10.「お母さん、会いたがってるから。ちゃんと顔出してよね」
翌朝、吐き気が残る体調で目が覚めた。眼を開けると、見慣れない風景が目に入る。だがじきに、ここが昨日ケヴィンから紹介された仕事場だということを思い出した。
スヴェンの仕事は冒険者達の指南。だが全団員に指導するのは手に余るため、希望者のみに行うことになった。その希望者達を迎えるために用意されたのが、この相談室だった。
一対の二人掛けのソファーが対面に並び、その間には木製のテーブル。奥には仕事机があり、壁際にはキッチンと書棚がある。スヴェンはここで団員の相談を受け、それに応じて指導するのが仕事となった。
スヴェンは相談室のソファーで寝ていた。身体を起こすとより吐き気が増す。気分が悪かったが、スヴェンは立ち上がり、コップを取り、台所の蛇口から水を入れる。水を飲むと、少しだけ気分が楽になった。
落ち着いたところで、自分の身体を見る。スヴェンは今シャツと下着だけを身に付けていて、昨日レアから貰ったスーツはもう一方のソファーにかけられている。お蔭でスーツの皺は少ないが、シャツは皺だらけになっていた。
「着替えっか……」
部屋の隅に、宴会に行く前に置いていたスヴェンのバックパックがあった。中を開け、服を取り出して床に置く。そしてシャツに手を伸ばしたときに、部屋の鍵が掛かっているかが気になった。扉の前に行くと、やはり鍵は開いていた。
鍵を閉めようと手を伸ばす。だが指先は空を切った。閉める前に、扉が引き開かれたせいだ。
そしてスヴェンは扉を開けた人物の前で、半裸の姿を披露してしまった。
扉の前に居たのは、銅色の長い髪をした小柄な少女だった。少女はスヴェンの姿を見て後退り、両眼を大きく開かせ、口をパクパクと開け閉めしている。
「あ、え、あ、が」
少女は言葉にならない声を上げている。無理もない。扉を開けたら目の前に半裸の男が居たのだ。驚くのは仕方がない。
スヴェンは落ち着かせようとして、静かな声で宥めようとした。
「とりあえず落ちついて、ね。俺は―――」
が、その努力は虚しく終えた。
「あぁああああああああ!」
汚い声を発しながら、少女は走り去っていく。その姿はまるで、魔物から逃げる冒険者のようだった。
そんな風に悠長に考えていたが、間もなくして事態の深刻さを察した。一回り以上年下の女の子に半裸を見せるなんて、事案になっても可笑しくないことだ。すぐに誤解を解かなくては。
スヴェンはすぐに服を着替えた。少女を探しに集会所に行こうとして部屋から出ると、廊下には別の女性が歩いて来ていた。
その女性は、スヴェンが良く知る者だった。
「おはよう、兄さん。やっと起きたようね」
スヴェンの妹ハンナが、悪戯っ子の様な狐目を向けていた。
「お前、なんでここに?」
「そーんなことも分からないの。兄さん」
ハンナが自前の黒髪を触りながら聞き返す。
スヴェンはハンナの格好を見て、すぐに察した。
「ここで働いてるのか」
ハンナは白のブラウスと紺色のベストとスカートを着ている。《新たな日の出》の女性職員用の制服だ。
スヴェンが答えると、ハンナは笑みを浮かべた。
「そうよ。設立して二年目から、ここで働いてるわ。結構なベテランよ」
得意気に笑うと同時に、ショートボブの黒髪が揺れる。なかなか様になっている姿だった。
「じゃあちょうどいい。さっき女の子が一人通り過ぎなかったか? 銅色で長い髪の子だ。ちょっと彼女を探してるんだが」
「ターニャちゃんね。凄い顔で走って行ってたよ。多分家に帰ってるかも」
「マジか……」
スヴェンががっくりと肩を落とすと、ハンナが「何があったの?」と訊ねてきた。スヴェンはハンナに事情を話すと、ハンナは呆れた顔を見せた。
「何やってんの、兄さん。就任初日にそんな失態を犯すなんて」
「わざとじゃないんだよ。まさかあんなタイミングで居るなんて思わねぇよ」
「言い訳はけっこう。ターニャちゃんには私からお詫びを入れとくから、兄さんは部屋に戻ってて」
「なに言ってんだ。俺が直接行かないと」
ハンナは溜め息を吐いた。
「あの子は人見知りが激しいから、少しでも慣れてる人が行くのが良いのよ。安心して。ちゃんと誤解は解くから」
「……そうか」
ターニャの事をスヴェンは知らない。何か事情があるのならば、それを知る人に任せた方が良いかもしれない。そう考え至ったスヴェンは、ハンナに任せることにした。
「分かった。任せる」
「そうしてちょうだい。その代わり兄さんは、一人でも多くの団員を立派な冒険者にしてね。団長もそうして欲しいみたいだし」
「あぁ」
そう言ってスヴェンが部屋に戻ろうとすると、「ちょっと待って」とハンナに呼び止められた。
「用事があって来たんだった。兄さんにお届け物と伝言があるの」
「誰からだ?」
「レアちゃんがこれを渡してって」
ハンナがポケットからメモ用紙を取り出した。花柄のメモ用紙には、『今日はレッスンがあるから行けませーん! レアちゃんが居なくて寂しいからって、死んじゃだめだぞ』と書かれてあった。
「伝言は?」
「お友達のベッケルさんから」
「あぁ! あいつか!」
懐かしい名前を聞いて、スヴェンのテンションが上がった。子供の頃からの友人だった。
「『おかえり。今日は飲みに行こうぜ。また夕方に来る』だって。今日も飲みに行くの?」
「もちろんだ。いやー、楽しみだな」
「実家にはまだ帰ってないのに?」
「……さぁ、仕事頑張るか」
スヴェンは聞こえない振りをして部屋に戻る。
扉を閉めると、扉越しにハンナの声が聞こえた。
「お母さん、会いたがってるから。ちゃんと顔出してよね」
その言葉に、スヴェンの良心はひどく痛めつけられた。
スヴェンの幼い頃に父は他界し、母は一人でスヴェン達を育ててくれた。そんな母の負担を減らすために、スヴェンは学校の卒業後にファラスを出て、レイジングで冒険者になった。冒険者になった理由は、冒険団を作るという夢もあったが、母親に楽をさせたいという思いもあった。
しかし、今となっては両方とも叶えられない。冒険団を作るのはほぼ無理となり、母を楽にさせるどころか自分の生活費を稼ぐので精一杯の身である。
意気揚々と家を出たのに、失敗して戻って来てしまった。その気まずさ故に、実家に帰り辛かった。
「……ま、いつかは帰れるだろ」
そうして、スヴェンは問題を先送りにすることにした。
切っ掛けがあれば帰れる。そう考えて、そのときが来るまで放置しようと考えた。
ちなみに、それから二週間経っても、それらしい切っ掛けはなかった。