第一話 北桔橋門(1)脅迫状を指南する
江戸城の北の丸、威風堂々たる大天守のふもとにかかる北桔橋門を抜けた先は、埋め立て中の入江が広がっている。
日中は運河から運ばれてきた荷が行き交い賑やかだが、夜の帳が下りると同時に静寂に包まれる。
護衛の目を盗んで夜の江戸城下を散策すること。
それが、竹千代――まもなく三代将軍に宣下される徳川家光の密かな愉しみだった。
戦国の世は遠くなり、生まれてこの方実戦の経験は一度もなかったが、剣の腕にはそれなりに自信がある。
だからこそ、この夜の「非日常」には竹千代自身が一番驚いていた。
「動くな。声を上げれば、この短筒が火を噴くよ」
背中に、刀剣の鋭利さとは別物の重く冷たく硬い金属の感触。
不意を突かれた。だが、背後の気配に「殺気」はなく、もっと切実な「必死さ」がにじんでいる。喉を鳴らすような短い息遣いが、竹千代の耳たぶをかすめた。
だからこそ、竹千代は襲撃に反応せず、されるがまま成り行きに任せた。
「……おまえの名前は?」
暗がりの中、背後から低い声が響く。
大それた行為に反して、声色は男のものではなさそうだ。姿はよく見えないが、中肉中背の竹千代より上背も低く、まるで少女のようだ。
実際、そうなのかもしれない。ますます好奇心に駆られた。
柳生新陰流の剣豪・柳生宗矩に師事し、免許皆伝を授かった自分の背後を取るとは、只者ではない。
「竹千代と申す」
「竹千代……、幼名か? いかにも良家のボンボンらしい立派な名前だね」
人さらいはそれ以上の詮索を断ち切るように竹千代の手首を手ぬぐいで後ろ手に縛ると、日比谷入江の隠れ家へと連行した。
開府以来、城下の整備を進めているが、江戸城の築城に比べて入江の工事はいまいち捗っていない。
昼間、天下普請の進捗をあくびを噛み殺しながら視察していた竹千代は、見慣れた景色を頭の中で思い描き、現在地を把握しようと努めた。
さざめく波の音が聞こえる古い船着場。
掘立て小屋のひとつに連れ込まれると、竹千代は柱に縛り付けられた。
その際、互いの手が当たった。緊張しているのか、冷たく冷え切っている。こういった犯罪行為に手慣れている訳ではなさそうだ。
「ここは夜風が入ってきて肌寒い。暖を取ってもらえないか」
「少し待ってろ」
土間にしつらえられた小さなかまどに、申し訳程度の火をつけた。
明かりで人相を見られたり、誰かに気づかれる可能性に思い至らないほど馬鹿ではあるまいに、ずいぶんとお人よしな「人さらい」である。
見たところ、まだ前髪のある小姓といった風情だ。
身なりは悪くないが、江戸城に出仕している小姓たちに比べると古風な出で立ちで、当世風の月代も剃っていない。どことなく違和感を覚えるが、戦国の世に翻弄されて没落した浪人の倅ならこんなものかもしれない。
……いや、それにしては指先が白く細い。そして、パチパチと爆ぜる薪の煙に混じって、微かに潮の香りがする。
人さらいは自分が観察されていることに気づかず、ふところから短冊状に折り畳んだ紙と矢立て(携帯用の筆)を取り出した。
「これから、おまえの家に脅迫状を書く。身代金は……そう、五十両。神田の稲荷神社に持ってこさせる」
「五十両? 安いな。余の価値はそんなものか」
「黙ってな。……ええと、竹千代の身柄を預かっている。返してほしくば……」
かまどの明かりを頼りに、立ったままでさらさらと筆を走らせる。
拘束されているが締め付けはゆるく、竹千代は結び目が解けないように気をつけながら、ギリギリまで身を乗り出して覗き込む。
「文字には魂が宿ると言うが、なかなかの達筆だ。だが、そこは『預かっている』ではなく『拝借仕った』の方が、受け取った側の心証が良いぞ」
「はあ? 何言ってんの」
「それから、文面が少々稚拙だ。七五調で整えるのが古来からの嗜みというもの。文末には一句添えてな。故事や漢文を引用するのも威厳があって良い。相手が驚いて、すぐに金を出す気になるかもしれない」
「……おまえ、自分の立場わかってる?」
人さらいは筆を止め、苛立ちを隠さずに竹千代を睨みつけた。
「そなたは人さらいで、余は人質だ」
「わかってるなら! もっと震えるとか、命乞いするとか、人質にふさわしい態度があるだろうが!」
「すまない。なにぶん初めての経験ゆえ、人質にふさわしい作法というものがよくわからなくて」
「もういい! ……さっさと宛先を教えな。親父の名前は?」
竹千代は少しだけ天井を仰ぎ、困ったように笑った。
「あんまり言いたくないな。角が立つ」
「言え! 言わないと、ふところの短筒が火を噴くぞ」
そうは言ったものの、今は両手が塞がっていてすぐには撃てない。
締まりのない脅しだが、それ以上に締まりがないのがこのとぼけた人質だ。この状況でへらへらと笑っている。
「わかった、わかった。……大御所様……いや、今はまだ将軍か。……ええと、わかりやすく言うと、武家の棟梁という意味なのだが」
「おーごしょ? 武家の、棟梁……?」
紙に書きつけようとした手が止まる。嫌な予感が、冷たい汗となって背筋をつつと流れる。
「親父殿の官名は……?」
「征夷大将軍、徳川秀忠殿……と書けば、間違いなく江戸城に届くだろうな」
小屋の中が、水を打ったように静まり返る。
人さらいの頭の中で、いくつかの単語が急速に結びついていった。
征夷大将軍、徳川秀忠。その息子。幼名は、竹千代……。
手から筆が滑り落ちた。
濡れた筆先が紙をかすめて、土間の地面にぽとりと転がった。
空いた手で竹千代の胸ぐらをつかんで引き寄せると、まじまじと見つめた。
鼻先に迫った「人さらい」の顔はずいぶんとあどけなく、柔和な輪郭を露わにしていた。見開かれた丸い目元に、火影に照らされて長いまつ毛が影を落とす。微かに、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「……は?」
「おい、墨が脅迫状に染みてるぞ。せっかく綺麗に書いたのに、台無しだ」
竹千代はぶざまに縛られたまま、他人事のように楽しげに笑った。
人さらいの顔から血の気が引いていく。今しがた、自分がさらってきた「隙だらけの若君」は、戦国の世を経て生まれた新体制を継承し、太平の世を築く「三代目」その人だった。




