鬼
今日も今日とてお仕事。
本日は夜勤のため、深夜からの始業である。
「……何で後楽園?」
「まあ待ってなさい。依頼者が来るから」
二人は現在、静まり返った後楽園ホールの観客席に居た。
当然のことながら証明も何も点いていないのだが、そこはそれ。
神祇省謹製の特殊サングラスのお陰で視界は昼間のそれと遜色がなかった。
「っと、来たわね」
桔梗の視線を追うと、壮年の男が一人、此方に向かって来ていた。
スーツに身を包み葉巻を咥えた恰幅の良い男性――第一印象を述べるならマフィアのドン! と言ったところか。
「おたくらが神祇省の人間かい?」
「ええ、あなたが依頼者の権堂拳一で間違いはなくって?」
「(拳一って名前だが、どう見ても日本人じゃないんだが……)」
彫りの深さや瞳の色を見れば一目瞭然だった。
しかし、次郎の疑問など瑣末なことである。そもそも彼は人間ですらないのだから。
「ああ。早速だが、ビジネスの話に入っても良いか?」
「率直なのは嫌いじゃないわ」
空想を空想のままに、それが神祇省の理念である。
その理念を外れ現実に這い出ようと秩序を乱す者を狩るのが彼らの仕事だ。
しかし、他にも業務が無いわけではない。
例えばそう。神祇省との融和を望み歩み寄った人外らの保護も業務の一環である。
管理下に入ってもらう代わりに、彼らの手で始末をつけられない不都合が出た場合のフォローもそれに含まれる。
今日の仕事は正にそれだ。
この手の仕事は通常業務とは異なり依頼と言う形でこなすことになり、担当したエージェントが直接報酬を貰えることになっている。
そのため金欠の職員はこぞって依頼を請けたがるのだがそれは余談だろう。
「知っての通り、アンタらの協力もあって俺ぁ後楽園の地下で闘技場を開かせてもらってる」
「血の気の多い連中の発散先を作ってくれたことには私達も感謝しているわ」
「(地下闘技場って……何それバ●?)」
色々ツッコミを入れたかったが真面目な空気ゆえ御口はミッフィーに。
エアリーディング能力は社会人の必須スキルである。
「フン、お互い様だ。っと、話を戻そう。最近、闘技場に面倒なのが入り浸るようになってな」
「面倒なの、と言うのは?」
「鬼だ。仕事柄、野蛮な連中との付き合いには慣れている……っつーか、俺自身もそっち側だからな。
だがまあ、その鬼は些か目に余る。観客が引くぐれえに相手をボコっちまう。いけねえ、それじゃあいけねえよ」
生粋の人外ならばともかく、人間社会に迎合している人外の価値観は人のそれに近くなっている。
融和のために人間の側に寄せたからだ。
権堂の経営する闘技場は選手も観客もそんな人外や裏の世界を知る人間ばかり。
そんな彼らにとって、いき過ぎたバトルは好まれないのだ。
ブックありきではなくリアルを求めているものの、残虐なショーを見たいわけではないから。
肉と肉がぶつかり合う熱をこそ求めて、彼らは闘技場に足を運ぶのである。
「何度注意しても直さないどころか、何が悪いって居直ってやがるんだ、あの糞馬鹿は」
「面倒な手合いね。でも、そっちで始末をつけられるのではなくて?」
幾ら強くても結局は個人。
秘密裏に数にものを言わせ圧殺することは可能なはずだ。
「ああ、最初はそうしようと思った。思ったが、ミスっちまった。
侮ってたんだよ、俺ともあろう男が野郎は脳みそまで筋肉で出来た馬鹿だってな。
実際そうなんだが、小賢しさがあると想定していなかったんだ」
「……何となく予想がついたわね」
「多分想像通りだ。野郎、勘付いてたんだろうな。ある試合の最後にマイクパフォーマンスをぶちかましやがった」
葉巻を携帯灰皿に押し付けるその顔は酷く苦々しい。
と言うか、しっかり灰皿を携帯している辺り権堂は案外真面目なのだろうか?
「自分が敗北以外でこのリングに上らなくなったら、それは拝金主義の腰抜け共のくだらない策謀ゆえだ……ってな」
血風香る闘士どもの聖地と謳っておきながらそんなことをしてみろ。
運営側は大打撃だ。客足が更に遠のいてしまう。
無論、観客や選手も件の鬼がいきなり消えればそれを想像するだろう。
だが、真実は誰にも分からない。分からないから自分を誤魔化せる。
此処で問題になるのは鬼自身が明確に言葉にしたこと。
言葉にしてしまえば”リングから消えた”と言う事実に対する受け手の受け取り方が変わってしまうのだ。
「……そのせいで、こっちはやりたくもないボディーガードまでつけさせられてよぅ」
鬼はそんな性格ゆえ、評判は良くなかった。
何処そこの組織から目をつけられているとか、誰それに怨まれているとか、そんな話は両手足の指で足りないぐらいだ。
そんな連中に殺されてしまった場合も、あの言葉があるせいで闘技場の関与を臭わせてしまう。
ゆえに、殺されないように鬼を守らなければいけなくなってしまった。
「あらあら、利用されたわけね」
「ああ、ものの見事にな」
「……だったら、リングの上で倒せる奴を呼んで来りゃ良いだけなんじゃねえのか?」
これまで黙っていた次郎が疑問を呈する。
相応の資金力があるようだし、強い人外を雇うことぐらい簡単だろう。
「……おいアンタ」
「悪いわね。彼はまだ、此方に踏み込んで日が浅いのよ」
「どう言うことだ?」
「確かに、その鬼より強い人外連中なんてごまんと居るわ。だけどそれは人外と言う大きな括りの中でね」
「?」
「人間に理解を示している人外の中にも居るには居るけれど、そいつらは強過ぎるの。
神であったり、神話の中で神と凌ぎを削る者であったりと。
でも、そんな連中を連れて来るのも彼にとっては問題でしょう?」
運営側の大人気なさを知らしめるような真似は出来ない。
ゆえに、その手の強過ぎる者らは除かれてしまう。
「では同じぐらいの実力、或いは少し上ぐらいなら? それはそれで問題がある。
此処で常勝不敗の王として君臨していると言うことは人間と協調を見せている人外の中でも神やらを除けばその鬼は最高クラスだと推測出来るわ」
それこそが問題なのだ。
”強過ぎる”の括りに入る人外は人と歩調を合わせるかは半々ゆえ例外だが”強い”人外と言うのは大概人間を見下している。
ゆえに大抵は神祇省の敵か、積極的に敵対していないだけと言う者ばかり。
「積極的に敵対していない連中でも、雇うのは難しいでしょうね。
連中のお決まり文句を教えてあげましょうか? 人間に尻尾振ってる玉無しに協力なんぞ出来るか――よ」
事実がどうであれ、連中の中ではそれが真実なのだ。
「……糞面倒臭えな」
「でしょう? だから、神祇省に話を持って来たのよ」
「そう言うこった」
「だがよ権堂さん、一体どうやって闘技場に被害を及ぼさないように鬼を排除するってんだ?」
今までの話だけを聞けば随分と難易度が高いように思える。
どのように始末をつけるつもりなのだろうか? 次郎としてはそれが疑問であった。
「簡単なこった、逮捕してもらうのさ。奴さんをパクれるだけの材料は用意してある。
だが、それだけじゃあ怪しまれるから。――――俺も同時に逮捕されるのさ」
「!?」
「特に後ろ暗い部分は無いが、でっち上げれば良い。俺自身が認めりゃあそれで真実になる」
クツクツと笑う権堂に気負いのようなものはまるで感じられない。
怪しまれないようにするためには、罪人として神祇省に無償奉仕をしなければいけないのに。
カマイタチらの時とは規模が違うから、元の生活にも刑期を終えるまでは戻れないだろうに。
それでも権堂は平然と笑っていた。
「後少しで奴の試合がある。タイトルマッチだから俺も出席しなきゃいけねえ。
おたくらにはそこに踏み込んで来て欲しい。逃げられないように不意打ちで……リアリティあるだろ?」
「……アンタ、何でそこまで?」
「何でも糞もねえよ、俺ぁ此処が大好きなのさ」
好きなものを守る、それは当たり前のことだろう? そう笑う権堂の瞳は少年のように輝いていた。
利益を求めていないわけではないだろう。
だが、その根底にあるのは血潮滾る戦士達が存分に凌ぎを削り合えるこの場所に対する愛だ。
「…………なあ桔梗」
「何?」
「もっと、丸く収まる手段があると思わねえか?」
「あら、何かしら?」
ほんの少しだけ、抑揚のない声に弾みがついたのは気のせいだろうか?
「”そいつ”は人間ながら、この闘技場の熱狂的なファンなんだ。
人外を取り締まる立場だってのに、私的に何度も足を運んでは楽しませてもらってる」
朗々と語る次郎の白々しさよ。
「だがどうだい? 最近は、どうにも話の分からねえ馬鹿がのさばっていて面白くない。
いい加減うんざりだ、馬鹿の顔なんてこれ以上見たくねえ――――って思って乱入かましてぶちのめしても不思議じゃねえよな?」
犬歯を剥き出しにした凄絶な笑みがその顔に浮かび上がる。
戎次郎の五体を流れる血潮は沸騰寸前。
頭の中は――いや、心身共に最早完全に、喧嘩状態へと移行していた。
「おい、坊や……」
「神祇省の所属だとしても、相手は人間。加えて素手喧嘩だってんなら面子も潰れねえだろ」
むしろ、そんな人間にやられるような鬼が悪いのだ。
闘技場の粋ってものを理解し観客を楽しませることが出来ないだけでも普通の選手なら追放もの。
強いからギリギリ踏み止まって居られるが、人間に負けるようではとてもとても。
「お嬢ちゃん、おたく坊やの上司なんだろう? 何とか言ってくれよ」
「私は問題が解決するなら別にどちらでも良いもの」
しれっと言ってのける桔梗だが、問題が解決するならどちらでも良いと言う言葉を見れば分かるだろう。
彼女が次郎にかける期待が、信頼が。
「待て待て待て。ああいや、気持ちはありがたいがな。坊や程度じゃあ……あん?」
どうにかこうにか翻意させようとする権堂に向かい次郎はすっ、と左手を差し出した。
「比べっこだ。あんたも結構やるんだろ?」
ガキがナマ言ってやがる! と言われてもしょうがない不遜な笑みが何ともまあ、この上なく似合っていた。
権堂は一瞬言葉を失い、深く溜息を吐いてから自身も手を伸ばす。
彼としては現実ってものを教えてやろうと言うつもりなのだが、そんな考えは一瞬で消え失せることになる。
「!?」
手と手が絡み合った瞬間、尋常ではない衝撃が全身を駆け巡った。
みしみしと軋む骨、気を抜けば手を砕かれてしまいそうだ。
これならばいける? ――――などと考えるには、権堂拳一と言う男は余りにも雄であり過ぎた。
「ッッ……!!」
奥歯が砕け散らんばかりに力を込めて握り返す。
自然と険しくなる顔はあまりにも凶悪で、子供が見れば泣き出すこと間違いなしだ。
権堂は今、一切合財を忘れていた。
その頭を、その心を占めているのはたった一つのシンプルな思い――負けねえ、ただそれだけだ。
「良い……顔してんじゃねえか……!!」
対する次郎も涼しい顔で居られるはずもなく血管を浮かび上がらせながら力を込め続けていた。
戎次郎、権堂拳一、縁の巡り合わせで出会った馬鹿二人。
共に解決すべき問題を抱えていると言うのに、どっちの馬鹿もすっかり忘れてしまっている。
雄が二匹顔を合わせて比べっこを始めたのだ。余計なことなど考える必要は無い。
俺のが上だ、ただそれだけで良いだろう?
『『んがぁああああああああああああああああああああああ!!!!!』』
そんな男達を見て、桔梗はホント馬鹿ねと思いはしたが止めることはなかった。
共感は出来ないが、理解は示す。それが女の度量と言うものだろう。
そうして、しばしの間単純な力は比べは続き――――
「……参った」
先に膝を突いたのは権堂だった。
彼は心底悔しそうに、しかし何処か晴れ晴れとした顔をしていた。
最近は良いことが無くて鬱憤が溜まっていたからだろう。良いストレス発散になったようだ。
「それで、どうだい?」
そもそもの目的を思い出した次郎が問いを投げる。
が、言葉とは裏腹にその顔には確たる自信だけが満ちていた。
「一つ条件がある」
「あん?」
言ってみろよと目で促すと権堂はニカっと雄臭い笑みを浮かべ、
「――――後でサインくれ」
「ハ……パネェの書いてやるよ。ちゃんと拳一くんへ、ってつけてな」
◆
その日も極一部の趣味の悪い者を除き、観客は苦い顔をしていた。
客席は総て埋まっているけれど、”分かっていない”馬鹿が出て来る前は立ち見客も溢れていたと言うのに今は……。
離れず残った客達も、このままではいずれ此処から去ってしまうだろう。
今はまだ、タイトルマッチの度に次こそはとチャレンジャーに期待をかけているから。
「ガハハ! ああ、良い……良いぜぇ……!!」
リングの中央では二メートル半ばはあろうかと言う巨躯を持つ男が下品な笑い声を上げていた。
額から伸びた天を突く角、そう、彼こそが運営や観客を白けさせている馬鹿鬼である。
「な、舐めやがって……!!」
そう噛み付いたのは鬼と向かい合っていたワーウルフである。
彼は今日のチャレンジャーで、並々ならぬ決意を秘めて此処に立っていた。
だと言うのにどうだ? 憎き糞鬼はまるで自分を見ていない。男としてこれ程の屈辱があるものか。
「?」
と、そこで鬼の表情が苦いものへと変わり、顔の付近で何かを払うようにぶんぶんと手を振るい始める。
「何だ? ぶんぶん、うっせえな。蚊でも居やがるのか?」
苦い表情、ではなかった。
よく見れば口元が微かに歪んでいる。滲み出す性根の悪さは最早隠しようもない。
「まあ良いや。ぷちっと潰してやりゃあ済む話だからなぁ――――何時も通りに」
「ッ……!!」
ワーウルフは後楽園地下闘技場を愛していた。
此処に通い始めて、もう何十年になるか。
人外にとっては瞬きするような時間でしかないが、それでも過ごした日々の濃密さは百年の歳月にも勝るものだ。
初めて此処を訪れ闘技場に漂う熱い血の香りに胸打たれたこと。
観るだけでなく一匹の雄として戦いに臨みたいと一歩踏み出した日のこと。
初めて勝った日のこと、初めて負けた日のこと。
この場に集う者は皆が皆、良い奴ではなかった。
中には眼前の鬼のように屑としか言いようのない者も居た。
だけど、そんな奴らは軒並み淘汰されて来た。誇りを持つ戦士達の手によって。
大好きだから、この場所を愛しているから。
「(……俺達選手はまだ良いさ)」
どれだけ残虐な仕打ちを受けたとしても、それは弱さゆえと納得が出来る。
しかし、観ている客達は違うだろう。
どう言い繕っても、金と言うものは必要になる。
金欠であれば、早晩、この闘技場も潰れていただろう。
今日までやって来れたのは、戦うことしか能のない自分達大馬鹿野郎の戦いに価値を見出してくれた客達が居るからだ。
嬉しいことではないか。
自分達の戦いに心躍らせ、何度も何度も足を運んでくれる彼らには感謝の言葉しかない。
だが、大馬鹿野郎に感謝の言葉なんて上手く伝えられるはずもない。
だからこそ、行動で示すのだろう?
精一杯の戦いを、あらん限りの情熱を魅せ付けて今日も良かったと家路に着いて貰う。
それが戦う者にとっての感謝、払うべき礼だ。
「(それをこの屑野郎が……!!)」
穢したのだ。糞を投げ付けたのだ。
ユルセナイ、赦してなるものか。
例え誇りを捨ててでもコイツを除かねば戦士達が愛した聖地が本当に無くなってしまうかもしれない。
大袈裟、と思うかもしれないが、そうでもないのだ。
現状、運営側は鬼を狙う者らからその命を守っている。
それはつまり、敵対だ。その意思が無かろうとも、狙う側からすれば敵対。
このまま敵を増やし続けていけば、いずれ手に負えないレベルの厄ネタを引き摺りだしてしまうかもしれない。
だからその前に、
「(コイツを消す……!)」
ざわめきが巻き起こる。
誰もが誰も、鬼ですらもが困惑したようにワーウルフを見ている。
彼の屈強な肉体には幾何学模様が浮かび上がっており、見る者が見ればそれが何か分かるだろう。
それは召喚陣、闇の世界の中でも更に仄暗い場所に住まう悪魔を呼び出すための召喚陣である。
そう、ワーウルフは自身の命を供物にして契約を交わし、鬼を排除する腹積もりなのだ。
「ッ……!」
流石の鬼にも焦りが滲むも、その時である。
ひらりと黒い影が二人の間に舞い降りたのは。
黒いスーツ、黒いネクタイ、全身黒づくめの出で立ちを見れば裏の世界に住まう者であれば誰もがある組織を思い浮かべるだろう。
「神祇省……?」
誰かがそう呟く。
そう、神祇省。勇名か悪名か、受け取り手によって違うが人ならざる者、影を歩く者には決して無視の出来ない存在である。
「やめとけやめとけ、兄さんの命はコイツにくれてやるにゃあ上等過ぎるぜ」
鬼を一瞥し鼻で笑った後、神祇省の男――戎次郎がワーウルフに向き直りそう告げた。
鬼は不快そうに顔を歪めたが口を挟むことはなかった。
此処で邪魔をするのは保身のため、得策ではないと判断したからだ。
呼び出される悪魔は自分より強い、ゆえに押し付ける。ああ、当然の判断だ。
当然の判断だがしかし、やはりこの鬼は闘技場に相応しい益荒男ではない。
弱い者にしか強く出られない典型的な塵屑野郎だ。
「神祇省……邪魔をするんじゃねえ!!!!」
犬歯を剥き出しにして怒るワーウルフ。
「まま、落ち着けって――――」
次郎はそんな彼に対してにこやかな笑みを浮かべ接近し、
「なァ!?」
その腹に拳を突き刺した。
鍛え抜かれた腹筋をぶち抜きくの字に折れ曲がる身体。しかし注目すべきはそこではない。
注目すべきは浮かび上がっていた召喚陣が霧散したと言う点だ。
無論、次郎に魔術とか呪術だとか陰陽術だとか、その手の術は使えない。
今のは桔梗の仕込みだ。
陣を突き崩す術式を次郎の拳に付与したのである。
「(ったく……予定が狂っちまったぜ)」
当初の予定ではこのような乱入紛いをするはずではなかった。
幾ら何でも真っ当なチャレンジャー相手にお前じゃ無理だから代われなんて言えるはずがない。
馬鹿にするにも程があるだろう。
ゆえに、例え傷一つ与えられずともワーウルフが負けるまでは動くつもりはなかった。
権堂から鬼には力で及ばずともワーウルフは良い選手だと聞いていたから尚更だ。
「(まあ、そこまで追い詰められてたってことなんだろうが……)」
気絶したワーウルフを見やるその目は憐憫に満ちていた。
本来ならただの一撃で沈むような手合いではない。
殴った感触で直ぐに分かった。
恐らくは悪魔に命を差し出すために身体を開け放っていたせいだろう。
「おい神祇省の兄さん、そこの塵屑とっとと逮捕してくれよ。召喚法違反だぜ」
召喚法? 入ったばかりの次郎が法律を総て網羅しているわけがないので召喚法なぞ当然知らない。
精々が召喚陣を起動した時に桔梗が何かそんなこと言ってたなと言う程度である。
「生憎と、今日はプライベートなんでな」
鬼の言葉を鼻で笑い飛ばす。
「そして更に私情を語らせて貰うのなら、俺は彼の……いや、この闘技場そのもののファンでな。
気持ちの良い馬鹿を見て明日への活力を貰ってたんだが、流石にさっきの馬鹿は見過ごせなかったから乱入したまでの話」
第一、前科も無いし被害者が出たわけでもないのだから厳重注意で済ますのが妥当だろう?
次郎が出した神祇省の人間とは思えない温情溢れる裁決に、観客達がホッと胸を撫で下ろしていた。
突然現れた神祇省職員の存在に、緊張が走り静まり返っていた闘技場も話が分かる男であると認識したのか心なしか緊張感が緩んだように思える。
だが、殺されかけた鬼からすれば不満なのだろう――次郎からすれば知ったことではないが。
それでも抗議しない辺り目をつけられたくないと言う小心がありありと見える。
「いやしかし参った……ああ、そろそろ限界だったんだ。
ものの道理が分からぬ、糞みてえな小物が此処にのさばってるのがさ」
余程おめでたい者でない限り、糞みてえな小物が誰を指しているのか理解出来るだろう。
「乱入ついでだ、試合を一つ潰しちまった代わりにその糞ったれを掃除しとくか」
解いたネクタイを無造作に投げ捨てながら言い放ったその言葉に騒然とする闘技場。
「毎度やられちゃ白けるが偶になら乱入・横殴りなんてのも華だと思うんだがどうだい?」
実況席に視線をやる次郎。
そこには実況のアナウンサーや解説者の権堂らが座っていて、
「何、仮に殺されたって誰にも累が及ばんようにするさ。
さっきも言ったがプライベートだ。プライベートで犯した軽挙妄動で死んだなら自業自得。
俺こと戎次郎は例え死んだとて、誰をも罪に問うつもりはない。この場に居る全員が証人だ。
口約束だが、アンタらも知ってるだろう? 神祇省の厳しさを。馬鹿やらかした職員のために動くわけねえよ」
最近は特に忙しいしな、と付け加える。
「オーナー! 何なら此処で神祇省に問い合わせてくれても良いぜ?
こうこうこんなことがあったんですが、本当に保証してくれますか? ってな」
その言葉を投げられた権堂は渋い顔をしている――が、無論演技である。
少々予定とはずれてしまったが、これは事前の話し合い通りだから。
「…………良いだろう、紅蓮を一撃でのしたその腕がありゃあ、良い試合を見せてくれるだろうしな」
「OKOK、話が分かるね。流石は権堂拳一、よ! 太っ腹♪」
太っ腹は少し違うんじゃねえかと思った権堂であるが敢えてツッコミはしなかった。
変に水を差して流れを乱すのがアホらしいからである。
「おいおいオーナー! 正気か?」
抗議の声を上げたのは鬼であった。
奴は決して自分が負けるなどとは思っていない。
思っていないが、次郎の立場を恐れて戦いを避けようとしているのだ。
この期に及んで実にくだらない男である。
「何だ何だ、ビビってんのかチャンピオン?
看板見て喧嘩売るかどうか決めるなんてホントに賢いなアンタ。あれ? ひょっとして玉ついてないのかな?」
ケタケタ笑う次郎、それはもう腹の立つ顔だ。
「安心して良いんでちゅよ?
刀も銃も使わないし、自分の意思でカット出来ねえ副次効果の身体能力向上はともかく穢れも使いまちぇんからねー?
ああそれとも何か? 人間相手にもケツ捲くる程弱いのか? まあ、弱いんだろうな?
で、幾ら積んだのアンタ? これまでの試合も全部八百長なんだろ? ねえねえ、幾ら積んだの? ねえ?」
「~~~~~!!!!」
元々赤かった肌が更に赤みを帯びたように見える。
此処まで言われては最早後には退けない。
虚仮にされた挙句、何もせずにオーナーが認めた試合を放棄する。
そんなことをすれば自分を追い出させる口実にもなりかねないから。
「吐いた唾は呑めねえぞ……! おい、聞いてやがんのか!?」
次郎は苦い顔であらぬ方向を見やりながら顔の近くでぶんぶんと手を振っていた。
「何だ? ぶんぶん、うっせえな。糞にたかる蝿でも居やがるのか?」
苦い表情、ではなかった。
よく見れば口元が微かに歪んでいる。滲み出す血気は最早隠しようもない。
「まあ良いや――――ぷちっと潰してやりゃあ済む話だからなぁ」
「ッ……!!」
ド! っと会場が沸いた。
鬼からすれば赤っ恥どころの話ではない。
自分が行った愚弄を微妙にアレンジを加えた上で叩き付けられたのだから。
次郎は満足げに頷き、中のシャツ諸共スーツの上着を脱ぎ捨て言い放つ。
「来いよ糞蝿、糞に集る以外にも能があるならな」
「な――めんなぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」
地を這うような勢いで身体を屈め、下から抉り込むように放たれた拳が次郎の腹部に叩き込まれた。
当然の如くに吹っ飛ぶと思うかもしれないが、そうではない。
確かにこの鬼、性根は腐っているがその強さは本物。
鬼の打撃は力と技術が同居したもので、吹っ飛ぶ――つまり後方に力が抜けていかないように打っているのだ。
「ッ!!!」
打たれた箇所から全身が爆ぜたような衝撃が奔り全身から血が噴き出す。
何時もならば相手がギリギリも耐えられるように散々甚振ってから打っていたフィニッシュブロー。
これ一発打てばそれまでにダメージを受けていなくとも十分お釣りが来る正に必殺の一撃。
それを初っ端から繰り出した辺り、次郎に対する殺意が窺えると言うものだ。
「へ、口程にも――!?」
拳を引き、直立姿勢に戻ると同時に気付く――――何故、この人間は立っている?
俯き気味で表情は見えないが、次郎は崩れ落ちていない。
これまでの相手は血を噴き出すと同時に地に倒れ伏していたのに。
『…………』
驚いているのは、息を呑んでいるのは何も鬼だけではない。観客達もそうだ。
先程までは次郎のパフォーマンスに煽られて熱狂していたが、冷静に考えて彼は人間。
無理なんじゃないか? と思い出した矢先に鬼の一撃だ。
終わった、と誰もが思っていただけにこれは予想外だった。
「……あぁ、やっぱりな。軽いにも程があるぜ、その拳」
クツクツとくぐもった笑い声が静寂を侵食する。
「男の拳じゃあねえ。まだ幼稚園児の方がマシなパンチを打つんじゃねえか?
軽い、呆れる程に軽過ぎる。喰らっちまった相手が馬鹿らしくなって寝ちまうぐらいに糞くだらねえ」
口が裂けても王者の拳などとは言えない。
口内に溜まった血を吐き捨て、そう告げた次郎は心底白けた顔をしていた。
無論、強がりである。やせ我慢である。しかし、それこそが男の粋ってものだろう。
「――――パンチってのはこう打つんだよ!!」
鬼の動きをなぞるように超低空からその腹筋目掛けて拳を打ち上げる。
その一撃は腹筋を貫き甚大な衝撃を肉体に刻み込んだ。
威力自体は鬼のそれには劣るもの。しかし、
「ひ、膝を突いた……?」
観客の誰かがそう言った。
そう、鬼は今の一撃で片膝を突いたのだ。
一体何がどうなっているのか? 一部の者を除き疑問に思うだろうが、分かる者からすれば当然のことだ。
「(……自分より強い奴と、一度もやって来なかったんだからな)」
端的に言ってしまえば想定外の事態を経験していないのだ。
自分よりも強い者と戦う時、余裕などあるはずもない。
常に焦燥に駆られながら遠く霞む勝利を目指してひた走る、それが強者との戦いだ。
例えるなら無明の闇を進むような道程で、だからこそ心が鍛えられる。
予想外の事態が起きたからとて、肉体の制御が乱れることはない。
だが鬼は違う。突然の事態に肉体の制御を手放してしまった。
どれだけ腹筋を鍛えていても力を込めていないところに一撃をかませば相応のダメージは与えられる。
それが次郎程の男の拳であれば推して知るべしと言ったところか。
とは言え完全に緩んだタイミングに合わせて狙い打つなんて芸当は誰にでも出来ることではない。
人であろうとなかろうと、強者に対して真正面から挑み続けて来た者でなくば辿り着けぬ境地だ。
「お、お、おぉ……」
何が起こったか分からぬと呻き声を漏らす鬼に向かい次郎は冷笑を浴びせかける。
「お、お、ってアザラシか何かかテメェは。あーあ、情けないにも程があらぁ。弱い者いじめは趣味じゃあないが……」
一拍置いて不敵な笑みと共に次郎は言い放つ。
「――――立てよ三下、男の喧嘩ってもんを教えてやらぁ」
少し遅れて爆ぜるように歓声が響き渡った。
脱ぐのは桐生ちゃんリスペクトです。




