第9話:血豆の聖女と、剥がれた爪のノート
第9話:血豆の聖女と、剥がれた爪のノート
ブラドが残していった冬の冷気は、彼が去った後もなお、監獄の湿った泥の上に重く沈殿していた。
壁の割れ目から染み出す水滴が、凍りついて小さな白い棘となり、地下牢の鉄格子をじわじわと包み込んでいく。部屋の隅に放置されたままの、冷え切った紅茶の表面に張った油膜は、完全に凍りついて、鈍い灰色の膜へと変わっていた。その膜のひび割れを見つめているだけで、私の頭蓋の奥で、細い針でつつかれるような微熱の痛みがチカチカと明滅する。
マザルは、爪の剥がれた十本の指先を、凍りつき始めた泥の床に這わせ、カチカチと不規則な音を立てていた。肉芽から滲む血は、寒さのために粘り気を増し、床に赤黒い奇妙な斑点を作っている。
「……これで、辺境の炭鉱は隣国の数式に組み込まれましたね」
マザルの声は、喉の奥の粘膜が乾ききって、紙を破るような掠れた響きを持っていた。彼は自らの痛覚など最初から存在しないかのように、クリアな目で私を見つめている。
「レイモンドの弾く算盤は、物理的な質量を持たない。数字の上だけでクリーンに洗練されたシステムは、ブラドの持ち込む本物の冬の重さに耐えられないわ。非効率として切り捨てられた辺境の平民どもが、隣国の犬となるか、あるいは餓死して凍った死体の山を作るか……。どちらにせよ、中央の王子たちが今日食べるパンの味が、ほんの少しだけ生臭くなる程度には、配管は汚れるわね」
私は、細い指先でドレスの裾を強く握りしめた。
下腹部の奥で、腐った果実がゆっくりと潰されていくような、あの周期的な鈍痛がまた始まっていた。じわじわと体温を奪っていく生ぬるい出血が、下着を重く湿らせていくのがわかる。十七歳のエルザの肉体は、自らの意思とは無関係に、ただ生きるための不快な生理を、冷酷な機械のように刻み続けている。その疎ましさに、喉の奥から酸っぱい胃液がせり上がってくるのを、私は冷たい唾液と共に飲み下した。
階段の奥から、再び足音が響いた。
ジークフリートの湿った足音とも、ブラドの音のない衣擦れとも違う。それは、踵の硬い靴が、冷たい石の床を激しく叩く、焦燥に駆られた不規則なリズムだった。
鉄格子の向こうから現れたのは、白い聖衣を身にまとった聖女、クラリスだった。
かつて大衆の歓声を浴びて、教壇の上で私を「王国の膿」と指差した時の、あの神聖な輝きはどこにもなかった。白い布地には、生乾きの服の嫌な臭いと、彼女自身の皮膚から染み出した脂の混ざった汚れが、首回りに黒ずみを作っている。
彼女の目は、寝不足のために白目の部分が赤く爛れ、瞳の焦点が定まらずに不自然に揺れていた。
「エルザ・レヴェンタール……!」
格子の鉄を掴んだ彼女の手は、爪の付け根が不自然に赤く腫れ上がっていた。他者を糾弾する言葉を重ねるたびに、自らの指先を噛み締め、むしり取ってきた人間の、無意識の自傷行為の跡。
「あなたが……あなたが裏で、また何か汚い真似をしたのでしょう? なぜ、教皇様は我が国の国境へ軍を進めてくるの!? なぜ、私たちが正しい改革を行っているのに、民衆は、ギルバートたちは、回廊の噂話で私たちの悪口を言い始めているのよ!」
彼女が叫ぶたび、その裂けた唇の隙間から、噛み潰した舌の裏から溢れた膿混じりの粘液が、糸を引いて床に落ちた。言葉という名の刃を他者へ向け続けた結果、彼女の口内は、自らが放った呪いの質量によってボロボロに爛れ、血の味で満たされているのだ。
私は彼女を見つめなかった。ただ、彼女の聖衣の裾にこびりついた、古い泥の乾いた汚れを、じっと凝視し続けた。
「うるさいわね。クラリス」
私の細い声は、凍りついた地下の空気に遮られて、低く平坦に響いた。呼吸を吸い込むたびに、浅い肺の肺胞が、冬の冷気でチクチクと刺される。
「あなたが今さらここへ来たのは、外の世界の現実が、あなたの綺麗な言葉通りに動かなくなったからでしょう? 正義を叫べば世界が美しく洗練されると信じていたのに、身内を叩き潰したら組織が回らなくなり、非効率を切り捨てたら魔族が暴徒化した。……そのすべての不都合を、私の『悪』のせいにして、もう一度、自分が正しいという酸素を吸いたがっているのね」
「違う! 私は正しいわ! 王太子殿下も、国を愛しているからこそ、あなたのような汚職の膿を排除したのよ! 私たちは、何も間違ってなんていない!」
クラリスは叫びながら、格子の鉄に自らの額を激しくぶつけた。ゴン、と鈍い音が地下牢に響き、彼女の額から、赤黒い血がツッと一本、鼻筋に沿って流れ落ちる。しかし彼女はその痛みに気づきもしない。彼女の皮膚は、他者の痛覚を受容しない代わりに、自らの肉体が破壊されていく感覚に対しても、完全に麻痺してしまっているのだ。
私は、下腹部のきりきりとした引き連れに耐えながら、静かに息を吐き出した。
「正しい、正しい、って、何度もその言葉を繰り返すのね。その言葉を発するたびに、あなたの口の中で、また新しい血豆が潰れているのが見えないの? アルフレッド王子の過緊張を起こした中枢神経も、レイモンドの汗をかかない白い指先も、もうあなたの放つ『ワンフレーズの正義』じゃ、物理的に維持できなくなっているわ」
言葉は、噛み合わないまま、監獄の湿った壁にぶつかって消えていく。
クラリスは、私の冷徹な眼差しの中に、自分たちが作り上げた「劇場型の正義」が、内側からボロボロに擦り切れて自滅していく未来を正確に見出していた。彼女は、私の慘めな死顔を見て安心したかったのに、逆に自らの肉体が、言葉の欺瞞によって切り刻まれている現実を突きつけられたのだ。
「あ、ああ……」
彼女の喉から、ヒューヒューと空気が漏れるような音がした。
言葉にならない感情の蠢きが、彼女の爛れた口内で、血と膿の味となって広がっていく。彼女はそれ以上、私を罵倒する言葉を紡ぐことができず、ただ自らの爪をガチガチと噛み鳴らしながら、逃げるようにして螺旋階段を駆け上がっていった。
彼女の引きずる足音が消えた後、残されたのは、部屋の隅の埃が、地下の不快な空調の唸りに合わせて小さく舞い上がる、いつもの静寂だけだった。
「……哀れなものですね」
マザルは、剥がれた爪の指先で、床の泥に新しい数式を刻み終えていた。
「彼女たちは、自分たちが誰の不幸を消費して、その『正しさ』の全能感を満たしていたのか、最後まで理解できないのでしょう。エルザ様、お体の具合は」
「最悪よ」
私は、冷え切った上着の襟をさらにきつく合わせ、背骨の重みを冷たい壁に預けた。
視界の端の煤けは、さらにその領域を広げ、もはや右目の視界は半分以上が濁った灰色に染まっていた。残された時間は、もう二週間もない。この華奢な十七歳の檻は、間もなく自らの血液の重さに耐えかねて、内側から崩壊を迎えるだろう。
しかし、胸の奥には、前世の武力統治の時に感じたような、あの濁った無念は一ミリもなかった。
言葉が、肉体を侵食していく。
地上の王子たちは、自らが発した綺麗な言葉の刃で、今も自らの精神を細切れにしている最中だ。私が指先一つ動かさずとも、彼らの作り上げたシステムは、その身内の肉体から順番に食い荒らし、ボロボロにしていく。
部屋の隅、完全に凍りついた紅茶の油膜の上が、地下の細かな地鳴りに合わせて、ピキ、と小さく音を立てて割れた。
世界は綺麗な背景ではない。
私を、そして地上で踊る哀れな人形たちを、等しくすり潰すための、過酷な檻だ。
私は、下腹部の鈍い痛みを皮膚の内側で感じながら、静かに目を閉じた。私の死が完璧に完了するその瞬間まで、この泥の現実を、ただ解剖医の目で凝視し続けるために。




