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キスをする5秒前~kiss.kiss.kiss~  作者: 夏野 みかん
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樹・・・涙する。

「杉原四っ角を左折でいいんですか?」


タクシーの運転手は黙って頷いた俺を、バックミラーで見て、困ったように笑うと

「左折したら、停車していいんですね。」


「…はい」

ようやく声を出した俺に、運転手はほっとしたように車を止めた。



杉原四っ角から6軒目。

通りに面した倉敷格子が目を引く町家風に建てられた家、そこは俺が17歳までいた家だった。


その家の前に俺は立ち、10年振りに訪れた家をぼんやりと見上げた。


帰国後、ここに訪れなくてはいけないと思っていた。あんなに世話になり、迷惑をかけたのだ、帰国の挨拶はしなくてはと思っていたが、どんな顔で、どんな話をしていいのかわからなくて…なかなか足を向ける事が出来なかった。


だが久住本家に行くと決めた今、葉月ちゃんを守るためには、虫のいい話だが、養父の助けが欲しい。今は本社を離れているが、久住本家の中で、養父しか婆様に対抗できる人物はいない。

そう考えたら、葉月ちゃんをアパートまで送ると、俺は通りかかったタクシーに乗って、この家を目指した。帰国してから約2週間目、ようやくここに訪れた。



外観は当時のままだ。庭もそうだろうか…あの頃子供だった俺にはわからなかったが、今思えば見事な【書院式庭園】だった。あぁそうだ、その庭園で養父は俺の為にバーベキューをすると言って、使用人たちを右往左往させたことがあった。それが可笑しくて、そしてすごく楽しかった。


あの婆様がいる久住本家は伏魔殿だったが、ここは…違った。唯一息が出来る場所だった。


なのに俺は…10年前…

「樹…。お前も、秋継も私の大事な息子なんだ。俺が必ず、あの人を説得する、だからしばらく待ってくれ。」と言った養父に…


「樹…」と言って泣いた養母に…


俺は、頭を下げ

「すみません。どうかここから…久住家から逃げることを見逃してください。」と言ったんだった。


…最低だなぁ。

養子の俺が、弟の許婚と、駆け落ちをする事を許してください。って言ったんだからなぁ。

そんな裏切るようなことをした俺なのに、あの日、由梨奈が来なかった駅に、俺を迎えに来てくれたのは養父だった。



『…父さん…』


養父は頷くと、俺の肩を抱き…

『桐谷家と縁を結びたいのなら秋継より、お互い惹かれあっている、樹と由梨奈さんとの婚約を考えてやるべきなのに…。あの人は本家の血に拘って、何にも見ていない。』


そう言って、顔を歪ませ

『だが…私もあの人と変わらないのかもしれんなぁ。お前にしばらく待てと言ったが、待ったところで、あの人が簡単に納得するはずはないとどこかで思っていた。お前もそう思っていたから、私の言葉に頷いてはくれなかったんだろう。だが今度は必ず、お前の声に耳を澄ます。だから心が迷ったら、私を呼んでくれ。頼む…樹。』


そう言っていた養父は数年後、あの婆様と対立し本社を離れたが、主要な子会社を、それも十数社の取締役に就いたのはやはり養父の力だろう、だがあの婆様が反旗を翻したことを簡単に許すはずはなく、どういう理由を作ってかはわからないが、秋継に自分を選ばせた。


確かに、あの婆様の権力への執着が誰もを不幸にしている。

だが、俺が由梨奈を好きならなければ…養父と婆様との間で亀裂が入ることもなく、秋継が権力に取り憑かれている婆様の下へと、自ら行く事もなかったんだ。


俺が由梨奈を好きになった事が…

同じ籠の鳥の彼女と一緒に、空を見たいと思ったその事が…

由梨奈をより頑丈な籠へとやり、新たに籠の鳥…秋継を作ってしまうことになった。


なのに張本人の俺は…籠の鍵を外された。


だが、あんなに由梨奈と自由に飛びたいと願っていたのに…

籠を開けられた瞬間、自分には飛べる翼がないことに気が付いた。

子供だったからだけじゃない、現実を知らない坊ちゃんだったということだ。生きてゆくために必要な術は何ひとつ知らなかった。


俺は開いた扉を閉めた。

久住に残るというのは惨めで恥ずかしかった。だが見苦しくても、27歳の今まで久住と言う名を捨てなかったのは、外で生きてゆく為には、ちゃんと飛べる羽を作らなくては…ちゃんと餌をとることを覚えなくては…生きてゆけない事を知ったからだ。


今思えば、10年前まだ未成年だったのが、ある意味幸いしたのかもしれない。

まさか、犬猫のように捨てるわけにはいかなかっただろうから…。


籠は形を変え、そして場所を変えて俺をアメリカへとやった。

悲壮な思いでやってきたアメリカだったが、この10年で俺は様々なことを知り、そしてそれを力にして、何件もの大きな契約を取り、アメリカの経済界とのパイプを作っていった。


俺は…もう飛べると思った。俺の翼はもう飛べると…


だから、勝負に出た。


俺がアメリカで整えた翼は、婆様に不満を持つ本社の重役数人を魅了し、俺を本社へと戻ることに、力を貸してくれたが、それが引き金になったのだろうか、秋継と由梨奈の結婚は、本来なら秋継が大学院を卒業してからの予定だったが、婆様は半年ほど結婚を早め、時期総裁は、秋継だと公表した。


婚約しているのだから、結婚はいずれあるとわかっていたはずだったのに、はっきりとした日付を聞いた時、俺の心は大きく揺らぎ、17歳の頃の俺と、27歳の俺が心の中で激しくいがみ合った。


17歳の俺の心は…


あれ以来、どんなに魅力的な女性と付き合っても、唇にキスが出来ないのは…どうしてだかわかっているんだろう。あの触れた唇の柔らかさを、そしてあの熱い思いを忘れられないから…いや忘れたくないから…他の唇で上書きなんてしたくないと思っている。そうじゃないか?

愛しているんだよ。それは今も愛していると言うことなんだよ。


そう言って…由梨奈の唇を思い出させた。



だが、27歳の俺の心は…


もう…苦しくて…辛い。叶わなかった恋なんだ、もう終わりたい。終わらせたい。


そう言って…泣いていた。


そんな気持ちを抱えたまま、日本の地を踏んだ俺は…荒れた。

唇以外は、誘われるまま他の女に触れさせ…

なにも考えたくなくて、快楽を求めた。



そんな日々を送っていたのは、まだ数日前のことだ。


由梨奈に会うのは正直恐い。俺は…どうなってしまうか恐い。

10年前とは違う。空を飛べる翼があるんだ。

あれほど求めた女を目にしたら…俺は…どうするか…自信がない。


他の人の手で終わらせられた恋だったから、まだ、小さな種火を持ったままなんだろうか。

だから、終わったと17歳の俺の心がまだ認めていないんだろうか。

だが振り向いてくれなかった由梨奈を、未だにどんなに思っても、誰も幸せにはならない。不幸になるばかりなんだ。


終わらせる。終わらせなくては…いけないんだ。


秋継や由梨奈に会えるのは、これから先、おそらくそう何度もないだろう。本家のパーティという、魑魅魍魎の集まりだが、ふたりに会えるこの機会を見逃したら、このまま、整理が付かない心で、結婚式を見ることになる。


せっかく葉月ちゃんが作ってくれたチャンス。

だが、剣も盾も持たずに、あの魑魅魍魎の集まりには連れてはゆけない。

どこかに忘れて来た笑顔を思いださせてくれるあの場所が…大事だから

葉月ちゃんがいる場所が大事だから…


俺は前に進む。

俺の為に…

俺に手を差し伸べ、笑顔を思い出させてくれた人を守る為に…


その為に養父に会い、そして頭を下げ、助けを請うんだ。


インタホーンに手を伸ばした。


《はい。》


「…樹です。」


《……家に帰ってくるのに、何年かかってるんだ、このバカ息子。》


「…すみません。どんな顔で会ったらいいのかわからなくて……時間が掛かってしまいました。」


《樹…10年前あの駅の構内で、また迷ったら、私を呼びなさいと言っただろう。》


「…父さん…」


《樹。待っていたよ。お帰り。》


その声があんまり優しくて…目頭が熱くなった。だが…27の男が、親に涙を見せるのはカッコ悪くて、インタホーンから顔を背けながらだったが、でも…言いたかった。


「ただいま…」


小さな俺の声に…養父はまた

《お帰り、樹。》と…


あぁ、ここにも…

笑顔を思いださせてくれる場所が…ここにもあった。


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