名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
宇治の紙片 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
静養のため宇治を訪れた中宮・彰子。しかし休息の願いもむなしく、名家への押し込みと牛飼い殺しが相次いで発生する。被害者の手に残されていたのは、わずか数文字だけが記された謎の紙片。彰子が鋭い観察眼と冷静な推理で、人の筆跡や紙の裂け目に潜む真実を暴いていく。権力争いと家名への執着が招いた悲劇の果てに明かされる真相とは――。
彰子さまが、あれほどはっきりとお疲れの色をお見せになったのは、私の知る限り、あの春が初めてでした。
もともと、彰子様は弱音を吐かれない。眠れぬ夜が続いても、朝になれば静かな顔で几帳の内に座し、女房たちの目には、いつも通りの中宮であられます。
けれど長くおそばにいる者には分かります。声の調子、視線を伏せる間、返事までの一拍。そういうごく小さなところに、心身の疲れは滲むものです。
その頃の彰子さまは、朝議に関わる文の取り次ぎから、女房房の揉め事、院近くでささやかれる噂の真偽、さらには誰それの歌合の裏にある思惑まで、あまりに多くのことを同時に引き受けておられました。
しかも、そういう時に限って、なぜか厄介ごとは向こうから寄ってきます。
御典医が何度か進言した末、とうとう、
「しばし都を離れ、静かなところで風にあたられませ」
との話になった。
そうして私たちは、摂津と山城の境に近い、宇治のあたりの別業へ移ることになりました。山も川も近く、春には霞が水の上へ浅くたなびく、静かな土地です。都から遠すぎず、されど人の出入りがほどよく薄く、休むには丁度良い場所です。
もっとも、私はこの「休む」という言葉を、彰子様に関してはあまり信用していません。このお方は、何もしないでいると、かえって目の前の小さな違和を拾い上げてしまう。道に残る轍、文の紙質、女房の袖口の香、庭石のずれ方。そういうものを見逃してくださらないからです。
そのため私は、宇治へ向かう道すがら、
「姫様、今度こそ、本当に静養でございますよ」
と、念を押しました。
牛車の中で、彰子さまは薄く笑われた。
「衛門。静かであることと、何も起きぬことは、別です」
「それを言われると、たいへん嫌な予感がいたします」
「わたくしは何もしていませんよ」
「そうでございますね。ですが、事件の方から近寄ってまいります」
「まるでわたくしが疫病神のようです」
「少なくとも、厄介ごとに好かれてはおいでです」
そう申し上げると、彰子さまは扇の陰で少しだけ笑われました。あの笑みが出るうちは、まだ大丈夫だと私は思っていました。
そして実際、宇治へ着いた初日だけは、平穏でした。
私たちを迎えてくれたのは、別業の主である源経任朝臣です。都ではそれなりに名のある家筋だが、今は官を退き、半ば隠居のようにこの地で暮らしています。剛毅なご老人で、弓馬の話と古器物の話を好み、世間の裏も表もひととおり見てきたという顔をされています。
経任朝臣は、彰子様をたいそう丁重にもてなし、私にも気さくでした。独り身ゆえ気兼ねもなく、好きに滞在してほしいと何度も仰せになります。
「ただし」
と、その晩、食後に酒器を手にしながら老人が言った。
「近ごろ、このあたりは少しばかり物騒でしてな」
私は盃を置いた。
「物騒、と申しますと」
「この先、木幡の方に橘家という旧家がありますが、数日前、その蔵が荒らされました」
「荒らされた?」
「押し込みです。もっとも、盗まれた物が妙でな。唐櫃は開け散らかされておるのに、持っていかれたのは、古びた和漢朗詠集の一巻、銀の燭台一対、象牙の文鎮ひとつ、それに糸巻きまでだ」
「……糸巻き?」
私は思わず聞き返してしまいました。盗人の取りそうなものではありません。
「そう。まるで価値のあるものを見誤ったか、あるいは何か別の物を探しておったついでに、目につくものを持っていったような取り合わせでな」
その時、私は何気なく彰子様を見ました。いつものように、表情は静かです。でも、目だけが少し働いていました。
「不思議ですわね」
と、彰子様はおっしゃる。
「ええ。村の役人どもも首をひねるばかり。だが、静養のお身にこんな話をしてもつまらぬか」
「いいえ」
と、彰子さまはさらりと答えられた。
「つまらぬ話ほど、あとで大事になりがちです」
私はそこで、ああやはり休養にはならないのだろうな、と内心でため息をついた。その予感は、翌朝には現実になりました。
まだ朝餉の途中でした。別業の下男が、礼もそこそこに駆け込んできたのです。
「旦那さま! 大変でございます!」
経任朝臣が眉をひそめる。
「何事だ」
「藤原家で、人が殺されました!」
私は思わず箸を止めた。藤原家といっても、もちろん都の本流のことではない。このあたりに勢力を持つ、郡司上がりの一族です。荘園も広く、近隣では顔の利く家です。
「誰が」
「牛飼いの惟光でございます。昨夜、屋敷の裏口あたりで胸を矢で射抜かれて……」
経任朝臣が低く舌打ちした。
「では、橘家の押し込みと同じ筋か」
「おそらくは。昨夜も戸がこじ開けられていたと……」
その時である。役人の一人が、到着も待ちかねたように続いて現れました。まだ若いが、目のよく動く男で、名を為近というそうです。このあたりの検非違使配下のような役目をしています。
「失礼つかまつります。源朝臣、そして……中宮様がおいでと聞き及び、無礼とは存じましたが」
と、彼は深く頭を下げた。
「藤原家の件、もしお耳に入ったなら……」
「入りました」
と、彰子様。
「あなたは、私に関わってほしいと?」
為近は、一瞬躊躇し、それから率直に言った。
「はい。この件、どうにも妙なのです。しかも、死んだ惟光の手の中から、半ばちぎれた文の切れ端が見つかりまして」
その瞬間、彰子様の目がかすかに細くなった。私はああ、もう決まってしまった、と悟りました。
静養は終わりです。
「見せなさい」
と、彰子様は言われた。
為近が差し出した紙片は、たしかに妙でした。雑にちぎられた半紙の一部で、そこには文字が数個だけ残っていた。
……戌の……一刻……裏の……戸へ
それだけでは、意味はまだつながりません。でも明らかに、誰かを時刻と場所で呼び出した文の一部です。
「惟光殿の手に、握られていたのですか」
「はい」
「死ぬ間際に?」
「そのように見えます」
彰子様は、紙を灯に透かし、指先で縁の裂け目をなぞられた。それから、ほとんど独り言のようにおっしゃる。
「……これは、面白い」
私は知っている。この「面白い」は、たいていろくでもない事件の始まりです。
為近が一通り事情を語る間、私はその紙片を改めて見ていました。
惟光は、藤原家の牛飼い兼雑役で、老母とともに屋敷外れの小屋に住んでいました。昨夜、子の刻より少し前、裏口の方で騒ぎがあり、駆けつけた主人親子が、惟光の倒れているのを見たという。犯人らしき男影は、庭木の向こうへ逃げたと。
これだけなら、単なる押し込みの延長のようにも聞こえます。でも紙片があることで、話が変わります。惟光は、偶然そこにいたのではありません。誰かに呼び出されていた可能性が高い。
「現場をご覧になりますか」
と、為近が言うと、私はすかさず口を挟んだ。
「姫様は、まだ本調子ではございません。せめて今日はお休みになって」
「衛門」
と、彰子様。
「この紙片だけで、休めると思いますか」
「……思いません」
「では参りましょう」
そうして私たちは、宇治の朝靄の中を、藤原家へ向かうことになった。
藤原家は、荘園の富をそのまま形にしたような屋敷でした。大きな門、広い前庭、左右にのびる渡殿。いかにもこの土地の名家という構えです。
出迎えたのは当主の藤原国房と、その子の顕季。国房は五十を過ぎた、眼の鋭い男。顕季は三十前後で、整った顔に愛想のよい笑みを浮かべているが、その目は笑っていません。
「ようこそおいでくださいました」
と国房。
「このような恥ずべき騒ぎ、まことに面目なく」
「恥ではありません」
と、彰子様。
「人が死んだのです。まず、何が起きたかを正しく知りましょう」
その言葉に、国房は一瞬だけたじろいだように見えた。こういう時、相手がこちらの顔色をうかがわぬと知ると、人は少し緊張します。
私たちは、裏口へ案内されました。戸はたしかにこじ開けられています。木の縁に刃を差し込んだ跡。あまり巧みな仕事ではありません。でも十分に、人を「押し込みだ」と思わせる傷です。
「惟光は、ここで死んでおりました」
と顕季が言う。
「私はまだ寝ずに書き物をしておりまして、声を聞いて駆けつけました。すると父上も声を上げられ、ちょうど同時に気づいたのです」
「あなたは何を見たのです」
「暗がりで、二人の男がもみ合っているのが見えました。次の瞬間、一人が矢を放ち、惟光が倒れました。そやつはすぐに庭の方へ逃げたのです」
「姿は」
「中背。濃い色の狩衣か何かを」
これは、あまりに便利な説明だと私は思いました。夜目にはっきり見えない程度に曖昧で、しかも「何かいた」とだけ言えます。
彰子様も同じことを思われたのでしょう。だがその場では何もおっしゃらず、ただ周囲をよく見ておられました。
庭の地面は固く、目立った足跡はありません。でも、裏口から少し離れたところに、湿り気のある土の筋がありました。
彰子様はそこへ一度しゃがみ込み、指で土をつまんで見せられた。
「ここは昨夜、ぬかるんでいましたか」
「少し雨がありましたから」
と為近が答える。
「それなのに、走り去った男の足跡がはっきり残っていない」
その一言で、場の空気がわずかに変わった。
顕季がすぐに笑って言う。
「夜盗が、ちょうど良いところだけ踏んで逃げたのでしょう。それとも中宮さまは、空を飛んだとでも?」
私はその物言いに眉をひそめたが、彰子さまは気にも留めぬふうで、逆に穏やかに返されました。
「空を飛ばぬのなら、土は踏みます。ですから、あとでよく考えましょう」
屋敷をひととおり見たあと、惟光の母にも会いました。でも老女は耳が遠く、昨夜のこともよく分からぬらしかった。ただ一つ、「夕べ、配達の文を受け取っていた」と言ったのが有益でした。
「文?」
と、為近が驚く。
「はい。惟光あてに。紙を開いて見ておったのは見ましたが、中は分かりませぬ」
それを聞いて、彰子様はごく静かにうなずかれた。
「なるほど。では、あの紙片は外から来た文の一部である可能性が高い」
帰り道、為近は感心したように言った。
「惟光が賊と通じていた、ということもありましょうか」
「ありえます」
と、彰子様。
「ですが、それだけでは足りません」
「何がでございます」
「文です」
私は横で首をかしげた。
「姫様、文、とは」
「衛門、あの紙をもう一度思い出してごらんなさい。
字が変でしたでしょう」
「ええ。えらく揃っておらず、継ぎはぎのようでした」
「そう。そして、その継ぎはぎは偶然ではない」
別業へ戻ると、彰子さまはすぐに紙片を机へ広げられた。私は灯を近づけます。
「見なさい」
と、彰子様は言われた。
「この“戌の”は、強くて早い筆です。けれど“裏の”はやや弱く、筆圧が浅い。“戸へ”の“へ”の流し方も違う」
「……あ」
「つまり、この文は一人で書かれたのではない可能性があるのです」
私は息を呑みました。
「二人が、交互に?」
「ええ。しかも、片方が先に書き、もう片方がその間を埋めた形跡がある。見事なほど不自然です」
彰子様は紙片を指さしながら続けられた。
「もし悪事の相談を一人で書くなら、わざわざこんな面倒はしません。ですが二人が共犯で、しかも互いを十分には信用しておらぬなら――」
「どちらか一方だけがすべてを書かぬようにする」
「その通り」
「……つまり、後から“自分は知らぬ”と言い逃れできぬように」
「ええ。この文を書いた二人は、同じ悪事に同じ重さで関わることを、紙の上で証しているのです」
その推理を聞いた瞬間、私は背中が冷えました。人の悪意が、妙な公平さを求めることがあります。それは滑稽で、しかしひどく現実的でした。
「さらに」
と、彰子様。
「この二つの筆には、別人でありながら、どこか似た癖がある。同じ家で育った者に見られる書き癖です」
「血縁……」
「おそらく」
私は思わず口をつぐんだ。若い筆と、やや年を重ねた筆。同じ家の者。
もしそうなら、もう候補は狭い。
翌朝、為近が再びやって来た。彰子様の推理を聞いて、ぜひ藤原家へもう一度来てほしいと言います。どうやら彼も、ただの押し込みではないと気づき始めたようです。
私は本気で反対しました。
「昨日だけでも、姫様はだいぶお疲れでした。今日までお出になる必要が」
「必要があります」
と、彰子様。
「あと一つ、確かめるだけです」
藤原家へ着くと、国房と顕季の親子は、昨日より警戒を強めているように見えました。それでも表向きは愛想よく応じます。
「まだ何かお疑いが?」
と顕季が笑って言います。
「少し」
と、彰子様。
「懸賞の文を出したいのです。もし賊の行方に心当たりのある者がいれば、すぐ知らせられるように」
「よい考えですな」
と国房。
彰子さまは用意してきた紙を差し出された。
「では、こちらへ当主のご署名を。ただ、急いで書いたので、時刻のところに誤りがあるかもしれません。ご確認を」
国房が文を受け取り、目を走らせた瞬間である。私は、彰子様の顔色が急に変わったのを見ました。
血の気が引き、目が焦点を失う。次の瞬間、彰子様はその場へふらりと倒れ込まれた。
「姫様!」
私は悲鳴を上げた。為近も、親子も、皆があわてて駆け寄ります。
彰子さまはしばらく喉を押さえ、苦しそうに息をしておられた。やがて小さく首を振る。
「……大事ありません」
「お戻りくださいませ!」
私は半ば泣きそうになっていた。だが彰子様は、わざとらしいほどゆっくり起き上がり、
「失礼しました。まだ本調子ではないようです」
と、穏やかに仰せになる。
私は胸が潰れそうでした。でも、ほんの一瞬だけ、彰子様の目がこちらを見て、いたずらっぽく動いたのを見た時、はっとした。
――これは演技だ。
私はようやく理解しました。彰子様は、国房に何か書かせ、その筆を見たかったのです。そして発作を装うことで、その不自然さを流してしまった。
そうと分かった以上、今度は私も合わせねばなりません。私は医師顔負けに心配そうな顔を作り、「どうかもうお休みを」と言い募った。
顕季は、どこか安堵したように笑っていた。目障りな中宮が弱っていると思ったのか、それとも調べが乱れると考えたのか。だが、その後で起きたことは、彼らの予想を外れました。
藤原家の中をもう一度見たいと彰子様が言われ、親子は渋々ながら案内しました。当主の寝所、その隣の息子の部屋、さらに顕季が昨夜書き物をしていたという小部屋。
私は疲れたふりをしながら歩く彰子様を案じつつも、同時に、その目が異様に冴えているのを見ていました。
そして当主の部屋へ入った時です。几帳のそばの台に、橘の実を盛った皿と、水差しが置いてありました。
彰子さまがそこを通り過ぎた次の瞬間、ふいに袖がかかって、台ごとひっくり返してしまわれたのです。
がしゃり、と水差しが割れ、橘があちこちへ転がりました。私は思わず声を上げてしまいました。
「姫様ッ!」
「失礼」
と、彰子様は静かに言われたが、その声は平然としていました。私は、これもまた演技だとすぐに悟りました。
為近は慌てて橘を拾い始める。国房も、顕季も、面食らったように動きました。同時に、入り口の縁側に控えていた帯剣の随身たちが、「お怪我は!」と色めき立って踏み込みます。武装した大男たちが急に動いたことで、部屋の入り口は一時的に塞がり、ひどい混雑と死角が生まれました。
その、わずかな混乱の間です。ふと気づくと、几帳の陰に彰子様の姿が見えません。
「……姫様?」
私は胸がひやりとした。親子も同時にそれに気づき、顕季が顔色を変えました。
「どこへ行った!」
次の瞬間、奥の小部屋から、短い鋭い声が上がった。
「衛門!」
私は反射的に駆けました。飛び込んだ先で見たものは、今でも私の血を凍らせます。
彰子様が床へ押し倒され、その上に顕季が覆いかぶさり、獣のような顔で喉元へ手をかけていたのです。国房はその脇で、彰子さまの手から何かを奪い返そうと必死に腕を押さえ込んでいました。
屈強な護衛たちに守られていたはずの彰子様が、たった一人、追いつめられた男の狂気にさらされている。その事実が、私の息を止めました。
「控えおろうッ!!」
私の悲鳴より早く、背後から凄まじい足音が響きました。弾かれたように飛び込んできたのは、重武装の随身たちです。狭い部屋に鋭い抜刀の音が響き、ぎらりと白刃がひらめきました。
顕季の体は、武官たちによって容赦なく床へ叩き伏せられました。一瞬前まで怒りを剥き出しにしていた顕季の首筋に、冷たい刃がぴたりと当てられます。国房もまた、為近たちに喉元を蹴倒され、一歩も動けなくなりました。
圧倒的な、そして冷酷なほどの力の差でした。一帯を支配する名家であろうと、中宮の近衛兵の前では児戯に等しい。
荒い息を吐く男たちを見下ろしながら、彰子様は静かに立ち上がりました。乱れた衣の胸元を整え、手に握った紙を高く掲げられます。
「これを、探していたのでしょう」
それは、惟光の手にあった紙片の残りでした。冷や刃を当てられたまま、為近は呆然と紙を見つめていました。
「まさか……」
「この親子を捕えなさい」
と、彰子様。
「牛飼い惟光殺しのかどにて」
その声は低かったが、一点の揺らぎもありませんでした。親子の顔が、何より雄弁に答えています。国房は蒼白になり、顕季はなおも何か叫ぼうとしたが、首元の刃に押されて声になりません。
威張っていた地方の名士が、絶対的な権力と理の前にひれ伏し、一転して言葉を失うのを見るのは、いつ見ても身の引き締まる思いがいたします。
別業へ戻った後、経任朝臣、為近、そしてたまたま呼び寄せられていた橘家の主までが同席し、彰子さまは事の次第を明かされた。
まず、つなぎ合わされた紙が卓へ広げられる。文面は、こうでした。
今夜 戌の一刻 裏の戸へ 来よ 先のこと 教えてやるぞ たれにも知らせるな
惟光をおびき寄せるには十分な文である。しかも、なるほど途中の文字が二人の手に分かれていました。
「はじめから、鍵はこの文にありました」
と、彰子様。
「もし賊が本当に外から来て、惟光殿を討って逃げたのなら、この紙の残りはその賊が持ち去ったことになります。けれど、その場合、屋敷の者の見たという“男影”と、紙を奪った者の動きが不自然に食い違う」
「どういうことで」
と為近が尋ねる。
「惟光殿は矢を受けて、なお紙を握っていた。近くにいた者だけが、それを見て、とっさに残りを奪えたはずです。外から逃げる賊より、まず先に惟光殿へ駆け寄った者――つまり、顕季殿の方が自然です」
顕季の名が出たところで、橘家の主が息を呑んだ。この人も、少し前の押し込みの被害者である。
「さらに、この文は二人の筆。一方は若く、強い。もう一方はやや老いた、しかし似た癖を持つ。血のつながりが濃い書きぶりです」
国房と顕季。当主とその子。
「では、やはり親子で」
と経任朝臣。
「ええ。そして、その悪事の始まりは、橘家の蔵荒らしにあります」
ここで、彰子様は橘家の主へ向き直られた。
「あなたと藤原家は、長く所領争いをしておいででしたね」
「は、はい」
「藤原家にとって不利な証文が、あなたの蔵にあると噂されていた」
「……あります」
橘家の主は、やや青ざめながら答えた。
「ただし本物は、別に隠しておった。蔵にあったのは控えや古文書の一部だけで」
「だから、藤原家の親子は蔵を荒らしたが、目当てのものを見つけられなかった。そして、ただの盗人と見せかけるため、見境なく妙な品を持ち去った」
「古びた本や燭台や糸巻きは、そのためか」
と、為近がうなる。
「はい。ところが、それを惟光殿が見てしまった」
私は、そこでようやく全体がつながった。
「だから、脅し始めた」
「その通りです」
彰子様は続けられた。
「惟光殿は、夜に親子の後をつけるなり、あるいは偶然見かけるなりして、橘家の件を知ったのでしょう。そこで口止め料を求めた。親子にしてみれば、家名も所領も危うくなる。しかも顕季殿は短気で、思い切りのよい性分です」
私は、あの笑い方を思い出しました。最初から、どこか人を見下したような軽さがありました。
「そこで親子は、惟光殿を呼び出し、口封じのために討った。“押し込みの賊に殺された”ように見せかけるため、裏口を壊し、姿のない賊の話を作ったのです」
為近が呻くように言う。
「ですが、足跡がなかった」
「ええ。そしてもう一つ」
彰子様は、少しだけ口元を和らげられた。
「わたくしが懸賞の文に、わざと時刻の誤りを書いた時、国房殿は即座に直しました。惟光殿が死んだ正確な時刻を、あまりに強く覚えすぎていた」
私はそこでようやく、昨日の“発作”の意味を完全に理解しました。あれは、国房の筆を得るためだけでなく、彼の反応を引き出すためでもあったのです。
経任朝臣が大きく息を吐く。
「では、あの倒れこみも……」
「少々の芝居です」
と、彰子様。
「衛門には、いささか余計な心配をかけましたが」
「いささかではございません!」
私は思わず声を荒げた。場の者が少し驚いたが、構っていられません。
「本当にお苦しいのかと思いましたのに」
「半分は本当に苦しかったのです。近ごろ疲れやすいのは事実ですから」
「そこを笑って済ませてはなりません!」
彰子様は、珍しく少しだけ困ったように笑われた。だが、そのお顔の色はまだ完全ではない。私は内心、今度こそ本当に休ませねばと思いました。
その夕刻、為近から改めて報せが届きました。国房が崩れ、すべてを認めたという。
橘家の訴訟に不利な証文を奪うため、顕季の発案で蔵を荒らしたこと。惟光に見とがめられ、脅されるようになったこと。
顕季が「いっそ夜盗の仕業にすればよい」と言い出し、父もそれに引きずられたこと。呼び出しの文は、互いに責をなすりつけぬよう、二人で交互に書いたこと。そして、惟光を射たのは顕季だが、父はその場で紙を奪い、証拠隠しを図ったこと。顕季の方はなお強がっていたらしいが、最後には沈黙したという。
私は、その報せを聞いても、あまり晴れ晴れとはしませんでした。悪事の筋は通った。推理も当たった。それなのに、胸に残るのは、どこか重い泥のような気分です。
「姫様」
と、私はその夜、几帳のそばで申し上げた。
「人は、どうしてこうまで愚かなことをいたしましょう」
「たいていは、愚かだからではありません」
「では」
「恐れているからです」
彰子さまは、灯の先を見ながら言われた。
「地位を失うこと。財を失うこと。人に軽んじられること。そういう恐れが、理屈を押しのけるのです」
「それで、牛飼い一人を」
「ええ。そして最初は一人のつもりでも、隠そうとすればするほど、罪は増えます」
私は、惟光の母の顔を思い出した。耳の遠い、頼りない老女。あの人には、息子がなぜ死んだのか、細かな理屈はきっともう分かりません。けれど、失ったことだけははっきり残ります。
「姫様は、最初から親子を疑っておられたのですか」
「いいえ。最初からではありません」
「では、どこで」
「紙です」
やはり、そこでした。
「紙片の裂け目ではなく、文字の間の不自然さを見た時です。人は、無理をすると、必ずどこかに無理の跡を残します。今回の二人は、それを紙の上に残した」
「それで、そこから家族だとまで」
「血筋というものは、顔だけでなく、癖にも出るものです。とくに幼い頃から同じ手本を見て育った者は、字のはらい方や詰め方が似ます」
「……そう申されると、私の字も、どこか誰かに似ているのでございましょうか」
「ええ。少なくとも、勢いに任せて最後を雑にするところは、衛門らしい」
「それは“らしい”で済ませてよい評価でしょうか」
「わたくしは好きですよ」
そんなふうに言われると、文句も半分引っ込んでしまう。ずるいお方です。
事件は、ほどなくこのあたり一帯に広まりました。もっとも、人づての話というのはろくな形になりません。
中には、「中宮さまが一目で賊の正体を見抜いた」とか、「紙片の文字が夜になると勝手につながった」とか、妙な尾ひれがついていきます。
私はそういう話を聞くたびに、苦笑するしかありませんでした。一目で見抜いたわけではありません。いくつかの小さな不自然さを丁寧につなぎ、その上で命の危うい芝居まで打って、ようやく真ん中へたどり着かれたのです。
しかも、その代償は軽くありませんでした。事件が片づいた翌日、彰子様は本当に熱を出された。
私は、ほら見たことか、と心の中で毒づきながら、薬湯を用意し、文の取り次ぎを断り、誰も近づけぬようにいたしました。
彰子様は寝台の上で、さすがに少し弱ったお顔をなさっていたが、それでも私が小言を言うと、目だけは笑っておられた。
「衛門、そんなに怖い顔をしないで」
「いたします。だって本当に倒れられたのですもの」
「半分は演技だと、もう分かったでしょう」
「残り半分が問題なのでございます!」
「では、もうしばらく大人しくしています」
「本当でございますね」
「たぶん」
「たぶん、ではございません!」
そうして、ようやく数日ほどは本当に静養らしい静養になりました。宇治の水音を聞き、文を減らし、女房たちの噂話を遠ざける。
それで少しずつ、顔色も戻ってゆきました。
この一件を、私は長く「宇治の紙片」と呼んでいます。
殺しそのものは、決して派手ではありません。豪胆な盗賊団が押し入ったわけでも、妖しい毒が使われたわけでもありません。
大きな陰謀ではありません。むしろ、身近で、ありふれた欲と恐れから始まった悪事です。
でも人は、ときにその「ありふれた」ことで、ひどく深いところまで転げ落ちます。
そして私は、あの時あらためて思い知りました。彰子さまが見ておられるのは、現場の血痕や、壊れた戸や、目撃談だけではありません。
人が無理をした跡なのです。無理な筆遣い。無理な証言。無理に作った賊の影。無理に平静を装う笑み。
そうしたものは、整っているようでいて、必ずどこかに綻びます。あのお方は、その綻びを見逃しません。
だから私は、これから先もきっと、彰子さまのそばで何かが起きるたび、まず「これは本当に自然か」と考えるようになるでしょう。
人が自然だと思って見過ごすところにこそ、不自然は紛れ込むのだと、この事件は教えてくれました。
静養には、たしかになりませんでした。
でも、この宇治の春を経て、彰子さまは少しだけお元気を取り戻されました。
難事件を一つ片づけたことが薬になるとは、医師たちに言わせれば、きっと困った話であろうけれど。
私としては、もう少し穏やかな薬で効いてほしいと願うばかりでございます。
〜出典〜
The Reigate Squires (ライギット・パズル)
作:Arthur Conan Doyle 訳:三上於菟吉、大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/54913_47224.html
〜舞台背景〜
『ライギット・パズル』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイル本人がシリーズ正典4長編+56短編の中でかなり迷ったうえで、「ホームズ自身の工夫・才覚が最もよく出ている作品」として、これを12番目に挙げた作品(1927年の雑誌インタビュー)で、現代の「名探偵シャーロック・ホームズ」解説記事で「派手さではなく、ホームズの知恵そのものを味わう一作としてドイルが選んだと読むと面白いです。」とされています。




