第12話:『溶けない異物、あるいは次の産声』
第12話:『溶けない異物、あるいは次の産声』
主役のいなくなった舞台は、驚くほど早く冷える。
王宮のきらびやかな回廊には、洗いたてのシーツのような、無味乾燥で清潔な空気が行き渡っていた。汚職の温床と叩かれた旧体制の書類はすべて燃やされ、灰の匂いさえ換気扇の鋭い金属音によって吸い出されていく。クリーンな新体制。誰もがそれを望み、それを手に入れたはずだった。
けれど、そこに残されたのは、沸騰した後に放置された白湯のような、ひどく白けきった退屈だけだった。
アルフレッド王子の金髪は、連日の不眠と過緊張によって、すっかり油気を失ってカサカサに乾いていた。王冠の当たる額の皮膚は赤く爛れ、彼が首を動かすたびに、きつく強張った頸椎がピキリと小さな悲鳴を上げる。
大衆という巨大な怪物を満足させ続けるための『正しい言葉』は、すでにエルザという肉魔術の生贄を失い、空を切るばかりだ。
王子の胃壁は、自ら発したワンフレーズの鋭利な毒によって内側から擦り切れ、朝、冷えた白水をすするだけで激しい嘔吐感を催すようになっていた。
その王子の寝室から、足元に泥が跳ねる前に音もなく跳びのいたのは、オデットだった。
彼女は、エルザの『告白書』が広場で読み上げられた夜、自らのドレスの裾に泥をただの一滴も付着させることなく、隣国のブラド執政官が用意した黒塗りの馬車へ滑り込んでいた。アルフレッドの焦燥を「カロリーが高くて見ていられない」と冷笑し、フリップボードを片付ける手際で切り捨てたのだ。
いまや彼女は、氷の帝国の冷たい大理石の上で、新しい権力者の腕に絡みつき、その肥えた皮膚の艶を他者のルサンチマンから吸い上げ続けている。
彼女の内側は、完全な真空だ。だからこそ、時代の風を誰よりも敏感に孕んで、軽やかに羽ばたくことができる。
一方で、行き場を失った熱狂の残骸は、中央配給所の隅で腐りかけていた。
聖女クラリスの着る法衣の裾は、いつの間にか干からびたスープの染みで黒ずみ、かつての神聖さは見る影もない。「膿を潰せ」と叫び続けた彼女の刃は、最大の膿が監獄の底で処理された瞬間、身内の官僚組織へと向けられた。
しかし、実務の配管を知らない彼女のヒステリックな告発は、冷徹な情報戦によって「頭の狂った偽聖女」というレッテルへと変換され、大衆のタイムラインから冷酷にスクロードされていった。
いまや彼女は、誰も耳を傾けない石畳の上で、自らの舌を噛み切った血の味を口いっぱいに広げながら、疑心暗鬼の泥沼を這いまわっている。
誰もが綺麗な正義に飽き始め、しかし後戻りもできずに首を絞め合っているその中央で、財務魔術顧問のレイモンドだけが、一滴の汗もかかずに数字を叩き続けていた。
彼が籠もる執室には、かつてエルザがバルザックや魔族の残党と結んでいた、あの『濁った利害の帳簿』が広げられている。
新体制が掲げた「聖域なき構造改革」により、非効率として切り捨てられた辺境の炭鉱地帯。
そこからの魔力供給が途絶えた結果、中央の小麦を育てる土壌は急速に干上がっていた。その穴を埋めるためには、エルザが死にゆく身体で維持していた、あの汚く生臭い『闇の水脈』の流通データに頼るしかない。
レイモンドの白い指先は、今や黒いインクと計算の摩耗で爪の端がボロボロに割れていた。彼は、自分が最も軽蔑していたはずの「泥の分配作業」の数字を、寝食を忘れて貪っている。
自分の洗練された数理が、エルザの遺した泥水の上でしか踊れなかったという事実を、数字の冷徹さによって、一骨ずつへし折られるように理解させられていた。
ギルバートたち平民は、今日も中央の広場で配給された新しいパンを口に運んでいる。
土気色の顔をした彼らは、悪女が死んで世界が正しくなったと信じ込み、その全能感に皮膚を粟立たせながら、カビ臭い麦の塊を咀嚼する。
誰も知らない。
そのパンの原材料が、エルザが脂ぎった守旧派の巨躯と握手を交わし、隣国の氷の計算機と取引して引っ張ってきた、汚職の泥水から吸い上げられたものであることを。
彼らは、エルザという少女の骨を噛み砕いて作られた濁った水脈の生臭さを、それとは気づかずに、喉を鳴らして貪り続けている。
――。
完璧な闇の底だった。
エルザの肉体が崩壊し、背骨の重みすら消え失せたその深い泥の奥で、カサカサと乾いた、しかし重く粘りつくような音が響いた。
古い羊皮紙を爪で引っ掻くような、実体のない声だ。
『魔王の座にいたとき、お前は何を掴んだ』
私の魂の、かつて拳があったはずの輪郭が、その問いに小さく応じる。
「……巨大な拳と、肉を引き裂く鉄の味。それだけだ」
暗闇の中で、前世の記憶が一度だけ、ぬるりとした脂の匂いを伴って脳裏をかすめた。
「どれほど首を刎ね、圧倒的な武力で世界を平伏させようとも、人間の内側から湧き出す飢えと怨嗟の泥水は止められなかった。暴力という即効薬は、結局のところ、次の暴力を呼び寄せるだけの使い捨ての鉄屑に過ぎない。私は、ただ己の力の重みに押し潰され、内部分裂の中で飢えながら死んだ」
『では、十七歳の少女の檻では、何を掴んだ』
声は、今度は冷え切った地下牢の水滴のような湿気を帯びて、私の喉元に触れてくる。
「冬の冷気だけで節々が軋む、細すぎる骨。周期を無視して内側を腐食させていく、不条理な出血の不快感。制御の利かない肉体の、圧倒的な不全感だ」
口内に残る、最後の血の味が蘇る。
「……けれど、そこには言葉があった。武力という単純な記号を剥ぎ取られたからこそ、私は人間の欲望がどこへ流れ、どこに溜まるのかを視ることができた。アルフレッドたちの、あの見ていて吐き気がするほど善良な『正しい言葉』の嘘をメスで切り裂き、奴らが発した刃をそのまま奴ら自身の肉体に突き返してやった。私は一切の手を汚さず、奴らを自らの呪いでボロボロに擦り切らせたのだ。私のこの惨めな死のプロセスさえも、奴らが目を背けたがった生臭い水脈の現実として、王国の網膜に深く焼き付けてやった」
『お前は、どうしたかったのだ』
沈黙が、耳の奥で古い空調の唸りのように低く響く。
「救いたかったわけではない。誰かを全肯定するような、そんな薄甘い物語が欲しかったわけでもない。私は、ただ……綺麗に洗練された世界という嘘の仮面を、徹底的に剥ぎ取りたかっただけだ。泥水をすすり、汚い配管を回さなければ一日も生きていけない人間の、その醜悪で不完全な現実を、そのまま永続する檻として完成させてやりたかった」
『……』
カチ、と暗闇の奥で何かが噛み合う音がした。
『ならば、もう一度、チャンスをやろう。お前の言う、その最も過酷で最も静かな戦場へ』
突如として、完璧な闇の底がひっくり返った。
意識の膜を、ぬるりとした大量の粘膜が滑り落ちていく、強烈な圧迫感。
ごぼり、と不快な液体の塊が喉から吐き出され、次の瞬間、凍えるような冷気が、未発達な肺胞の奥底へと無理やり押し入ってきた。
内臓が内側から爆発するような、凄まじい激痛。
細い肋骨が初めて外気に向かって広がり、皮膚という皮膚が、未知の湿気と寒冷にさらされて一斉に粟立つ。
声帯が、自らの意思を無視して、濡れた肉の摩擦音を鋭く引き絞った。
それは、許しを乞う可憐な物語への拒絶であり、新たな地獄への宣戦布告だった。
「ぎゃあ、あ、あああああッ」
「生まれました! 元気な女の子です!」
遠くで、誰かのひどく善良で、耳障りなほどに正しい祝福の声が聞こえる。
新しく生まれ落とされた部屋の、湿った産着の不快な重み。窓の隙間から入り込む、遠い冬の風の音。
「今度こそ、真の泰平の世」という名の、一切の骨が軋まない、血の流れない夜。
赤子のふやけた、まだ何も書き込まれていない皮膚が、新しく用意された世界の、あの懐かしい泥の匂いを、深く、深く、吸い込んでいった。




