない名前ではない。
だが、このタイミングで来るのは初めて見る。
採用支援会社・面談日程のご連絡
眉をひそめる。
俺宛じゃない。
社内共有に流れてきた誤送信でもない。
だが件名の下に小さく表示されたプレビューの一文を見て、背筋がわずかに冷えた。
――本日面接にお越しいただいた件について――
朝、電車で会った彼女の顔が頭に浮かぶ。
偶然だ。
そう思うべきだ。
なのに、視界の端でログが赤く明滅する。
【関連人物の変動を検知】
本日の接点が、別経路で接続される可能性があります
関連人物:未設定
一致率:上昇中
「……別経路?」
思わず、画面を見つめたまま動けなくなる。
仕事と、朝の出会い。
別々に見えた二つの線が、どこかで近づき始めている。
そんな予感だけが、じわじわと胸に広がっていった。




