第1話 転生
月曜日の朝、土砂降りの雨の日だった。
俺はくたびれたスーツの肩を濡らしながら、交差点で信号を待っている。
小路曜山。四十二歳。独身。
中小企業の経理をしているが、出世街道から外れて久しい。
コミュ障だから経理を選んだのに、上に行くには結局コミュニケーション能力が必須なのだ。
もちろん、出世したところでうまくやれる自信などなかったが。
腹は少し出てきたし、髪も昔よりずっと心細い。
いよいよ人生の底が見えてきた。
このまま寂しい生涯を送るのならば、いっそ全てを投げ出してどこかに逃げてしまおうか。
しかし、逃げたところでこんな自分に幸福が待っているのだろうか。
信号が青になり、横断歩道を渡る。
その途中で、男子高校生とすれ違った。
背が高く、顔立ちも整っている。
いかにも運動部という感じの、未来がぎっしり詰まったような少年だった。
傘が小さいようで、ひざ下までびしょびしょに濡れている。
(ふん、いい気味だな)
未来ある少年の小さな不幸に、薄暗い悦を感じる。
同時に、そんな自分が情けなくなった。
最低だな、俺。
そのとき、大型車特有の、割れるようなクラクション音が鳴り響いた。
ふと見ると、橋の上からトラックが下ってきている。
速度が落ちない——ブレーキが効かないのか!?
トラックの進む先には、先ほどの高校生がいた。
誰かが「危ない」と叫んだが、彼の足は動かない。
このままだと、あいつは死ぬ。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
高校生の身体を突き飛ばした瞬間、視界が真っ白な光に包まれる。
凄まじい衝撃と、骨が砕ける音が頭の中で響いた。
(ああ、俺の冴えない人生、ここで終わりか……)
薄れゆく意識の中で、不思議と後悔はなかった。
最後に一つ、良いことができたのだ。
目が覚めると、見知らぬ世界が広がっていた。
俺が横たわっているのは、カプセル型の透明な設備の中のようだ。
カプセルの外には、研究所のようにも、神殿のようにも見える景色が広がっている。
金属とも石ともつかない白い壁に、見たことのない文字が淡く浮かんでいた。
「生きてる……のか?」
発した声に違和感を覚える。
声が高すぎる。
事故の後遺症だろうか?
慌てて自分の身体を確認する。
「えっ」
この白く細い身体は、どう見ても俺の身体じゃない。
毛も生えていない瑞々しい肌は、まるで女性の肌のようだ。
だが、男であることはすぐに確認できた。
なぜなら全裸だったからである。
困ったことに、辺りには服どころか布1枚すら見当たらない。
——パシューン
小気味よい音と共に、唐突に部屋の扉が開く。
入ってきた人物の姿に、俺は目を疑った。
長い薄紫色の髪に、琥珀色の瞳が輝く美しい少女。
その少女の耳はツンと尖り、異常に長かった。
「エルフ……!?」
なるほど。
エルフが登場するのであれば、ここは異世界なのだろう。
やはり俺は死んだのだ。
そもそも、あの速度のトラックに撥ねられて生きているわけがない。
転生したのなら、少年の身体におじさんの頭がついているようなひどいことにはなってなさそうだ。
しかし、エルフが友好的であるかはわからない。
俺は何かの被験体で、これからひどい目にあうのではないか。
エルフの服は見慣れないデザインであったが、装飾や華やかさから、貴族のように見えた。
一方こちらは全裸である。
人権が認められているのか疑わしい。
服が欲しい。
近づいてくるエルフに焦っていると、視界に文字が浮かび上がった。
《ホログラムで仮の衣服を生成しますか?》
「え。あ、はい。お願いします」
恐る恐る呟くと、瞬く間に体が青い衣服に包まれた。
ホログラムの服なので触れることはできないが、身体を隠すだけなら十分だ。
エルフはそばに近寄ると、カプセルを見つめて立ち止まった。
何かを確認しているようだ。
次の瞬間、駆動音と共にカプセルの蓋が開かれた。
「——————————?」
エルフが何かを喋るが、言葉が理解できない。
心配そうな顔をしているから、敵意はないように見える。
《翻訳しますか?》
(……お願いします。)
《『気分はどう?』と聞いています。次の会話からは同時翻訳モードに切り替えます。》
得体のしれない文字ではあるが、声に出さなくても話が通じるようだ。
俺が日本語で話しても相手にわかるよう翻訳されるのだろうか。
転生物にはよくあることだが、異世界の言語を翻訳できるのはなんとも都合のいい設定だ。
「気分は悪くないです。ここはどこですか?」
日本語で答えると、エルフは嬉しそうに笑った。
かわいい。
前世で見た誰よりもかわいい笑顔だった。
その笑顔に掴まれた俺の心には、恐怖心など残っていなかった。
「ここはね、エルフ居住区の治療室よ」
「治療?」
「覚えてないよね。禁域で意識を失っているあなたを見つけて保護したの。なかなか目覚めなかったのよ」
「そう、なんだ。ありがとう」
エルフは一瞬だけ顔を曇らせ、首を振った。
「礼なんていいのよ。私の名前はイオスフィア。記憶が混濁していると思うけど、名前は覚えてる?」
「僕の名前は……」
俺の前世での名前は……あれ?思い出せない。
オジ……?
まあ、今は思い出せなくてもいいだろう。
この少年にはきっと別の名前がある。
彼の記憶が残っているかもしれない。
存在するかもわからない記憶を探ろうとしたとき、再び視界に文字が表示された。
《あなたの名前は『シンメ』です。》
「シンメ……だと思う」
「いい名前ね!よろしく、シンメ。私のことはイオって呼んで」
「うん、よろしく。イオ」
イオが差し出した手を掴むと、右腕を覆っていたホログラムの服が溶けるように消え、素肌が露になった。
どうやら、カプセルの外ではホログラムが消えてしまうようだ。
「イオ。早速お願いがあるんだけど……」
「あ、ごめんごめん!服よね?」
俺が頷くと、イオは少し申し訳なさそうな顔をしてから、壁の前に立った。
次の瞬間、何もなかったはずの壁に細い線が走り、音もなく四角い穴が開く。
そして穴の奥から、畳まれた服がすっと押し出されてきた。
「服着たら私の家に行くつもりだけど、それでいい?あなたの家族が見つかるまで、しばらくは一緒に住むことになるから」
……なんだって?
一緒に住む?
こんなかわいいエルフと?
同棲なんて、前世では一度も起きなかったイベントだ。
「もちろん、シンメが嫌じゃなかったらだけど」
「嫌じゃない!迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
つい興奮して子どもらしい口調を忘れてしまった。
もっとも、翻訳で細かいニュアンスが伝わるかはわからないが。
「遠慮しなくていいのよ。安心して、私はあなたの味方だから」
そう言ってイオは俺の頭を撫でる。
あぁ、やはりここは異世界じゃなくて天国だったのか。
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