第15話「ただいま」
目が覚めたら、三日経っていた。
白い天井が見える。退魔師団の医務室だ。
体中がだるい。霊力を使い切った反動だろう。指一本動かすのにも力がいる。
「きゅう!」
布団の上で、コハクが飛び跳ねていた。
元の手のひらサイズに戻っている。でも、尻尾が三本から五本に増えていた。玉藻さまの力を受け取ったからだろう。
「おはよう、コハク。……五本尻尾になったんだね」
「きゅう!」
得意げに尻尾をぱたぱた振っている。かわいい。
「起きたか」
部屋の隅から声がした。ハヤテだ。
壁に背をもたれて座り、太刀を膝に置いている。
「ハヤテ……ずっとここに?」
「三日間、ずっとですよ。一歩も動かなかったの」
もう一つの声は──金色の髪の女性だった。
狐の耳と、ゆらゆら揺れる九本の尾。人の姿の玉藻さまが、枕元に座っていた。
「玉藻さま……! 体は──」
「見ての通りだ。人の姿で安定しておる。──お前のおかげだぞ、小娘」
玉藻さまの金色の瞳が、優しく細められた。
三百年の怒りが消えた玉藻さまは、穏やかで、美しくて、少し意地悪そうで──私が知っている玉藻さまそのものだった。
「よかった……」
安堵で涙が滲んだ。
「泣くな泣くな。三日も寝ていた寝坊助が泣く権利はないぞ」
「ひどい……」
玉藻さまが笑った。声を出して笑ったのを、初めて聞いた。
「ツムギ」
ハヤテが近づいてきて、私の枕元に膝をついた。
無表情のはずの顔に、安堵が滲んでいる。
「……心配した」
「ごめんなさい。無茶しました」
「ああ。二度とするなとは言わないが──次は俺にも手伝わせろ」
不器用な言い方だったが、その目は真剣だった。
頬が熱くなる。寝起きのせいだと思いたい。
「……はい」
「きゅう」とコハクが私の手に頬をすり寄せた。
玉藻さまが「青臭いのう」と呟いたが、その顔は笑っていた。
午後になって、客が来た。
「……入ってもいいかしら」
医務室の扉の前に、カガリが立っていた。
紅蓮の退魔師の堂々とした姿はなく、どこか居心地悪そうに視線を彷徨わせている。
「どうぞ」
カガリは部屋に入り、私の寝台のそばで足を止めた。
しばらく無言だった。
やがて──ゆっくりと、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
紅蓮の退魔師が、頭を下げた。
その重さを、私は知っている。
「あなたの仕事の価値を理解せず、退魔力の数字だけで判断した。結果、国を危険に晒した。全て、私の責任よ」
頭を上げたカガリの目は、真っ赤だった。泣いていたのだ。
「退魔師団に戻って──」
「戻りません」
カガリが息を呑んだ。
「でも、協力はします。封印の維持方法と結界の調整技術は、後任に教えます。今度こそ、一人に任せきりにしないで済む体制を作りましょう」
カガリが目を見開いた。
「……あなたは、怒っていないの?」
「怒っていますよ。たぶんしばらくは怒ってます」
正直に言った。
「でも、怒っているからといって、この国の人たちを見捨てるつもりはありません。それに──」
玉藻さまを見た。玉藻さまは小さく頷いた。
「この方は九尾の玉藻さまです。もう暴走の危険はありません。今後は封印ではなく、共存の道を探りたいと思っています」
カガリが玉藻さまを見て、顔を引きつらせた。
「きゅ、九尾の厄災が、こんな美人に……?」
『厄災は余計だ。──だが美人は認める』
玉藻さまの不敵な笑みに、カガリが引き攣った笑いを返した。
その日のうちに、ギンガ元団長も見舞いに来た。
白髪の老人は、私の顔を見た瞬間に泣いた。
「ツムギ……生きておったか……!」
「ギンガ団長、大げさですよ」
「大げさなものか! お前が倒れたと聞いて、わしは──わしは──」
ぐしゃぐしゃに泣くギンガ団長の背中を、私はそっと撫でた。
この人だけは、ずっと私の味方でいてくれた。
「ギンガ団長。今後は封印の管理体制を見直す必要があります。一人に任せきりにしない仕組みを──」
「もちろんだ。わしの残りの人生を全て使ってでも、体制を整える」
頼もしい言葉だった。
──それから五日間、私は退魔師団で後任の育成を行った。
封印の構造、結界の調整法、霊脈の読み方。一人ではなく複数人で管理できるよう、役割を分散した。
カガリも素直に学んでくれた。彼女は頑固だが、間違いを認めた後の修正は早い。
そして。
「それじゃあ、帰ります」
退魔師団の正門前。
見送りに出てきた団員たちが、複雑な顔をしている。
「ツムギさん、本当に行ってしまうんですか」
ヒイラギが名残惜しそうに言った。
「はい。私の家は、あの村にありますから」
「またなにかあったら……来てくれるか」
サカキが、ぶっきらぼうに聞いた。
「緊急の場合は。でもまずは自分たちでやってみてください。できるはずです」
カガリが最後に前に出た。
「……ありがとう。その言葉しか出てこないのが、情けないけど」
「十分です」
私たちは、ぎこちなく微笑み合った。
友情とは呼べないかもしれない。でも、もう敵同士ではない。
「行くぞ、ツムギ」
ハヤテが、ぶっきらぼうに言った。
その声が、帰ろう、と言っているように聞こえた。
「きゅう!」
コハクが肩の上で元気よく鳴く。五本の尻尾がぱたぱた揺れている。
『さて、辺境とやらはどんな場所だ? 温泉はあるか?』
玉藻さまが楽しそうに尋ねる。人の姿の玉藻さまは、大きな笠で耳と尾を隠している。
「温泉はないですけど、いい川がありますよ。タエさんの味噌汁は最高です」
『味噌汁か。三百年ぶりだな。楽しみだ』
王都の大門をくぐる。
一月半前、一人で出ていったこの門。
今は──一人じゃない。
街道を歩きながら、ハヤテが隣に並んだ。
「ツムギ」
「ん?」
「村に帰ったら、伝えたいことがある」
「……なに?」
「帰ってからだ」
ハヤテの耳が、微かに赤い気がした。
何を言おうとしているのか、なんとなくわかる。
わかるけど──聞くのは、帰ってからにしよう。
帰る場所がある。
待っている人たちがいる。
もう、「大丈夫です、慣れてますから」なんて言わなくていい。
山を越え、森を抜け、獣道を辿る。
見覚えのある景色が広がった。
段々畑と、小さな家々と、澄んだ空気と──。
「おかえり、ツムギ!」
村の入り口で、タエさんが笑っていた。
村人たちが手を振っている。
目が熱くなった。
泣きそうになるのを堪えて、精一杯の声で叫んだ。
「──ただいま!」
帰ってきた。
私の居場所に。




