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二十

 廟堂の屋根の上で、六飛(リウフェイ)は上体を起こした。眩しい。夜が明けるころ廟堂にもどった。なんとなく中に入りたくなくて、屋根に上った。庭の大きな槐の陰を選んで横になったのだが、眠れないでいるうちに影が動いてしまった。木漏れ日をちらちらと落として揺れる葉を見上げる。

 紅珊(ホンシャン)を置いて逃げてしまった。二度も、だ。

 しょうがない、と心の中で言ってみる。危ないのは仙狸の子の自分で、紅珊ではない。王衛(ワンウェイ)は絶対にヒトじゃないけれど、人外が必ず人に害をなすわけじゃないのは自分がよく知っている。王衛が県令の海賊退治に協力したのは事実だし、紅珊のことだって、もしかしたら本気で紅珊を助けようとして腕輪を与えて、だけど、術が未熟で紅珊の気を滞らせてしまいってその気を吸い出していた、とか。

 だといいな、と思う。そうなら、紅珊はずっと王衛といられる。尊敬する大好きな先生と。

 それに、王衛が悪いモノだったとしても、紅珊は命をとられるわけじゃない。食料だから。ただ精気を吸われるだけ。だから──。

 六飛は立てた膝に肘をつき、両手で頭を抱えた。

 ──いい、わけない。

 いいモノか悪いモノか、わからないなら確かめなきゃダメだろう? いいモノだといいな、なんて、紅珊のためっていうより、自分が何もしなくて済むからだ。王衛が悪いモノだったとき、助ける自信がないだけだ。

 県令が悪者たちの黒幕、という想像は自分の勘違いだったけれど、宮城の離れで見たもの感じたものは勘違いじゃない。だけど、逃げた。ただの人間相手には強気なくせに、明らかに自分より強いナニカは怖くて。紅珊は、腕輪を外しても私が六飛を守る、と言ってくれたのに。

 会わなきゃ、紅珊に。そう思い、違う、と心の奥の気持ちを引っ張り出す。会いたいんだ、紅珊に。辛くても強がって笑える紅珊に……。

「六飛!」

 紅珊の声がした。はっと顔を上げて声のする方を見ると、槐の下に紅珊がいてこちらを見上げていた。六飛と目が合うと、笑顔を浮かべ、

「こんなところにいたのね。探しちゃった」

 するすると槐を登って伸びた枝から屋根に移る。

 手際が良くてちょっと驚いた。

「……木登り、するんだ……」

「白風山ですごい修行をしなくたって木登りぐらいできるわよ」

 となりに座った紅珊から、つん、と答えが返ってきて、六飛の口もとに小さく笑みが浮かぶ。ああ、俺の会いたかった紅珊だ。

「俺も紅珊を探そうと思っていた」

 会いたくて、と自分の気持ちを素直に続けようとしたのだが。

「やっぱり、六飛もおかしいと思った?」

「おかしい?」

 勢いよく聞かれて、聞き返す。うなずいた紅珊の目が暗く沈む。

「海賊船の船倉で──」

 月明かりに浮かんだ凄惨な死体が六飛の脳裏によみがえった。紅珊、あれを見てしまったのか。……平気でいられるはずがない。何か言って慰めなきゃ、と思ったが。

「船倉で、私、ヒトじゃないモノの気を感じたの」

 声が喉に詰まった。ヒトじゃない……それ、俺じゃあ? 怒りでヒトの気膜をしっかりと保てなくなってしまって──。

「今思い出しても、怖い」

 と、紅珊は肩を震わせる。

「暗い……っていうより、強すぎる陰の気を感じたわ。きりのない欲望や身勝手な情念がどろどろに溶け合ったみたいな……」

 ずん、と思い衝撃を受けた。俺の本性の気って、そんな陰惨なものだったんだ……。

「あんまり恐ろしくて、気を失って、六飛には迷惑をかけちゃって」

 そうか、気を失うくらい恐ろしかったのか、俺の気……って──え? ちょっと待って。

「紅珊、扉を開けて、中のものを見て気を失ったんじゃないの?」

「女の人の酷い遺体があったってことは、あとで(カオ)さんに聞いたわ。六飛がそう報告した、って。血の臭いがすごかったから、そうじゃないかって覚悟はしていたけど……。それとは別に、船倉に下りたときから、怖い感じがあったの。というか、たった今まで恐ろしいモノがいた気配。扉を開けたら、その恐ろしいモノが残した気が襲いかかってきたように感じて、それで、意識がなくなっちゃったの。中のことは、真っ暗だった印象しかない」

 恐ろしいモノが残した気に圧倒されて意識を失った紅珊。その紅珊を抱きとめたあとに腹を裂かれた女の死体を見てあやかしの本性をさらした俺。

 その順序なら……紅珊の感じたヒトじゃないモノの気は、俺のじゃない?

「おかしい、って思ったのはね、その女の人たちは、これまで通り事件を仙狸の子の仕業に見せかけるために殺されたんだろう、って説明を先生に聞いてなの」

 どこがおかしいんだ? そう思った六飛の目を、紅珊の大きな目がのぞき込む。

「なぜ、わざわざ船で殺すの?」

 そりゃあ──口を開こうとして、六飛は唇に拳を当てた。──変だ。

 海賊船は女たちを積んであとは逃げるだけだった。井達開(チンターカイ)はそこを狙って海賊たちを一網打尽にしたわけで。仙狸の子に罪を着せるための殺しなら、陸にいるうちに済まして死体を大通りにでも置いてくればいい。船で殺して街にもどす? そんな手間なことをする意味はない。

「私、船で女の人たちを殺したのは、ヒトじゃない、と思うの」

 紅珊が六飛から目をそらす。

「船倉で感じた恐ろしい気……その持ち主がやったのよ。……本当にいるんだわ、復讐に狂った仙狸の子が」

 違う。俺じゃない。六飛は片手を髪につっこむ。俺じゃない、それは……。

 肌が粟立つように思い出す、宮城の離れで感じたおぞましい気。紅珊が感じたという暗く強い陰の気とそれは……。

「今の話、王衛にはした?」

 紅珊の表情が少し揺らいだ。

「話したけど……。先生は、思い違いじゃないか、って言うの。殺された女の人の怨念が凄まじかったんじゃないか、って。あれは絶対にヒトの気じゃないのに」

 どういうことだ? 六飛は考える。王衛は、俺が仙狸の子だという情報を、肩に貼りついていた式から受け取ったはずだ。紅珊に同調して、殺人は仙狸の子の仕業だったということにして、見つけた仙狸の子を調伏する、とかはないのか? まさか、人外同士のよしみで見逃してくれるつもりか?

「それで、私、六飛に相談しようと思いついて、探したの。六飛って、その……意外と頼りになるところもあったりするじゃない?」

 と、紅珊に早口につけたされ、六飛のぴんと張りつめていた気持ちがふっと緩んだ。紅珊は頬を赤らめ、膝の上でもじもじと指を交差させる。それを見て、どうしたらいいだろうとか、できるとかできないとか、いろいろ絡まっていた思いがするりとほどけた。

 俺は生まれ育ったこの城市(まち)でのんびり幸せに暮らしたい。紅珊や知り合いの子孫かもしれない城市のみんなの笑顔を見ながら。

「……紅珊が前に言ったことが当たりかもしれない」

 きゅっと結んだ唇を、ゆっくりと開く。紅珊が目を瞬かせる。

「私の言ったこと?」

「娘をさらった犯人と、娘を殺した犯人は違う」

 ああ、と紅珊がうなずく。

「さらったのは海賊で……殺したのは、仙狸の子……」

「それ。だけど、殺したのは仙狸の子じゃあない。別のモノだ」

 紅珊が真剣な顔で眉をひそめた。

「別のモノ、って何? 六飛、何か、知っているの?」

 うん。だけど、紅珊、信じないんだよなあ、俺が仙狸の子だ、って言っても。

「この城市に、仙狸の子じゃなくて、ヒトじゃないモノがいる。……王衛、だ」

 紅珊の表情はまったく変わらなかった。六飛は言葉を変えてもう一度言う。

「王衛は、ヒトじゃない」

 長い、重い沈黙のあと、紅珊がようやく口を開く。

「私、真剣に相談しているのよ?」

「俺も真剣だぞ」

 と、返した六飛の顔に平手が飛んできた。反射的によけてしまった。紅珊の頬が真っ赤になる。

「最低!」

 立ち上がり、屋根の上に伸びた枝につかまり、槐の木を降り始める。

 六飛は目を閉じ、舌を打った。そうだよな。そうなるよな。王衛は紅珊の先生で命の恩人で……たぶん、好きなんだ、と思ったらなぜか胸が痛んだ。

 だけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。六飛は屋根から飛び降りた。紅珊が降りようとしている槐の木の下に先回りしたわけだが、すかさず罵声が浴びせられた。

「どいてよ、ばか! 先生が事件の犯人って言いたいの? そんなはずないでしょ?」

「聞いてくれ、紅珊……」

「先生ね、六飛と一緒に労いの席に着くのをとても楽しみにしてらっしゃるのよ。私を助けてくれたお礼をしたいとか、道について語り合いたいとか、どんな味がするのだろうねオスの肝は──って……え?」

 自分の口から滑り出た言葉に驚いたように、紅珊の伸ばした手の動きが鈍った。枝をかすめて何もないところを握った。──落ちる。

 落ちてきた紅珊の体を六飛は両腕で受け止める。踏んばれずに地面に尻をついてしまったのは、六飛も驚いていたからだ。オスの肝の……味?

 女の肝の味なら知っているということか? 俺を調伏するのではなく、喰いたいのか? 決まり、か──王衛で。

 六飛の腕の中で、紅珊は両手で口をおおっている。指の間から、震える声が漏れてくる。

「必ず、連れてくるのだ……あのオスはおまえに好意を持っているようだから、それを利用してもいいかもしれ……」

 声が途切れ、何これ、という言葉は口の中にくぐもる。

 暗示だ。六飛の耳に、宮城の西の庭園の離れで聞いた王衛の柔らかな声がよみがえる。眠る紅珊の心に暗示を刷り込む王衛の声。

 苦い気持ちになったのは、好意を利用して、というくだりのせいだ。じゃあ、紅珊が俺を探してここに来たのも、恥じらうような可愛い仕草も、王衛の命令を無意識に実行していただけだったのかな。

 でも、紅珊の気持ちも大事だが、俺の気持ちだって大事だろう。紅珊を助けたい、という俺の気持ち。

 本当なら意識の底に沈んでいるはずの暗示が浮かび上がってしまったのは、白風子が腕輪の文字に手を加えたために紅珊の自由になるチカラが増しているからなんだろう。──それなら、事件の犯人が何者なのか、間違いなく知る方法がある。

 けれど、心に浮かんだその方法を、六飛はすぐに否定した。危険だ。そんなことをさせられるわけがない、紅珊に。だったら……。

 ぞくり、と体が震えた。だったら、直接ぶつかるしかないか、王衛に、俺が。

 覚悟を決めるのに少し時間が要った。でも、もう紅珊を置いて逃げたくなかった。そんなことをしたら、どこに逃げてもずっと後ろめたいだけだろう。それに、自分だけ助かろうと逃げた先にだって自分より強いナニカがいるかもしれない。弱いあやかしを餌にする妖魔や、ヒトの世にあやかしが紛れることを許さない方士が。

 だったら、ここで踏んばる。踏んばって、あとは心置きなくのんびりと暮らすんだ。

 自分の気持ちを固めるのにいっぱいで、その間、紅珊の様子に注意がいっていなかった。紅珊もまた何かを深く考えていることに。

 腕を押されて、六飛はハッと我に返った。紅珊だった。腕の力を緩めると、紅珊はその場にすっと立って空を見上げた。

「私、犯人を、視る」

 六飛の心に浮かんだのと同じ方法をとろうとしているのだと、すぐにわかった。──死者の想いに同調し、死の瞬間を追体験する。心が弱ければ、命をもっていかれる。

 危険だ、と言おうとした六飛を、紅珊は強い視線で振り返る。

「本当のことを知るのは怖くない。本当のことを知らないと、何もできないもの」

 紅珊は何でもないことのようにそう言ってみせる。

「自分が見鬼だって知らないときは、怖かった。何を見ているのか、どうしたらいいのかわからなくて。わかれば──目標だってできるじゃない」

 立派な方士になって、苦しんでいる霊や霊に苦しめられている人を幸せにしたい。

「大丈夫。三年も修行したもの。送魂の術も習ったもの」

 さっきまで六飛の腕の中で身を縮めていた女の子が、宝石みたいに澄んだ硬質な目で六飛を見ている。

 それが否定してはいけないもののように思えてしまって、六飛はうなずいていた。

「わかった。俺も一緒に行く。月が出るまで待ってくれ」

 

 

 


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