二十一
月が昇った。
昨夜ひとりで訪れた大通りに、六飛は紅珊と立っている。月明かりに青白く透ける娘も、そこにいた。六飛がひとりで見たときは泣いているだけだった娘の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
紅珊を。
すっと息を吸い、紅珊は娘を見つめた。娘も紅珊を見つめる。
不意に、紅珊の目が大きく見開かれた。同時に娘の姿が六飛の視界から消える。六飛はとっさに辺りを見回し、それからあわてて紅珊に目をもどす。
「……いやあ……」
血の気をなくしたその唇から、細い悲鳴がこぼれ、紅珊の体が膝から崩れた。
まずい。六飛は紅珊の体を支えた。紅珊の体はがたがたと震えている。殺された娘が紅珊の中にいる。切り取られた最期の時に閉じ込められて、娘は何度でも殺される。そして、紅珊は娘と同じ恐怖と苦痛を感じる。生きたまま腹を裂かれる恐怖と苦痛を。
こんなにあっさりと紅珊が娘に入られてしまったのは──六飛は歯噛みする──なんでこんな簡単なことに頭が回らなかったんだ。修行で死者の魂を送る術を会得していたとしても、殺される娘の目に映ったのが王衛だったら、それを視てしまったら、紅珊が冷静に術を行えるわけがなかった。取り乱した心は容易く霊のものになる。
紅珊の顔がみるみる白くなっていく。まずい。連れていかれてしまう。早く娘の霊を送ってやらなければ……。
──死んだ人の魂って、どうやって送るの?
自分の声が聞こえた。白風子が繰り返し語った仙が人と世界を分かつ物語。白風子が亡くなった王の魂を送る場面でそうたずねた、まだ幼い自分の声。
実はさほど難しくはないのじゃ。白風子は少し悲し気に六飛に答えた。心を込めて、名を呼んで、安心させてやればよい。
名前。殺された娘の名前は──聞いた。うどん屋のおばさんに。かわいそうに、まだ十五だったよ……ちゃんは。
「……陸佳」
紅珊の体が、ぴくり、と反応した。
白風子は言っていた。心を込めて名前を呼ぶ。簡単なことなのだが、これが存外難しい。同情してはいけない。憐れみも要らぬ。心を平らかにして、ただひたすら死者の安寧を祈るのじゃ。
「怖い……痛い……助けて」
紅珊の唇が、殺された娘の想いを声にする。
「大丈夫だ、陸佳」
六飛は紅珊に憑依した娘を紅珊の体ごとそっと抱きしめ、目を閉じた。気の毒な陸佳。だけど、このままここにいたら、もっと悲しい。
「もう怖くない。痛くない。向こうにいっていいんだ」
大丈夫だ、陸佳。怖かったけれど、もう怖くない。痛かったけれど、もう痛くない。行くべき場所へ、行こう……。
呼びかけを何度重ねただろうか。ふと、紅珊の体が軽くなったように感じて、六飛は閉じていた目を開けた。紅珊を見た。
紅珊はもう震えていなかった。目が六飛の背後を見ていた。
「……行ったわ」
と、紅珊がつぶやいて、六飛は後ろを振り向く。紺色の空に月が明るく輝いている。紅珊の小さな声が耳に届いた。
「あの子、もう行っちゃった」
あの子──陸佳。ほっと全身の力が抜けた。行くべきところに行けたのか。送ることができたのか。
だけど。
「……うっ……」
嗚咽があふれた。紅珊の両手で押さえた口から。
こらえられずに声を上げて泣く紅珊にかける言葉は、六飛にはなかった。何を見たのか、なんて聞くまでもない。
ひどい後悔だけを嚙みしめていた。




