はりぼて令嬢の造花
四話目「はりぼて伯爵の耳」までは短編の内容と同一です。
「————下手くそめ」
贅沢な絨毯が敷き詰められた夜の部屋で、少女は自身の指先を冷たく見下ろした。
握りしめたヴァイオリンのネックには、夜の闇でもはっきりとわかる、赤黒い血の跡が擦りついている。
弦を凝視するその瞳には、涙の一滴すら浮かんでいない。
ここは、伯爵から彼女に与えられた部屋だ。
身体を沈められる柔らかなベッドもある。闇を退けるランプの明かりもある。何より、凍える隙間風の吹かない壁と、冷たい雨が漏れない屋根がある。
この場所を守るために必要なものは、音楽だった。
硬く強張った指先から滲む血を、上質なドレスの裾で無造作に拭い、少女は再びヴァイオリンを構える。
『この音が、お前の値段だ。価値を示せなければ、ここには居られぬ』
脳裏に響くのは、彼女を拾った男の、酷く冷徹な声。そうだ。価値を示さなければ、意味がない。またあの泥の底へ逆戻りだ。
優しい伯爵ではあった。路地裏で飢え死にしかけながらもか細い声で歌っていた少女を、気まぐれに屋敷に招き入れた。「喉の楽器など、歳を取れば衰える。これを鳴らせ」と、冷たい弓を握らせた。価値を示し続けさえすれば、養女にすらしてくれるという。
だが、音楽に対してだけは、一切の妥協がなかった。
グランヴェル伯爵。
それが、コレットという名の孤児を泥の底から拾い上げた男の名であり、この国の音楽史にその名を刻む大貴族の家名だ。
この国において、芸術————とりわけ『音楽』は、単なる貴族の嗜みではない。血統や領地の広さと同じ、あるいはそれ以上に、その家の『格』を決定づける絶対的なステータスだった。
優れた演奏家を庇護し、自らも至高の音を奏でることこそが、真の権威の証明となる。なかでもグランヴェル家は、音楽界への多大な支援と発展への貢献で高名であり、その当主である伯爵の耳は、神の如く肥えていた。
そんな男の養女になるということは、単に贅沢な暮らしを手に入れるというだけで済むことではない。
国中のエリートが集まる、あの最高峰の音楽学院へ放り込まれ、一挙手一投足、そして奏でるすべての音を、冷酷な貴族社会の品評の目に晒されることを意味していた。
「……上等だ」
コレットは、ずきずきと脈打つ指先を愛おしげに見つめ、薄く笑う。泥水をすするだけの孤児には、血統も、生まれ持った財産もない。ならば、伯爵の期待を利用し、音楽という名の武器を完璧に研ぎ澄ますだけだ。
この手で、誰もが認める完璧な『伯爵令嬢』を完成させてみせる。
————それから、血の滲むような二年が瞬く間に過ぎ去った。
最初の一年は、ひたすらに音楽の修練と伯爵令嬢としての立ち振る舞いを身につけるための地獄だった。
凍えることも飢えることもなかったが、孤児生活の方がまだマシだ、と天を仰いだことも一度や二度ではない。
伯爵家に迎え入れられた当時のコレットは、文字の読み書きすら知らなかったのだ。
言葉遣いも、食事のマナーも、令嬢らしい所作も、何一つ知るはずのない路地裏の垢。
それをたった一年で、この国最高峰の音楽学院へ叩き込もうというのだから、伯爵の音楽狂いも度が過ぎていると、つけられた家庭教師たちは誰もが呆れ果てていた。
ヴァイオリンの技術習得が遅れれば、令嬢として不適格と判断され、音楽学院に入学できなければ、自分の人生はそこで終わりだ。
命までは取られずとも、二度と日のあたる場所へは戻れない。
その確信は、首筋に刃を突きつけられているような耐えがたい恐怖となって、コレットの身体を突き動かし続けた。
周囲の「絶対に無理だ」という予想を完全に裏切り、たった一年で教師たちから合格点を毟り取ったとき、伯爵は約束通りコレットを養女として迎え入れた。
それで、コレットの名はコレット・ド・グランヴェルになった。
晴れて伯爵令嬢になったコレットの前に、それは現れた。
妹だ。
名をリュミエール・ド・グランヴェル。コレットとは違い、正真正銘、伯爵家の実子である。
幼い頃から至高の音楽教育を受け、平均以上の才能と、それなりの結果を出し続けてきた娘。決して飛び抜けた天才ではない————もしかしたら、その事実こそが、伯爵がコレットを拾い上げ養女にまで迎えた一因だったのかもしれなかった。
だとしたら、コレットに求められているのは、実子である妹以上の結果だ。
絶対に、負けるわけにはいかない。音楽の実力で実子に劣るなど、その時点でコレットの存在価値は消え失せ、二度と値がつかなくなる。
だからこそ、コレットとしては妹と極力関わりたくなかった。
それなのに、何の苦労も知らずに育った少女は、突然現れた路地裏育ちの姉を拒絶するどころか、文字通り寝る間を惜しんで努力する姿を見てからというもの、熱烈な憧れを抱くようになった。
最初は他人行儀だった呼び方も、いつしか「お姉様」に変わっていた。
間違えても叩かれない、弾けなくても明日がある。そんな温室の温かさをまとった笑顔が、目を逸らしたくなるほどに羨ましく、そして、嫌いだった。
裕福にのびのびと育った者しか持ち得ない、あの無垢で残酷な「余裕」を見せつけられているような気分になった。
けれど、嫌われるわけにはいかなかった。
あの無邪気な妹こそが、コレットにとって最後の命綱だったからだ。
もしこの先、冷酷な伯爵に「不要」と判断され、切り捨てられそうになった時。
実子である妹の「お姉様が大好き」という泣き言一つが、自分を泥の底から救い上げる決定打になるかもしれないのだから。
「お姉様の手、少し冷たいです。緊張されていたのですか? 私が温めてあげますね!」
そう言ってコレットの両手を包み込んできたリュミエールの手は、温室の薔薇のように柔らかく、驚くほど温かかった。
それに引き換え、コレットの指先は死人のように冷たく、狂ったように弦を押し潰し続けたせいで、酷く硬く、ひび割れている。
貴族のそれとは程遠い、泥の底から這い上がるために研ぎ澄ました、ただの武器の質感だ。
格式高い音楽学院のサロン。自身の完璧な演奏を終え、ステージを降りたコレットを待ち構えていたのは、今年晴れて新入生として入学してきた『可愛い妹』だった。
コレットは、路地裏で培ったすべての役者根性を総動員し、慈愛に満ちた微笑みを仮面のように貼り付ける。
「ありがとう、リュミエール。あなたが客席で見守ってくれていたから、いつも以上に上手く弾けたのよ」
嘘だ。緊張などしていない。ただの過度の疲労と血の巡りの悪さだ。
それに、この汚れなき実子に、自分の指先の無骨な硬さを悟られてはならない。もしも気づかれ、元孤児の身の上に同情されるなど、死んでも我慢ならなかった。
だからこそ、淑女としての完璧な力加減を指先に命じ、慎重に、優しく握り返す。
この妹に気に入られ続けること。それが彼女の、この学院における最優先の生存戦略なのだから。
周囲の貴族生徒たちからは、今なお彼女への惜しみない賛辞と拍手が送られている。
楽譜の指示通り、強弱もビブラートも寸分の狂いもない、満点のヴァイオリン。お上品な彼らは、コレットが首筋や鎖骨を赤く腫らし、夜通し指を血に染めて掴み取った「冷たい機械の音」を、グランヴェル伯爵令嬢にふさわしい「洗練された美」だと勝手に勘違いして絶賛してくれている。
「さすがはお姉様ですわ。私も早く、お姉様のように完璧な音を奏でられるようになりたいです!」
無邪気に目を輝かせるリュミエールを見て、コレットは内心で冷たく、ほっと胸を撫で下ろす。
よし、今日も完璧に「優しいお姉様」を演じきれている。この調子で、実子であるこの子の「お姉様が大好き」という絶対的な好意を繋ぎ止めておけば、自身の未来の値段は暴落せずに済む————。
そう確信し、さらに甘い言葉を重ねようとした、その時だった。
会話を、拍手を、そしてサロンを満たしていた生ぬるい平穏を、物理的な暴力にも似た圧倒的な一音が、鋭く引き裂いた。
確認せずとも、コレットにはその音の主が分かった。
ジュリエット・ド・ヴァロア。
コレットと同い年の二年生にして、同じ伯爵令嬢でありながら、この国で『音楽の神に愛された天才』と謳われる少女。
刹那、彼女の奏でる音だけが、サロンのすべての空気を支配した。
学院に入ってからの一年間、幾度となく聴かされてきたジュリエットの演奏は、あまりにも異質だった。
ジュリエットの音が命の脈打つ瑞々しい大輪の花だとするならば、コレットの音は、寸分違わぬ形に整えられただけの冷たい造花に過ぎない。
それほどまでに違う。公式に養女に迎え入れられるほどの特訓を経て「耳」だけは肥えてしまったからこそ、その絶望的な差が完璧に理解できてしまう。それがコレットにとって、胃の腑がねじ切れるような恐怖だった。
何より信じられないのは、今ジュリエットが手にしているヴァイオリンが、自身のために調整された銘器などではないということだ。サロンの隅に放り出されていた、誰もが気まぐれに手にする手入れも行き届かない備え付けの代物。
なのに、なぜあんな音が鳴る。どういう指の圧力で、どういう弓の角度で、あの深みが生み出されているというのか。
蓄積してきた理論も、血の滲むような努力も、そのすべてを塵のように踏みにじる圧倒的な才能の輝き。
隣では、リュミエールが純粋に目を輝かせてその演奏に聴き入っている。
(——比べられたくない。聴かないで)
みっともない本音が、コレットの思考を黒く支配していく。
けれど、逃げるわけにはいかなかった。コレットがグランヴェル伯爵令嬢としての値段を保ち続けるためには、あの怪物に勝てないまでも、同じ舞台で競い合い、食らいつき続けなければならないのだから。
パチ、パチ、と遅れて湧き上がった割れんばかりの喝采を、ジュリエットは一瞥すらしない。
上質な絹のドレスを小さく鳴らしながら、彼女は人混みを割ってコレットへと歩いてくる。神の寵愛を一身に受けたその容姿は、同じ伯爵令嬢という肩書きが滑稽に思えるほど、眩しく、そして気高かった。
驚いたのは、コレットと目が合った彼女の唇が、ふわりと親しげな微笑みを象ったことだ。 悪意も、嘲りも、見下すような意図すらそこにはない。ただ、今さっき聴いた音楽の感想を、親しい友人に語りかけるような無邪気さのまま、彼女はコレットの目の前で足を止めて言った。
「貴女のヴァイオリン、つまらないわね」
「え……あ……え?」
何を言われたのか聞き取れなかった訳ではなかった。
しかし、その意味を理解することをコレットの脳は拒んだ。
言葉にならない返事が途切れ途切れに口から漏れ出る。
演奏でサロンの注目を集めるだけ集めてジュリエットの口から放たれたその言葉は、サロンにいた全員が聞いた。
コレットのヴァイオリンは、つまらない。音楽の天才が、神に愛された少女がそう言ったのだ。
こと音楽の場において、その発言は絶対の事実となる。
その言葉はコレットの努力も、積み上げてきたものも、すべてを無価値に貶めるものだった。
ジュリエットは美しい微笑みのまま続ける。
「正確な技術は悪くはないのだけど、そこには熱も渇望もないものだから、ヴァイオリンが泣いても笑ってもいないわ。見せかけだけで中身が空っぽ」
全身の震えが止まらなかった。
何かを言おうとして口を開こうとすると歯がガチガチと音を立てる。
反論。
反論など、何もなかった。その通りだった。
コレット・ド・グランヴェルの演奏には中身がない。コレット自身がそう思っていたからだ。
グランヴェル伯爵に拾われて二年、必死に取り繕って作り上げた、技術だけのはりぼて。
ジュリエットは。天才は、そのことを正確に見抜いていたのだ。
逃げ出したかった。
背を向けて走り出し、とにかくジュリエットの視界から逃げ出したかった。
けれど、身体は動かなかった。
ジュリエットの言葉は、サロンの空気を一瞬で凍らせた。多くの者がいるはずなのに、その息遣いすら聞こえそうなほどの静寂。
その空気を切り裂いたのはコレットでもジュリエットでもなかった。
「今の言葉、取り消してください。ジュリエットさま」
その声は、驚くほど低く、そして冷ややかに響いた。
凍りついた人混みを割ってジュリエットの前に立ちはだかったのは、さっきまで無邪気に目を輝かせていたはずのリュミエールだった。
いつも眩しい太陽のように笑う妹の顔から、一切の笑みが削ぎ落とされていた。コレットの手を包んでいたあの温もりは消え去り、冷ややかな殺気すら帯びている。
その瞳の奥で燃え盛る激しい憤怒の炎に、ジュリエットを囲んでいた上級生たちすら思わず一歩身を引いた。
「あら、グランヴェル家の新入生さん? 挨拶の前に怒られてしまうなんて、わたくし何か悪いことを言いましたかしら」
ジュリエットはやはり、悪気のない、きょとんとした顔で小首を傾げる。天才にとって、真実を口にすることは悪ではないからだ。
その「無自覚な残酷さ」が、リュミエールの導火線に完全に火をつけた。
リュミエールはドレスの裾を強く握りしめ、ジュリエットの美しい瞳を真っ向から睨みつける。
「貴女は、神様から仕立てられた立派な靴をお持ちですわ、ジュリエットさま。だから、裸足で泥道を歩く痛みも、足の裏を血に染めて進む苦しみも、貴女にはわからない。……何も知らないくせに、お姉様の歩みを否定するな!」
音楽の場で、音楽の神に愛された天才が語った、絶対の真実。
それを、たった一人の少女が涙を流して否定していた。
たった一人で、あの絶対的な怪物に立ち向かっていた。コレットのために。
コレットは、ただ激しく混乱していた。
伯爵家に迎え入れられてからの付き合いは二年になる。同じ家に住み、同じ食事を摂り、時には共にヴァイオリンを弾いた。
けれど、コレットはリュミエールのことが嫌いだった。優しくしてやったのだって、いつか自身の役に立つかもしれないという打算でしかない。
好かれていて欲しいとは思っていたし、好かれているかもしれないと自惚れたこともあるが、それは生存への願望が生んだ都合のいい妄想だと思っていたのだ。
それなのに。
誰も否定できない天才に対して、周囲がすべて敵であるかのようなこの空間で、妹だけはコレットの味方だった。
その事実が、どうしても信じられない。
しかし。
たった一人の弁護人による必死の抗弁も、天才の心に響くことはなかった。
ジュリエットはまるで、理解できない外国の言葉を聞いたかのように、ただ不思議そうに小首を傾げただけだった。
「そういう考え方も……あるのかしら? けれど、わたくしはコレットさんのヴァイオリンは何度聴いてもつまらないなあ、と、そう思っていたのだけど」
その言葉を受け、妹がさらに言葉を重ねようとしたところで、ようやくコレットの身体が動いた。
リュミエールの腕を掴む。
妹が驚いたように振り向き、視線が交差した。彼女の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が溜まっていた。
恐怖と屈辱と怒りとで震える身体を無理やりに押さえつけ、コレットは短く、けれど全身の力を込めて、ゆっくりと言い放った。
「リュミエール、もういいわ」
逃げる。それしか、今のコレットには思いつかなかった。
リュミエールの手を強く引き、サロンから足早に立ち去る。
背後から声をかける者も、追ってくる者も、誰一人としていなかった。
ただ。
つまらないわね。その一言が、冷たく背中に突き刺さったままだった。
石造りの長い廊下に、二人の非対称な足音と、激しい呼吸の音だけが虚しく響いていた。
サロンの喧騒が完全に聞こえなくなった角を曲がったところで、コレットは弾かれたように足を止めた。繋いでいたリュミエールの手を、突き放すように強く放す。
振り返ったコレットの顔は、屈辱で血の気が引き、怒りで身体を震わせ、幽霊のように真っ白だった。
「————いつ私が、貴女に助けて欲しいなんて言ったの?」
低く、地を這うようなコレットの声が、静かな廊下に鋭く突き刺さる。
「ジュリエット様の仰ったとおりよ。私の音楽には中身がない。私の音楽は私自身を飾るための道具でしかない」
「違います……!」
「違わないわ。貴女はグランヴェル家の本物の令嬢。私はそこに潜り込んだだけの元孤児。這い上がるために必死になったところで、本物にはなれっこないの。彼女に呆れられるのも当然よ。貴女に同情されるのも……」
「違うって言ってるでしょ!」
リュミエールは言葉を遮り、コレットの胸元を握る。
「コレットさんが私のことを嫌いなのも、良い姉を演じているだけなのも、ずっと、ずっとわかってました……! でも、お父様に認められるために、私に勝つために、ずっと頑張ってたことを知ってます! 音楽も、勉強も、必死に頑張ってたことを知っています! 同情なんかじゃない、私はコレットさんの音楽が一番恰好良いって思ってるし一番好きです!」
————自分の、音楽が。
ただ生き残るために身につけた、音楽が。
やらなければ生きていけないからやっていたにすぎない音楽が。
必死に、何度も血豆を潰し、歯を食いしばって作り上げてきた音楽が。
音楽の神に愛された天才に、つまらないと断じられた、私の音楽が————。
この妹には————響いて、いたのか。
そう、思った瞬間。
伯爵家に来てから、一度も。一度だって流したことのなかった涙が、瞳からあふれ出し、視界を歪めていく。
その涙の熱で、彼女はようやく理解した。
ああ、自分は————激しく悔しかったのだ、と。
何が音楽の神に愛されているだ。何が音楽の天才だ。
私の二年間。必死に積み上げてきた音楽を、勝手に否定するな!
そう、あの場で言い返したかったのだ。
だから、そう、だから……。
リュミエールがジュリエットに言い返してくれたとき、コレットの身体が震えたのは。
勝手な真似をする妹への、怒りなんかじゃなかった。自分の気持ちを自覚した今なら、はっきりとわかる。
あれはきっと、魂が震えるほどの、歓喜だったのだ。
沈黙。
リュミエールは自身の言葉に戸惑っているようにも見える。
意識して大きく息を吸い、細く長く吐き出した。
どんな言葉を妹にかければよいか、まったくわからなかった。
怒りはもう消えていたが、かといってお礼の言葉は喉に張り付いたように音にならない。
結局、コレットは黙ってハンカチをリュミエールに差し出した。
「……お姉様、私だってハンカチくらい持ってます」
「そう? 知ってるわよ、私の妹は結構忘れ物が多い、って」
先のことはわからない。
もしかしたら、厳しい義父がいつかコレットのことを不要とする日が来るかもしれない。
けれど、今このとき、この場所では。
コレットは姉で、リュミエールは妹で。
それで良い、と元孤児の伯爵令嬢は思った。
差し出されたハンカチを受け取った妹の手は、やはり驚くほど温かい。
その熱は、コレットを焦がす熱さではなく。
凍り付いたなにかを溶かす温もりのように、コレットには感じられた。
あのサロンの嵐から、数日が過ぎていた。
コレットとリュミエールの関係は、表向きは以前と何も変わっていない。コレットは相変わらず完璧な『伯爵令嬢』を演じ、妹はそんな彼女を慕ってついてくる。
けれど、繋いだ手の温度や、交わす言葉の端々に、張り子の仮面ではない本物の血が通い始めたことを、コレットは密かに自覚していた。
————このまま、自分のペースで技術を磨き直し、いつかあの天才の首をへし折ってやる。
そう静かに闘志を燃やしていたコレットの前に、その『嵐の主』は、あまりにあっけなく姿を現した。
「ごきげんよう、コレットさん。それに、リュミエールさんも」
中庭の木漏れ日を浴びて、鈴の鳴るような美しい声が響く。
振り返った先にいたのは、純白のレースの日傘を差した、ジュリエット・ド・ヴァロアだった。
一瞬で周囲の生徒たちの視線がこちらに突き刺さり、空気がピキリと凍りつく。先日のサロンの騒ぎを知らない者は学院内にいない、と言うほどに広まってしまっていたから。
隣のリュミエールが、咄嗟にコレットの前に出ようと一歩を踏み出すのが分かった。彼女はそれを手で制し、淑女の微笑みを貼り付ける。
「……ごきげんよう、ジュリエットさま。先日は、私の妹が大変失礼な真似をいたしました」
まずは大人の対応。グランヴェル伯爵家の名に傷をつけないよう、妹の無礼を詫びる形で接触を終わらせようとした。
ジュリエットもまた、ふわりと美しい笑みを深める。
「いいえ、お気になさらないで。わたくし、あれからずっと考えていましたの。……確かに、リュミエールさんのおっしゃる通りでしたわ。わたくし、貴女のことを、貴女のこれまでの歩みを何も知らないまま、その音楽のすべてを知ったような気になっていましたのね。本当に、浅はかでしたわ」
しおらしく小首を傾げる天才。一件落着、これでこの場は収まる。そう安堵しかけたコレットに、ジュリエットは満面の、汚れなきひまわりのような笑顔を向けた。
「ですから、わたくしコレットさんのことをよく知りたいなって、名案を思いつきましたの! コレットさん、しばらく一緒に練習をして、二人で演奏会をしませんこと?」
————は? 何を言い出すのだ、この天才は。
「え……あ……え?」
あのときと同じような、言葉にならない声だけがコレットの口から漏れた。
嫌だ。嫌すぎる。
どうしてよりにもよって大輪の花の隣に、偽物の造花を飾らなければいけないのか。
しかしコレットの身体は蛇に睨まれたカエルのように硬直し、取ってつけたような断り文句すら出てこない。
混乱する思考の中で、そうだ、と思い至る。
私には味方がいる、と。
目の前の怪物をものともせず勇敢に立ち向かった頼もしい味方が。
コレットは初めて、妹に縋った。
視線で助けを求めた。
頼む。この怪物を退治して姉を助けてくれ、と。
リュミエールはコレットの視線を受けると、満面の笑みを浮かべ、両の手のひらを胸の前で合わせてジュリエットに言った。
「まあ、ジュリエットさま! なんて素晴らしい名案なのでしょう! 世界で一番格好良いお姉様の音楽と、ジュリエットさまの音が重なれば、きっと至高の演奏になりますわ! 私も大賛成です!」
リュミエールの瞳は、姉の輝かしい未来を確信して、きらきらと眩しく輝いている。悪気など一滴もない、純粋な追従だった。
しかし、コレットの願いはあっさりと裏切られた。
最近通じ合っているなどと考えたのは間違いだった!
やっぱりこの義妹は嫌いだ!
心の中で毒づいては見たものの、これでコレットの味方はいなくなった。
逃げ場はない。
コレットは引きつった笑みを浮かべつつ、ぎこちない肯定の頷きを返したのだった。
————元孤児の伯爵令嬢コレット・ド・グランヴェル。
彼女の、受難の多い学院生活は、まだまだこれからが本番のようである。
ジュリエット「ヤダヤダ! コレットちゃんはもっと野蛮じゃなきゃヤダ!」




