Saelum 31
「あのね、ノア……」
クレナは真っ直ぐノアを見つめる。
「もしも、ヨンギさんとアランが万が一わたしを追いかけてきたとしたら……止めてほしいの」
「引き止められるのが嫌?」
クレナは首を左右に振り、ノアに否定を示す。
「違う……引き止められてもわたしは進むことを選ぶよ。けど、それを選択したら二人はきっと、わたしと一緒に来るって言い出すと思うんだ」
優しすぎる彼らに、そこまでしてほしくない。この世界で生きる二人の居場所を奪いたくなかった。
けど、最大の理由はそこではない。
「二人のため?」
「それも違うかな……これは、わたしのため」
クレナはもう一度、果てしなく広がる空を眺めながらそっと微笑む。
「この世界へ来て、ずっと二人に助けられて、守ってもらった。感謝してもしきれないくらい……でも、今は二人と居るのが怖いの」
「怖い?」
「二人が大切な存在で、掛け替えのない人になってて……そんな二人とは、これ以上一緒には居られないよ」
ヨンギの想いを知って戸惑う自分が、アランに対する感情の変化に混乱しつつある自分が、最後まで二人と居続けたら、どうなってしまうのだろうか。別れを惜しみ、涙するだけではきっと終わらない。
「わたし、帰れなくなりそうで怖いんだ……二人と離れたくないって、きっと思っちゃう」
本当は何も知らないまま、何も気付かないままの方が良かった。そしたら、たとえ記憶を消され、夢物語から覚めても何ともないと考えられたはずだった。
「この世界は残酷だけど……わたしには優しすぎるんだよ」
自分は大切な人を傷つけ、手離してしまった。それから、大切なものをつくらないようにと、ただひたすらに夢だけを追いかけて生きてきた。人と深く関わることもせずに、仕事だけに没頭しようとしていた。
そんな時、偶然にもこの世界へ導かれ、彼らと出逢った。そして、クレナの中で大きな変化が生まれた。
――試練と向き合い、自分らしく生きていく。
それだけなら、問題は何もなかった。
二人と過ごせば過ごすほど、別れが怖くなってなっていく自分に気がついた。
「ここから先は、わたし一人じゃなきゃ駄目なの。また目の前で誰かが傷ついたり、失うのは見たくないから……」
――二人が大切だから、側にはいられない。
「ノアくん、だからお願い……二人が来たら必ず止めて」
そう懇願したクレナの瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が揺らいでいた。
ノアは記憶の中の全てを話し終え、改めて二人を見据え立つ。
「彼女のことを考えるなら行かない方がいい」
しかし、話を聞いた二人の顔は変わらなかった。揺るぎない決意をひとみにやどしたまま、笑顔を浮かべてた。
「クレナさんらしいですね……自分のことと言いながら、結局僕たちの心配じゃないですか」
「そんなこと聞かせられたら逆効果だ、ノア……」
「でもっ」
ノアが何かを言いかけたが、ルカの手が肩へと置かれ、それを止めた。
「ルカ……」
「馬鹿には何言っても通用しないけど……これだけ言わせてくれる?」
ルカの真剣な表情に、二人は真面目な顔で向き合う。
「これは僕からの最後の忠告……しつこい男と、嫉妬深い男はモテないよ」
いきなりのルカの発言に、ヨンギだけが笑い出す。アランはなぜか顔を真っ赤にさせ、何か言いたげに口をパクパク動かしている。
「あんまり追われすぎると、女の子は逃げたくなるもんだよ」
「それは厳しいご意見ですね」
「黙れ、ルカ!」
「ノアに嫉妬しかけた奴に言われたくないね」
図星をつかれ、アランは舌打ちする。
「アランは分かりやすいですからねー」
「お前もだろ、ヨンギ!」
「アランほどじゃないですよ」
いつもの調子を取り戻した二人は、また岩山のある方角へ体を向けた。
「ルカさん、ノアさん、ありがとうございました。行ってきます」
「戻ってこれたら、また来るよ」
そう言い残し、背を向ける二人をルカとノアは少し複雑な面持ちで見送る。
「本当に馬鹿だね、あの二人は……まぁ、嫌いじゃないけど」
「止めなくて、本当に良かったの?」
「僕たちが止めて、あの二人が素直に聞くと思う? お互いすでに手遅れなんじゃない……歯止めがきかないぐらいに惹かれ合う出逢いをしたってとこかな」
ノアは、クレナの感触の残る手のひらをしばらく見つめてから、無言のまま頷く。
「ノア……君も案外、馬鹿かもね」
「馬鹿?」
「なんでもない。さあ、仕事するよ!」
小さく笑って、またいつもの日常に戻っていった。
◇◇◇ ◇◇◇
岩山を登り始めて、一時間は経っただろうか。クレナは今、恐怖という名の試練に直面していた。
最初は緩やかな坂道で、道も悪くなく順調のように感じられた。しかし、それは本当に初めだけのこと。次第に坂の角度が上がり、道幅は徐々に狭まっていく。今や人一人通るのがやっとという細さになっていた。
片側は頂上まで続く岩の壁。もう片側は、断崖絶壁。下に川が流れているのが窺えたが、落ちたら間違いなく大怪我では済まないだろう。
そして、一番クレナを苦戦させたのは、時おり吹きつける突風だった。下からと横から吹きつける風の勢いは凄まじく、壁にしがみつかないと、飛ばされてしまいそうなほどだった。これも試練のひとつだと意気込んでいたクレナではあったが、あまりにも険しい道のりに挫折の言葉が頭に浮かぶ。
「こんな山……どうやったら越えられるの?」
ここにヨンギやアランが居たらと、心細さを感じてしまう。
「今頃、どうしてるかな」
もし、追いかけてきたとしてもノアが止めてくれている。だから、もう二人と会うことは二度とない。
「しっかりしろ、一人で乗り越えなきゃ!」
歩みを止めていた足を再び動かし始めた瞬間、下から今までよりも強い突風が吹き上がってきた。思わずよろめき、バランスを失いかける。だが、ぎりぎりのところで岩の出っぱりを掴み、落ちずに済んだ。
「危なかった……」
安堵したのも束の間。
次は頭上から、小さな岩の欠片が転がり落ちてきた。嫌な予感から、頭上へと顔を向ける。しかし、霧のかかった頂上の様子ははっきりとは窺い知れない。幾度となく上から降ってくる岩の欠片は次第に大きさを増していた。
「落石だったらまずい!!」
その場から急いで離れようとしたクレナだったが、次は向かい風に襲われ、動くことすら出来なくなってしまう。何かが音を立てて転がり落ちてくる気配を感じた途端、霧の中を突き破るように何かが姿を現した。クレナの瞳にはっきり映し出されたのは、人一人の大きさはあるであろう岩の塊だった。




