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第1節 ② 『device』

街を逃げるように駆け抜けた彼女。

追われる気配、乾いた喉、握りしめた“それ”の重み。


やがてたどり着いた静かな公園で、運命の邂逅は起こる。


決意と共に彼女が差し出した物は──


逃げることすらできないこの世界の片隅で、

誰かの“選択”が、静かに始まりの引き金を引く──。


これは、“心を繋ぐ物語”の序章。

あなたなら、知らない誰かの願いを受け取れるだろうか?



ジーンズにスニーカー、そしてキャップ。ありふれた服装の彼女は走り続けていた。

人混みをかき分けて、路地裏を抜ける。


走りながら、記憶の中の地図を必死に辿る。だが、道筋を繋ぐ思考すら苦痛だった。


荒れた唇は今にも血が滲みそうなほど乾いていた。


呼吸が荒い。

視界がぶれる。心音だけがやけに大きく響いていた。


「はぁ…はぁ…」


あそこを曲がればもう少し…


心に余裕はないが、わずかな希望が彼女の支えであることは間違いなかった。


この角を曲がれば商店街に抜ける。上手く行けば、公園を抜けて──


目指す場所を思い描きながら、なんとか前を向く。

熱い雫が頬をなぞって流れ落ちた。


周囲を見張る彼女の目が刹那の動きを見せた。

早る鼓動を抑える方法をどこか頭の片隅にはあれど、彼女の心臓は思いとは別の動きをする。


落ち着け…もう少し…!


商店街を抜けた先、


──はっ!


いかにもな少年自警団のような人物が1人、いや2人居る。


彼女は帽子を目深にかぶり直す。

鼓動が大きく早く脈打つのを感じる。


まだ気付かれてない…

帽子の下の視線が泳ぐ。


この場から戻ると人の流れと逆だ…!

かえって目立つ…行くしかない…!


彼女は震える足を前に出した。

進める歩幅さえも自然な動きにならない。


大丈夫…このまま進めば良いんだ…

息が浅くなる。


気配を消したい――そう願えば願うほど、逆に気取られる気がして、恐怖が胸を締めつけた。


あと20m…!


男たちが周囲を見張る動きが、否応なく視界の端に入り込む。


──!?


一瞬目が合ってしまったのではないか…。彼女は片方の手をポケットに忍ばせた。


手の中に感じる重みを確かめながら握りしめる。

この子をもっと遠くへ…!


目を閉じゆっくり歩を進める。


その角を曲がれば…!!



────



ドブ川の臭いが微かに鼻をついた。

湿った空気に混じり、それはしばらく鼻腔に居座る。


近くの室外機──かつては白かったはずの外装は、すっかり黒ずんでいた。


おおよそ人が通ることもないのだろうその路地裏は、世の中の時間を止められたかのように、音のない世界がそこにあった。


ただ彼女の心臓の音だけが確かだった。


「やり過ごせた…」


息を吐くように、彼女の口から大きな安堵が漏れる。

額から流れ落ちる雫と湧き上がる不愉快を、彼女は袖でゆっくりと拭った。


「このままこの道を抜ければ、確か……公園があったはず」


ポケットの中から、何かを取り出し、じっと見つめる。


早く安全な場所に…


喉がへばりつく感覚を堪えながら、彼女は緊張と疲労で悲鳴をあげる足を引きずるように、路地裏の奥へと進んでいく。


時折どこかから聞こえる、害獣と呼ばれるような鳴き声さえ──今は不思議と、心地よく感じられた。



光が視界を満たしていく。

細く曲がった路地の先、そのわずかな隙間から差し込む光が、次第に輪郭を広げていく。

壁と壁の間に閉ざされていた空間が、彼女の一歩ごとに少しずつ開けていく。


息が詰まりそうなほど狭く、湿った路地裏。

両脇に積まれた古いゴミ袋や剥がれかけたポスターを横目に、彼女は足を進める。

頭上には網のように絡まった電線、足元にはひび割れたコンクリート。


その先に──まるで世界が変わるように、

光が一気に広がった。


瞬間、目が眩んだ。

眩しさに瞼を細めながら、彼女は思わず足を止める。


目の前には開けた公園の入口。

風が、頬を優しく撫でて通り抜けた。


「公園だ」

彼女は小さく息を呑んだ。


胸の奥で、張り詰めていた糸がひとつ、ふっと緩む。

頬をなぞる風が、思いがけず優しく感じる。

濡れた額、汗で張り付いた髪、軋む筋肉――

ついさっきまで煩わしかった全てが、不思議と心地よく感じられる。


石畳が、陽光を反射して淡く光っていた。

左右を囲むように、丸みを帯びた小さな丘。

その向こうに広がる広場には、ゆるやかな人の流れ。

家族連れの笑い声、駆ける子どもの足音、漂う軽やかな空気。


──ああ、日常だ。


その光景にふっと表情がほどける。

温かいものが、胸の奥から込み上げてくる。


思わず目元に手が伸びた。

笑ったはずの頬が、ほんのり熱い。



どれほど歩いただろうか。

時計を見れば大した時間ではないはずなのに、まるで数時間分の疲労が積もったような感覚だけが身体に残っていた。


ふと、視界の先に大きな木が揺れているのが見えた。

その根元には、ベンチらしき影がある。


誘われるように、彼女はゆっくりと歩き出す。

踏み出す一歩ごとに、足元の土が柔らかく沈み込み、草のにおいがわずかに鼻をかすめた。


次の瞬間、足に違和感と痛みを感じる。


「ッ……」


靴底を通して、ぐじゅっという痛みと不快な感触が伝わる。

乾ききった喉と神経に、彼女はそれと向き合うことを拒否した。

彼女は顔をしかめることもせず、歩みを止めなかった。


「……水……!」


思わず声が漏れる。

視界の隅に、公園の隅に据え付けられた水道の銀色の蛇口が見えた。

駆け寄るように近づき、震える手で捻る。

ごぼっ、ごぼっという音のあとに、勢いよく水が噴き出す。


彼女はその水を両手ですくい、何度も何度も顔を濡らした。

渇いた喉も、張り詰めた神経も、その瞬間だけは少し和らいだ気がした。


ようやく呼吸を整え、ベンチへと腰を下ろす。

硬くて冷たいその感触が、妙に安心を与えてくれる。


ぼんやりと遠くを眺めていたそのとき──

耳に、ふわりと声が届いた。

まるで音楽の旋律のように、風に乗って断片的に届くそれは、人の会話のようだった。


彼女は無意識に顔を上げる。

だが木々の影になって、話し声の主は見えない。


彼女は立ち上がり、好奇心に導かれるようにその声のほうへと歩き出した。

ゆっくりと、大きな木の側まで近づく。


そして──


「……サラリーマンと、子ども……?」


思わず、声にならないつぶやきが漏れる。

妙な組み合わせに、自然と口元が緩んだ。



風が吹いた。

春の空気が、彼女の髪と服を一気に揺らす。

全身を貫くように駆け抜けていくその風に、彼女は目を細めた。


その声が、もう一度、はっきりと耳に届く。


──再び、春の力強い風が、彼女の物語を巻き込むように吹き抜けていった。



ふと、胸の奥で、小さな震えが走った。


目の前の光景──ベンチに座る男と、その隣で何かを話す少年。

まるで、前にも経験したことがある様な感覚が彼女を襲う。


──既視感…


気付くと、彼女は手にしたデバイスを無意識に握り直していた。


──違う。

これは、“記憶”にはない


言葉にした瞬間に、また何かが決定付けられる気がして、彼女は唇を噛み締めた。


まだ、この世界は形を持っていない…


けれど確かに、いま、彼女は──

何かに触れた。


どうして目が離せないのか、自分でもわからなかった。


少年と男。

たったそれだけの風景に、なぜだか胸の奥がざわつく。


──まるで、自分がまだ知らない誰かの問いかけを、無言で突きつけられているような。

意識の奥底で、聞いたこともない声が、微かに響く。


「これも、選択だっていうの…」


胸の内に湧いたその言葉を否定するように、彼女は小さく首を横に振った。

浮かびかけた疑念が、春風に溶けていく。


ふと気づけば、視線は自然と足元に落ちていた。

わずかに揺れた木漏れ日の中で、足元の影が伸びている。


彼女はもう一度、顔を上げる。


そして──静かに息を吸った。


その目には、確かな決意が宿っていた。


行くしかない…


彼女の髪が、激しくなびいた。



電話相手の無理な要望が紬の疲労度を上げていた。

「承知しました。ではご対応致しますので。はい……失礼致します」


低く、疲れた声で電話を切った紬は、スマホのディスプレイを見つめたまま、公園のベンチにもたれかかった。

無理難題を“当たり前”のように押し付けられるたび、心のどこかで何かがすり減っていく。


──何が至らないのかも、どうすれば良いのかも、頭ではわかっている。

だが、それを受け入れられない。


もう動けないや…。


分かってる…現実から、目を逸らしているだけだ。


葛藤が毎日繰り広げられては、自分の心に蓋をする。


考えてはいけないのだ。

そう言い聞かせるように、無言で空を見上げた。


夕陽が沈もうとしていた。

青でもなく、黒でもない、曖昧な色が街を染めていく。


紬はベンチにもたれたまま、ちらりと時計に目をやる。

「……もう、こんな時間か…。」


時計の針は、夜の7時を大きく過ぎていた。

1つ隣の街灯の下では、ゴミ箱を漁る人影が見えた。


気を抜けば、この世界から振り落とされる…。


夕陽は、自らの役割を静かに終えようとしていた。

一日の終わりを、何も告げずに、ただそこに滲ませていた。


「達希くん…もう泣いてないかな…」

ふと、達希と名乗る少年の顔が過ぎった。


どこか遠くで、鳥が鳴く。

空を割くように吹き抜けた風が、路地裏のゴミ袋を軽く揺らした。


ゆっくり近付く小さな足音が、公園内に響いた。


リズムの違うその音は、小柄な影を運ぶ。

彼女のものだった。


キャップを目深にかぶり、身体をわずかに傾けながら、足を前へと運ぶ。


肩で息をし、左手には黒いデバイスを強く握っている。


まるで、その存在が彼女を前に進ませているようだった。


髪は汗で張り付き、喉が焼けるほど渇いている。

足は、今にも止まりそうだ。


けれど──止まらなかった。


街灯の光が、彼女の影を細く長く引き伸ばしていく。


胸の奥で、何かがゆっくりと煮え立っていく。


だがその熱は、吐き出すこともできず、ただ音もなく、心の奥に染み広がっていった。


焦り。恐れ。怒り。そして、諦め。

そして、希望──


そのすべてが混ざり合い、熱を帯びた塊となって、彼女の心を蝕んでいた。


「……いた……」


乾いた声が、夜の空気に紛れて消えた。


かすれたその声は、風にさらわれるほど小さく、頼りなかった。


視線の先──ベンチの端に、ぽつんとひとつ影が腰かけている。

男の肩はわずかに落ち、疲労を滲ませながらも、その横顔にはどこか安堵の色が浮かんでいた。

淡く弧を描いた口元が、笑っているようにさえ見える。



──さっきの人……



一歩、また一歩と近づくごとに、

彼女の胸の奥で、何かが崩れていく音がした。


信じるな。裏切られる。関わるな。失う──


何度も何度も自分に言い聞かせてきた警告の声が、

この静けさの中ではもう、ただの残響にしか聞こえなかった。


もう決めたんだ──


彼女は男の前で立ち止まる。

手の中のそれが、心臓のようにじわりと熱を放っている。


「……ねぇ、ちょっと良いかな…」


彼女の声は、震えていた。


男はゆっくりとこちらを振り返る。


その瞳には、拒絶も疑いもなかった。

ただ、まっすぐに彼女を見つめていた。



目が合った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


──これは偶然なんかじゃない。


言葉にすれば壊れてしまいそうな、形を持たない何かが、確かにそこにあった。



これが

──私が望んだ結果…──



音にならない啓示のように、風が背を押す。

溢れそうな想いを、彼女は重ねた両の手に伝えた。


春の風が彼女の背を押した。

光を失った空の下、彼女は世界が少し優しくなった気がした。


彼女は、ゆっくりとポケットに手を入れると、中の物を取り出した。


そして──

取り出したそれを、両手で包み込むように持つ。


闇を宿す漆黒のフォルム。

月明かりと街灯の光を受けて、どこか神秘的な艶を纏っていた。


彼女はそれをじっと見つめる。

瞳が揺れ、呼吸が浅くなる。


それでも、言葉を紡ぐ。


「……この子を、あなたに持っていてほしいの。……理由は、うまく言えないから……聞かないで…」


男は、彼女の差し出した漆黒に視線を落とし、躊躇いつつも、彼女の言っていることに耳を向ける。


彼女はそっと手を差し出した。

黒いデバイスが小さな掌に収まっている。


男が何かを口にしようとしたが、彼女は息を詰まらせるながら語り始める。


「……本当は、渡すのが怖い…」

彼女の声が、かすれながら空気を震わせた。


彼女は肩を微かに震わせ、まるで感情を押し殺ているかの様だった。


「望んでも…壊れる…

でも……それでも……」


途中で言葉が途切れ、唇が小さく震える。

彼女の頬に何か光った気がした。


「…まだ、諦めたくない……」


彼女は絞り出すように言葉紡いだ。


肩越しに月が照らす。彼女の目には涙が浮かんでいた。


夜の闇が、その輪郭を包み込み、静かに隠していった。


出会って間も無いこの男に、なぜこんなにも心が乱されるのか…


彼女にはわかっていた。


これがおそらくは、‘’最後のトリガー‘’だと…


声が震えた。瞳が潤む。

訪れた夜の闇がそのすべてを隠す。


彼女の手に乗ったデバイスを、男はじっと見つめた。

黒く滑らかな表面に、月の光が微かに反射する。

男はその漆黒をそっと受け取る。


「…あれ…?」


微かに眉を寄せ、男は呟いた。

なぜ、受け取ったのか。

なぜ、断ろうとしなかったのか。

答えは浮かばない。


けれど、何故か“そうするしかなかった”気がしていた。


これは──


拒む理由が脳裏をかすめた気もしたが、口を開くより早く、手が動いていた。


彼女は、両手をゆっくりと胸元に戻し、

絞るような声で、言葉を継いだ。


「これは、ただの情報じゃない。

この中に……この中に…。

どうか、お願い。忘れないで。

この子が、ここに“在る”ってこと──。

未来を紡いで…」


言葉の余韻が空に消えていく。

沈黙が2人の間に落ちた。


木々のあいだから風が吹き抜ける。

砂利をさざめかせ、木の葉を揺らし、風音だけが夜を満たしていった。


そして、踵を返すと一歩、また一歩と歩き出した。地面を踏みしめるたび、背中の向こうにいた紬が遠ざかっていく


揺れる髪が夜風に乗って舞い、黒いシルエットは闇に溶け込むようだった。


男の手には、まだ温もりを宿したままの漆黒のデバイスが残っていた。


「あの…、名前は…?」

思わず声が漏れる。


彼女の背中が、ふっと揺れた。

けれど、すぐに足を止め、振り返らずに答えた。


「…陽葵(ひまり)


「おれは…紬…(つむぎ)」

間を置いて、紬も微笑むように名乗った。


その名前に、陽葵は静かに目を閉じた。

胸の奥で、鼓動がひとつ、大きく跳ねる。


「…そっか」


誰に向けたのでもないその言葉とともに、陽葵は空を見上げた。

瞬く星も、やがて訪れる夜明けも、今だけはただ遠く優しい。


ほんの少しでも、この世界に踏みとどまっていたい──

それが、彼女のたったひとつの願いだった。


揺れる視界の中で、紬の姿がまだそこに在る。

じっと、黙って彼女の背中を見ていた。


喉の奥まで、思いが迫り上がる。

でも、こぼれ落ちはしなかった。

それは、もはや“悲しみ”ではなかったから。



確かに渡した。

それだけで、彼女はまだ、この世界に立っていられる気がした。




coming soon…



突如現れた謎の女性、陽葵。

なぜ彼女は紬に漆黒のデバイスを渡したのか。

そして、なぜ紬は何も言えず、それを受け取ってしまったのか──


漆黒は、静かに異変を呼び寄せ、やがて“世界”を揺らし始める。


次回、第2節

『What’s Your Name, Ogo?』


貴方なら、この漆黒とどう向き合いますか──


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