現実の外側
颯がしゃがみ込んだ、その瞬間だった。視界が、閃光のような黄色に塗り潰される。一瞬――いや、瞬きほどの時間。だが次の瞬間には、何事もなかったかのように元へ戻っていた。
「……今の、なんだ?」
訝しみながら、颯は手を伸ばす。触れようとしていたはずのサークル。
――だが、そこには何もなかった。あるのは、ただの白い床。
「は?……おい、待てよ」
思わず声が漏れる。その違和感に気づいたとき、さらに異変が重なった。周囲が、やけに明るい。颯はゆっくりと立ち上がり、振り返る。二人に状況を確認しようとして言葉を失った。
「……え?」
視界に広がっていたのは、どこまでも続く純白の空間。壁も、天井も、境界すら存在しない。
「え……ぇ……」
喉が乾く。声にならない。
「……どこだよ、ここ……」
理解が追いつかない。現実感が、指の間からこぼれ落ちていく。
「久保田!鍋島!……おーい、富貴!澪!」
呼びかける。だが、返事はない。
白。ただ、それだけの世界。上も下も分からない空間が、じわじわと恐怖を膨らませていく。颯はその場に座り込み、膝を抱えた。さっきまでの出来事を、必死に思い出そうとする。
――そのとき。
「……えっ、この黄色の光……」
声。確かに、聞こえた。
「……富貴?」
弾かれるように顔を上げる。振り返ると――そこに、二人の姿があった。
「富貴!澪!」
二人も気づき、振り返る。
「あ、颯……って、ここどこ?」
澪が眉をひそめ、周囲を見渡す。
「真っ白やん……何これ。どういう状況?」
三人は、互いの存在を確かめるように立ち尽くした。
――そのときだった。
二人の背後から、音が響く。
『◎◆△○◇★→□◎◇☆▼※●◇■◆◎★』
言葉ではない。意味も、構造も理解できない音。
三人は同時に音の方を振り向き――息を呑んだ。
「……っ!!」
そこに立っていたのは、“人の形をした何か”。身長は二メートルほど。目も、鼻も、口もない。ただ、滑らかな白で構成された存在。それが、すぐ近くに立っていた。
「うぁああッ!」
反射的に後ずさる。白い存在が、腕を持ち上げた。掌すら存在しないその先端から――泡が溢れ出す。無数の泡。それは空中で弾け、崩れ、やがて形を変えていく。
そして――一人の老婆が、そこに立っていた。
「……っ、うあぁあ!?」
三人の悲鳴が重なる。老婆は、しばし無言で彼らを見つめたあと、口を開いた。
「あんたら……こんな所で何しとんのや」
しかし、その言葉は届かない。三人はただ、硬直したまま見つめるだけだった。
「ワシの部屋に客が来た言うから戻ってみりゃ……お前らかいな」
反応はない。
「……どうやって入ってきたんや。ここには来れんはずやがのぅ」
老婆が一歩近づく。その分、三人は後退る。
「……まあ、無理もないかのぅ」
小さくため息をついた。
「頭が追いつかんかのぅ」
三人は、ようやく小さく頷いた。
「しゃあないの。ほな――」
老婆は両手を胸の前に掲げる。再び、泡が湧き上がる。その輪郭が崩れ、再構成され――次の瞬間、そこに立っていたのは。若い美しい女性だった。
「どう?この姿の方が話しやすいでしょ?」
柔らかな笑み。整った顔立ち。現実離れした“美しさ”があった。三人は顔を見合わせる。やがて、富貴が口を開いた。
「あの……今日はずっと変なことばっかり起きてて……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「……もう、何が現実なのかも分からなくて……その……私たち……ここで、殺されたり……しませんよね?」
女性は、ふっと笑った。
「何言ってるのよ」
軽く肩をすくめる。
「そんなこと、するわけないでしょ」
少し考えるように視線を上げる。
「そうね……まずは、落ち着きましょ」
そう言って、右腕を大きく振った。その瞬間、白一色だった世界が――書き換わる。
重厚なリビング。洗練された家具。大きな窓の向こうには、雪化粧を纏った山々。空間そのものが、別の現実へと変貌していた。
さらに、左手を軽く持ち上げる。すると、テーブルの上に四つのカップが現れる。湯気が立ち上り、コーヒーの香りが静かに広がった。
「どうぞ」
女性はソファに腰掛け、優雅に足を組む。
「座って」
その一言に、三人は顔を見合わせる。恐る恐る、肩を寄せ合いながら腰を下ろした。その様子を見て、女性は呆れたように笑う。
「なにそれ。普段からそんな詰めて座ってんの?」
軽く息をつく。
「安心して。何かするつもりなら、とっくにやってるって」
コーヒーに手を伸ばしながら、さらりと言った。
「食ったりもしないから。……ほら、力抜きなさい」
その声だけが、この異質な空間の中で、妙に現実的に響いていた。
澪が、ふっと肩の力を抜いた。
「……せや」
半ば投げやりに、しかしどこか吹っ切れたように口を開く。
「もうえぇ。何とでもなれって感じ」
二人が視線を向ける。
「これは夢や。こんなん夢やないと起こるわけない」
鼻で笑うように言い切った。
「怖がるだけ損。何しても問題なし。誰の夢かは知らんけど――」
ぐっと前に身を乗り出す。
「逆に調べてみよ。どこまで続く夢なんか、誰の夢なんか」
その言葉に、颯と富貴は一瞬だけ顔を見合わせ――小さく頷いた。三人は、ゆっくりと間隔を空けて座り直す。さっきまでの密着が、ほんの少しだけ解けていた。
「……じゃ、まず」
澪が改めて女性を見る。
「お姉さんの名前を教えてください」
女性は一瞬だけ目を細め、考える素振りを見せた。
「名前ねぇ……」
くすっと笑う。
「この姿のときは――水芭蕉」
軽く首を傾げる。
「“蕉”って呼んでくれる?」
「OK」
澪は頷き、テーブルのカップへ視線を落とす。
「蕉さん。このコーヒーは飲めるんですか?」
「もちろん。飲むために出したんだから」
澪はカップを持ち上げ、慎重に口をつけた。
――一口。
その瞬間、わずかに眉が動く。
「……キリマンジャロやな」
蕉の口元が、にやりと歪んだ。
「へぇ。澪ちゃん、コーヒー通なのね」
「いや、まあ通ってほどでも……」
間を置かず、蕉が言う。
「エチオピアよ」
「……えっ」
一瞬、固まる。
「……あー、なるほどな。エチオピアか。初めて飲んだけど」
誤魔化すように笑う澪。そのやり取りに、わずかに空気が緩む。雰囲気を変えようとコーヒーの話を続けて、張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていった。
――そのタイミングを見計らったように。
蕉が、静かに本題へ入る。
「じゃあ、説明するわ」
声のトーンが変わる。軽さが消え、芯が通る。
「話の途中でも聞きたい事があれば、いつでも言って、答えるから」
澪が肩をすくめる。
「夢やし。何でも聞く聞く」
「……夢じゃないけどね」
さらりと言い捨てる。そして、姿勢を正した。
「まず――私は、人間じゃない」
「知ってるって」
即答。
「……もう少しだけ、話を聞いてくれる」
蕉の目が鋭く細まる。空気が一瞬だけ張り詰めた。澪は口にチャックをする仕草をした。
「私は、クラシク星から来た“シンフォ種族”が作った存在」
淡々と続ける。
「セルヴァント。分かりやすく地球風に言えば、アンドロイドとかロボットね」
その言葉に、三人の表情がわずかに変わる。
「もともとは、こんな感じじゃなかった。でも――」
蕉がゆっくりと手を差し出す。
「人間が増えすぎた」
掌の上に、光が集まる。
次の瞬間――
超精密な地球の立体映像が浮かび上がった。息を呑むほどのリアリティ。雲の流れすら再現されている。
「だから、監視用に改良された」
その地球の各地に、光点が次々と灯る。
「セルヴァントは私だけじゃない」
無数の光。都市の夜景のように、地球全体が輝く。
「これ全部――セルヴァントの位置」
「……多すぎやろ」
颯が思わず漏らす。蕉は指を広げる。映像が一気に拡大される。日本、四国、さらに徳島。そして、市街地。
「徳島市内だけで、三百三体」
静かに言い切る。数字の重みが、じわりと現実味を帯びる。
「……」
誰も、軽口を叩けなかった。やがて映像は消える。
「本来の姿は、さっき見た通り」
そして、続ける。
「監視してるのは――人間が地球の“内部”に潜るかどうか」
三人の視線が集まる。
「地殻の下には、“シンフォ”と“オケスト”っていう二つの種族が住んでる」
「……地下に?」
富貴が小さく呟く。
「そう」
蕉は頷いた。
「人間がそこまで辿り着かないか――それを監視してる。まずはそれが第一の理由」
「なんで?」
颯の問い。蕉は、わずかに目を細めた。
「人間ってさ」
少しだけ、声音に冷たさが混じる。
「同族でも平気で殺し合うでしょ。他の種族なんて、なおさら」
沈黙。
「もしも争う事になっても、蟻が人間に勝てないのと一緒。人間は勝てない。でも――」
指先で、テーブルを軽く叩く。
「人間は環境を壊す力だけは、異常に高い」
その言葉に、誰も反論できない。
「だから、地下の環境も汚される可能性もあるから、会わない方がいいという判断から、監視してる」
簡潔な結論だった。そのとき、富貴がそっと手を上げる。
「……質問、いいですか?」
「どうぞ」
「いつから……地球に住んで居るんですか?」
蕉は少しだけ考え――あっさりと言った。
「地球時間で言えば、四十億年前くらい」
空気が止まる。
「……は?」
「四十……億……?」
富貴の声が震える。
「地球ができた頃やん……」
澪が乾いた笑いを漏らす。
「……やっぱ夢や。設定盛りすぎや」
だが、蕉は表情一つ変えない。
「当時は二つの種族も地表にいた。でも、冷えてきたから地下へ移動した。それだけ」
淡々とした説明。余計に現実味が増す。
「他に質問は?」
澪が手を上げる。
「じゃ、一つ。その話からすると、ここって地下ですか?」
「違うわ」
即答。
「地上でもない」
そして――わずかに口角を上げた。
「あなた達がよく知ってる場所よ」
一拍。
「――月」
沈黙。澪は一瞬だけ固まり――
「はいはい」
と、軽く流した。だがその目の奥に、微かな揺らぎがあった。
「……証明、できますか?」
挑発するように言う。蕉は、笑った。指を鳴らす。
――次の瞬間。
天井が消えた。広がる、宇宙。無数の星。そして、その中心に――青く輝く地球。息を呑む三人。蕉は、その地球へ指を向けながら、澪の実家の住所を聞いた。
ズーム。日本。大阪。街。――澪の実家。完全な“現在”の映像。人が歩き、車が通る。時間が、動いている。
「……嘘やろ」
「澪ちゃん、お母さんでもお父さんでもいい、今、実家に居る人に連絡して」
澪はスマホを取り出し、電波がある事を確認する。
「月やのに電波があるっておかしい話や」
蕉がすぐさま補足する。
「ここは世界中と繫がるようになっているわ」
澪はスマホで母親に電話をかけ、外に出て欲しいと伝える。一致する音声と映像。疑いようのない現実。一方的に電話を切ると、母親がスマホの画面を確認して、家に戻る様が見えた。
「……まじで」
その言葉は、もう軽くなかった。蕉が微笑む。
「月から通話した最初の人間ね」
その一言が、静かに突き刺さる。澪は力なく笑った。
「……ほっぺ叩いてくれへん?」
富貴に顔を向ける。
「夢から覚めたいわ」
「まだ疑うのね」
蕉が立ち上がる。
「なら――外、見せてあげる」
三人の視線が上がる。
「宇宙服は?」
「いらない」
背を向ける。
「もっと便利な私達のものを使うから」
扉へと歩き出す。三人は、その背中を追う。
「……やっぱ夢やって」
澪の呟きが、かすかに響く。扉の前で、蕉が振り返った。手の中に、二つの指輪。白いリングに、緑と黄色のライン。
「これを両方ともつけて」
順に手渡す。
「緑は防御。“ヴォイド・スキン”――身体を包むバリアね」
「黄色は呼吸。“ブレス・スフィア”――どこでも息ができるわ」
颯が指輪を見つめる。
「……小さすぎない?」
指に当てた、その瞬間。絡みつく。まるで、生き物のように。
「うわっ!?」
指にぴたりと収まり、固定される。同時に、視界の端で七色の光が弾けた。だが、それもすぐに消える。三人は自分の身体を確かめる。違和感は、ない。何も変わっていない。
「行くわよ」
蕉が扉に手をかける。ゆっくりと、開く。その向こうに広がっていたのは――
“灰色の砂と岩の世界”だった。
三人は、言葉を失ったまま――ゆっくりと扉の外へ踏み出した。その瞬間。内臓がふわりと浮き上がるような、奇妙な感覚が身体を駆け抜ける。
「……軽い」
颯が呟く。足に力を込めると、身体が――跳ねた。まるで、重力から解き放たれたかのように。映画で見た月面の動き。それが今、自分の身体で再現されている。
「うわっ……!」
澪が小さく跳ねる。そのまま、ゆっくりと空中に浮き、ふわりと着地した。
「やば……これ、めっちゃ楽しいやん」
恐怖は、いつの間にか消えていた。三人は、子供のように跳ね回る。宇宙服もない。酸素ボンベもない。それなのに、呼吸はできている。その“異常”すら、今はもう現実として受け入れていた。
颯が、深く膝を曲げる。
「いくで」
思い切り、跳ぶ。身体は一気に宙へ放り出され――三メートルほど上空へ。そして、ゆっくりと。本当にゆっくりと、地面へと降りていく。
「……すげぇ」
その一言に、すべてが詰まっていた。
――その時だった。
砂を踏む音もなく、すっと蕉が近づいて来た。まるで重力の影響など存在しないかのように、静かに歩いてくる。異質さが、際立つ。
「……満足した?」
穏やかな声。
「月にいることは、もう分かったでしょ」
一拍。
「そろそろ、戻りましょうか」
その一言で、現実が引き戻される。三人は名残惜しそうに、最後の一歩を踏み――室内へと戻った。ドアをくぐると同時に重力が、元に戻る。
沈黙。
そして、真っ先に口を開いたのは澪だった。
「……蕉さん」
深く頭を下げる。
「さっきは、すいませんでした」
顔を上げる。その表情は、もう疑いではなかった。
「……信じます。ここ、月です」
言葉に、迷いはない。
「私ら……あの黄色い光を受けて、一瞬でここに来たんですよね?」
蕉は小さく頷いた。
「そうよ」
軽く肩をすくめる。
「本当は、どうやって転送装置を見つけたのか聞くつもりだったんだけどね」
くすっと笑う。
「話がそれて、この通り」
ソファへと歩きながら続ける。
「普段は使わないの。満月のときだけ、ここに戻る」
振り返る。
「だから――あなた達は、かなり運がいい」
その言葉の重みを、三人は理解し始めていた。
「人間で“初めて”をいくつ重ねてるか……分かってる?」
誰も答えられない。そのとき、富貴がふと顔を上げた。
「あれ……?」
「ん?」
「私達……さっき、外で普通に話してたよね」
「……ほんまや」
澪が目を見開く。
「確かに……普通に会話してた」
蕉はあっさりと答えた。
「ブレス・スフィアが通信してるのよ」
その一言で片付けられる。
だが――
「……やば」
澪がぽつりと呟く。
「私ら、めっちゃとんでもないことしてるやん」
颯が苦笑する。
「今さらやけどな」
富貴が、小さく息を吐く。
「こんな体験……普通は絶対できないよね」
その言葉に、誰も否定しなかった。やがて、富貴が改めて蕉を見る。
「さっき、蕉さんは普通に歩いてましたけど……あれも何か仕組みが?」
蕉はソファに腰を下ろし、足を組む。
「私はね」
少しだけ視線を落とす。
「外部環境の影響を受けないように設計されてるの」
さらりと言う。
「重力も、浮力も、関係ない」
「……」
三人は言葉を失う。
「便利なのかどうかは、まあ……考え方次第ね」
その軽さが、逆に異常だった。しばしの沈黙。やがて、澪が口を開く。
「ねぇ、蕉さん」
真剣な眼差し。
「それだけの高度な技術があるのに……なんで地下に潜ったんですか?」
問いの核心。空気が、わずかに変わる。蕉は背もたれに身を預けながら話す。
「……本能でしょうね」
静かな声。
「人間にもあるでしょ。“そうせずにはいられない”ってやつ」
三人は、黙って聞く。
「最初から地下にいたわけじゃない」
ゆっくりと視線を戻す。
「でも、選んだのよ。地上ではなく、下を。寒くなったって理由もあるでしょうけど」
その言葉には、どこか重みがあった。
「……まあ」
ふっと微笑む。
「二つの種族のことを話してあげるわ」
空気が、再び張り詰める。この先にある“真実”を予感させるように。蕉は姿勢を正し、三人を見渡した。静かに、物語の扉が開く。




