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婚約者は、私を三回殺している。  作者: 堀吉 蔵人


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第7話 四度目の選択


 それから三年、私たちは何百回も喧嘩した。


「それは駄目だ」

「何で」

「死ぬ可能性がある」

「今さら?」

「今さらだからだ」

「じゃあこれは?」

「もっと駄目だ」

「何で!」

「俺が死ぬ」

「あなたも今さらでしょ!」


 こんなやり取りを本当に何百回もした。王宮の書庫、王立魔術院、古い修道院、フェルマー家の地下室、クラウゼ家の家系記録。王都から三日かかる山奥の祠にまで行った。

 聖痕を消す。移す。封じる。眠らせる。魔力を抜く。血を交換する。別の器へ移す。王都から離れる。国境を越える。海の向こうへ逃げる。

 何をしても駄目だった。

 聖痕は私の身体ではなく、魂に結びついている。逃げても、切っても、焼いても戻る。

 その三年の途中、一度だけ、成功したと思ったことがある。

 二十一歳の春、王立魔術院で古い偏移術を試した。聖痕そのものを移すのではなく、器から溢れ出す魔力だけを介添えの残滓へ逃がす術だった。これなら私の聖痕の成熟を遅らせられるかもしれない。アルベルトも死なずに済む。そう考えた。

 術を終えた直後、私の腕から黒い線が消えた。


「消えてる」

「半分ほどだ」

「でも消えた!」


 嬉しくて、私はアルベルトの腕を掴んだ。三年間で初めて、終わりが見えた気がした。アルベルトも珍しく否定しなかった。

 その日の夕方、隣室で何かが倒れる音がした。

 駆け込むと、アルベルトが床に膝をついていた。袖の下から伸びた黒い残滓が肩を越え、胸元まで広がっている。顔は真っ白で、呼吸も浅かった。


「アルベルト!」

「来るな」

「何言ってるの!」

「術は成功してる。君の聖痕は――」

「黙って!」


 私はレオンを呼び、術を逆に回させた。黒い線が私の腕へ戻るにつれて、アルベルトの呼吸も戻った。

 目を開けた彼が最初に言ったのは、礼ではなかった。


「何で戻した」

「死にかけてたから」

「君の聖痕は薄くなっていた」

「だから何」

「続ければ時間を稼げた」

「あなたの時間を使って?」

「俺は三回分の残滓を持ってる。今さら少しくらい――」

「少しくらいで死にかけるな!」


 言い争う私たちを見ていたレオンが、呆れたように息を吐いた。


「アルベルト。彼女を守ることと、彼女の代わりに人生を決めることは違う」

「何が言いたい」

「君が死ねばリディアが喜ぶのかってことだよ。それとリディア、君も同じだ。彼を死なせないためなら、自分の危険を増やしていいと思ってる」

「……」

「二人とも相手を生かすと言いながら、相手に選ばせる気がない。よく似てるよ」


 反論したかったが、できなかった。アルベルトも黙っていた。

 その実験以来、少なくとも私は、どちらか一人を犠牲にする方法を解決とは呼ばないと決めた。アルベルトが同じように決めたかどうかは、かなり怪しかった。


「しつこい」


 二十二歳の誕生日を一月後に控えた夜、私は自分の左腕を見ながら言った。黒い線が手首まで伸びている。三度目に見た形に近づいていた。


「私よりしつこい」

「それはない」

「何?」

「君よりしつこいものはない」

「刺すよ」

「どうぞ」

「本当に刺されたことある人が言う?」

「刺した側だ」

「最悪」


 アルベルトが少し笑った。

 三年で彼は少し変わった。いや、戻ったのだと思う。最初の人生で知っていた彼に。無表情だけれど、時々笑う。怒る。呆れる。私が菓子を食べすぎれば取り上げ、寒い日は先に毛布を持ってくる。

 そして私たちは、結局婚約したままだった。父には半年ほど「延期は何だったんだ」と言われ続けた。知らない。私にも分からない。



「これ」


 私は机の上に紙を広げた。円の中に二つの点、その点と点を結ぶ一本の線。


「何だ」

「古い術式」

「どこで見つけた」

「レオン殿下」


 アルベルトの顔が露骨に嫌そうになる。


「またあいつか」

「まだ嫌いなの?」

「嫌いではない」

「じゃあ?」

「信用していない」

「三年一緒に調べたのに?」

「それとこれとは別だ」


 結局レオンも協力している。あの日、三度目を知っているような言い方をした理由も、あとで整理がついた。旧礼拝堂での一件のあと、アルベルトが必要最低限の事情を彼に打ち明けていたのだ。時が三年前へ巻き戻っていること。前の繰り返しでは、私がもっと遅い時期に聖痕の正体へ辿り着いたこと。そして、王家の禁書へ入るにはレオンの協力が必要になるかもしれないこと。

 レオン自身に過去の記憶はなかった。ただアルベルトから聞いた話と、目の前の私の行動を照らし合わせていただけだ。少し疑いすぎた気もするが、本人にそう言うと「王族を疑うくらいでちょうどいい」と笑われた。


「で?」

「分割」

「何を」

「聖痕」


 アルベルトの顔が変わる。


「却下」

「まだ何も説明してない」

「却下」

「聞け」

「嫌だ」

「聞いて!」


 紙を押しつける。アルベルトは渋々見る。


「聖痕は一つの器に集中するから暴走する」

「知っている」

「なら二つにしたら?」

「できない」

「できるかもしれない」

「誰が言った」

「百六十二年前の王妃」


 アルベルトが黙る。


「記録があった」

「成功例は?」

「ない」

「却下」

「最後まで聞いて! 実験した例もないの。術式だけ残ってた」

「なぜ使われなかった」

「条件が揃わなかったから」

「何だ」


 私は紙の端を指で押さえた。術式には器を示す印が二つある。本来、聖痕の器は同時に一人しか存在しない。だから過去には試しようがなかった。

 でも今のアルベルトには三回分の残滓がある。四度目で新しい器になるほど、聖痕に近づいている。


「今なら、二人とも器として扱えるかもしれない」

「かもしれない、だろう」

「そう。しかも術式の最後の一節が欠けてる。起動条件が分からない」

「却下」

「だから早いって!」


 少し言いにくい本当の問題は、その先だった。


「二人の魂を結ぶ必要がある」

「具体的には」

「どちらかが死ねば、もう片方も死ぬ」

「却下」

「早い」

「論外だ」

「でも成功すれば」

「失敗すれば二人とも死ぬ。成功しても片方が事故で死ねば終わりだ」

「それは」

「俺が階段から落ちても君が死ぬ」

「気をつけて」

「馬鹿か」

「あなたが気をつければ」

「君が木から落ちる」

「もう登らない」

「去年落ちただろう」

「枝が悪かった」

「そういう問題じゃない」


 紙を取り上げられる。


「これは使わない」

「でも」

「駄目だ。君を助けるために、君の命を俺に括りつけてどうする」


 私は少し黙った。


「じゃあ、あなたは?」


 彼が止まる。


「私の命を自分に括りつけようとしてたじゃない」

「それは違う」

「同じよ」

「違う」

「どこが? 自分が死ぬのはいいけど、二人で生きるために危険を負うのは嫌?」


 アルベルトは何も言わなかった。


◇ ◇


 冬至。

 聖痕は予定より早く満ちた。

 その夜、腕の痛みで目を覚ました。焼けるように熱い。寝台から転がるように降りると、左腕の黒い線が肩へ、胸へと伸びていた。


「嫌」


 早い。明日のはずだった。いや、過去三回も正確な時間までは覚えていない。


「セシリア!」


 扉を開ける。返事がない。廊下は暗い。けれど窓の外が赤かった。

 窓を開ける。王都の遠くで火柱が上がっている。一つ、二つ。違う。火ではない。地面から赤い光が噴き上がっている。三度目と同じだ。

 警鐘が王宮の方角から何度も鳴り始める。


「始まった」


 足が震えた。


「リディア!」


 廊下の向こうからアルベルトが走ってくる。その顔を見て、彼も分かっていると知った。


「地下へ」

「でも」

「術式を使う」


 息が止まる。


「分割?」

「ああ」

「却下したでしょ」

「今はそれしかない」

「失敗したら」

「二人で死ぬ」


 平然と言う。


「怖くないの?」

「怖い」


 即答だった。初めて、彼がそう言った。


「でも、君を殺す方が怖い」


 胸が痛んだ。


「行くぞ」


 私は頷いた。


◇ ◇ ◇


 王宮地下、聖痕の間。元々、時戻りの術を行うために作られた円形の部屋だ。

 私とアルベルトは中央に立ち、レオンが術式を準備する。


「本当にやるんだね」

「やります」

「戻れないよ」

「戻りたくない」


 もう四度目は嫌だ。アルベルトを見ると、彼も頷いた。

 レオンが剣で自分の掌を切り、王家の血を術式へ落とす。床を光が走った。

 痛みが腕から胸へ突き抜け、身体の内側で何かが引き裂かれる。


「っ……!」


 膝をつく。アルベルトが支える。彼の腕にも黒い線が一気に広がっていく。


「アルベルト!」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃない!」

「君よりましだ」

「比較するな!」


 床の円が光り、二つに割れる。私へ、アルベルトへ。半分ずつ。そうなるはずだった。

 でも私の胸の聖痕が消えない。アルベルトの腕にも増え続ける。


「……何で」

「レオン!」

「術式は動いてる!」

「じゃあ何で!」

「分からない!」


 外で爆音が響き、床が揺れた。時間がない。


「駄目だ」


 アルベルトが言った。


「何が」

「間に合わない」

「待って」


 彼が剣を抜く。

 知っている。その剣。三度目、塔の上で最後に見た。


「やめて」

「リディア」

「やめて」

「術式は失敗だ」

「まだ!」

「王都が持たない」

「嫌」


 剣の切っ先が私へ向く。四度目。また。


「殺さないでって言った」

「約束はできないと答えた」

「最低!」

「ああ」

「嫌!」


 後ずさる。しかし円の外には出られない。光の壁が塞いでいる。


「来ないで」

「リディア」

「死にたくない」

「分かってる」


 二度目も三度目も何度も聞いた言葉。


「分かってるなら!」

「分かってる!」


 アルベルトが怒鳴った。剣を握る手が震えている。


「分かってるから! 三回も、三回も君が死ぬところを見た! もう見たくない!」


 彼が初めて泣いていた。


「でも、今の君を生かし続ければ、みんな死ぬ。だから今度こそ、君を生かす」


 一歩近づく。

 私は剣を見た。アルベルトを見る。過去の三回が全部重なる。毒。短剣。塔。そして四度目。


「嫌」


 彼が止まる。


「嫌よ。どっちも嫌」

「リディア」

「時間がない」

「だからって」


 私は彼の剣を掴んだ。手のひらが切れ、血が落ちる。アルベルトが慌てて刃を奪おうとして、今度は彼の指が切れた。


「リディア!」

「あなたが決めないで」

「離せ!」

「私の命でしょ」

「だから!」

「あなたの命も!」


 剣ごと彼の手を引き、円の中央へ戻る。二人の血が刃を伝い、同じ場所へ落ちて混ざった。

 その瞬間、術式が変わった。


「……何だ」


 レオンが声を上げる。床の線が動き、一つだった円が二つ重なる形へ変わっていく。これまで光らなかった中央の文字まで浮かび上がった。


「二器、自ら相結ぶ……」


 レオンが古い文字を読む。

 欠けていた最後の一節だ。

 私と、三回分の残滓を持つアルベルト。二人が同時に円の中央へ血を落とし、自分の意思で互いを選ぶ。それが起動条件だった。


「死を押しつける術じゃない」


 私はアルベルトを見る。


「何?」

「二人で持つための術なんだ」

「聖痕は死を拒絶すると動く。だったら今度は、どちらかを死なせるためじゃなく、二人で生きるために使う」

「リディア」

「私も死なない。あなたも死なない」

「そんなことで」

「そんなことじゃない!」


 叫んだ。

 今までずっと、私が死ぬか、彼が死ぬか、誰かが死ぬことしか考えていなかった。


「この術は!」


 レオンが床を見る。


「器を分けるんじゃない。一つの聖痕を、二人で持つ術だ!」


 光が弾けた。胸が裂けるように痛む。アルベルトが私を抱く。


「リディア!」

「いる」

「離れるな!」

「そっちが!」

「離れない!」


 白い光で何も見えなくなる。その中で、私は死ぬと思った。やっぱり怖かった。


「アルベルト」

「ここにいる」

「怖い」

「俺もだ」


 二度目まで、彼はそんなことを言わなかった。


「死にたくない」

「俺も」

「一緒に、生きたい」

「俺もだ」


 彼の手が強く私の手を握った。

 そこで意識が消えた。



 目を覚ます。

 白い天蓋。薄青色のカーテン。窓辺の白薔薇。

 心臓が止まりそうになった。


「……嫌」


 また戻った。そう思った。


「何が嫌なんだ」


 隣から声がした。勢いよく振り返る。

 アルベルト。寝台の横の椅子で眠っていたらしい。二十六歳。今の彼だ。


「……何年?」

「何だ」

「今、何年!」


 彼が驚きながら日付を言う。冬至の翌日。三年前ではない。


「……戻ってない」

「ああ」

「本当に?」

「ああ」


 私は腕を見る。黒い聖痕は消えていた。代わりに薄い銀色の線が、手首から指先まで一本だけ残っている。アルベルトにも同じものがある。


「成功?」

「たぶん」

「王都は?」

「被害は出た」


 胸が締まる。


「何人」

「死者はいない。負傷者が四十七人」


 息を吐いた。みんな生きている。私も。彼も。


「寿命、どうなったの」

「レオンが調べている」

「半分?」

「分からない」

「急に死ぬ?」

「分からない」

「あなた」

「分からないものは分からない」


 いつもの言い方だった。

 私は少し笑った。


「何だ」

「生きてる」

「そうだな」

「あなたも」

「ああ」


 その瞬間、涙が出た。止まらない。アルベルトが困った顔をする。


「泣くな」

「無理」

「成功したんだぞ」

「だから」

「なら笑え」

「命令するな」

「面倒だな」

「誰のせいよ」


 彼が少し考える。


「半分くらい俺」

「残りは?」

「君」

「最低」


 泣きながら笑った。

 その日、初めて私は誰にも殺されなかった。


◇ ◇ ◇


 それから五年。

 私たちは結婚した。

 聖痕は完全に消えたわけではない。古い記録どおりなら、私とアルベルトのどちらかが死ねば、もう片方も無事では済まない。ただ、私たちが発動させた術が記録とまったく同じものなのかは、今も分からない。レオンは「百年くらい生きて、最後まで確認せずに済ませてくれ」と言う。無茶を言う。

 夜、ときどき目を覚ます。隣にはアルベルトがいる。

 私は彼の手を見る。この手で二度殺された。一度は死ぬのを止められなかった。忘れない。たぶん一生。

 アルベルトも、ときどき私の胸を見る。短剣が刺さった場所。今は何もない。


「ねえ」

「何だ」

「もし、また私が死にそうになったらどうする?」


 アルベルトの目が開く。少し考える。


「逃げる」

「どこへ?」

「どこでも」

「王都から?」

「ああ」

「国から?」

「ああ」

「世界から?」


 アルベルトが少し笑う。


「行けるなら」

「一緒に?」

「今さら一人で行かせると思うか」

「二回殺したくせに」

「それは一生言うのか」

「言う」

「面倒だな」

「知ってるでしょ」

「ああ」


 窓の外が明るくなっていく。朝が来る。

 明日。その次。そのまた次。

 私は知らない。いつ死ぬか。何が起きるか。どんなことで喧嘩するか。何も知らない。

 四度目の人生で初めて、私は明日のことを知らなかった。

完結までお読みいただき、ありがとうございます。

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