四、帝都帰還
ルイガン侯爵が起こした反乱のあらましは、フェデルマ全土へと伝わっていった。帝国史上に類を見ない裏切りと、国境守備への攻撃は、人々を震撼させた。
領主家が取り潰しとなった旧ルイガン領は、しばらくは皇家の直轄地となり、速やかに地名を改める見通しとなっている。
エリガを発つ皇家の一行に、シンザの姿はない。表向きはまだでも、彼はすでに帝国の盾であり、簡単にイゼルを留守にすることはできない身となった。リューベルトの近衛の職にはジグが再任、イルゴも侍従に戻ることになったので、シンザは憂いなく領主に専念することができる。
旅立ちを見送ることもできないからと、ノルドレンを見舞った日に、シンザはリューベルトたちとの挨拶の時間ももらっていた。一番の懸案が解決されたからといって、道中油断召されるな、と明るく別れを告げたシンザは、最後に義弟と二人だけで話す時間を希望した。
「そうだ。そなたにはまだ、リミカや私の代わりに手を汚してくれたことに、礼を言えていなかったな」
「何言ってるんだ。ルイガンは……俺にとっても仇だったんだ。むしろ悪かったな。俺だけが仇討ちを果たしてしまったよな」
シンザの言葉がそのまま真実ではないことは、リューベルトにはわかっていた。
確かにあの時のシンザにとってルイガンは、ヴィオナとセスと、そしてイゼルの街の仇だった。しかしリューベルトには、こう感じられるだ。あそこでリミカが捕まっておらず、リューベルトがルイガンの首を刎ねる寸前でもなかったなら、シンザの行動はきっと違っていたのだろうと。
「そこまで気遣ってくれる必要はない。素直に礼くらい受け取ってくれ」
リューベルトがふっと苦笑すると、シンザは眉尻を指先で擦っていた。図星を突かれたり、照れた時によくやる仕草だ。
「何にしても、そんなもの必要ない。俺は臣下で帝国騎士だぞ。反逆者を討つのは当たり前のことだ」
「それは道理だが……リミカがあんな行動に出る前に、本当は私が討つべきだったんだ」
「……リミカ様が、ルイガンに痛みを味わわされたことに関しては、そうだったのかもしれないが……お前の手が汚れずに済んだことだけで言えば、俺は良かったと思ってるよ。お前には理想を追い続けてもらいたいからな。誰の血にも汚れていない手のままで、この国を引っ張っていってほしい」
「汚れていない手で——か」
リューベルトは開いた自分の手を眺めた。あの時、はっきりとルイガンに殺意を抱いた。けれどシンザのおかげで、この手はまだきれいなままに残っている。
やや大きな身振りで、シンザが肩を持ち上げた。
「そもそもな、皇家のお前が直接戦う必要はないんだよ。それは俺たち騎士の仕事だ。お前には……その戦いが起きない世をつくるという、他の誰にも担えない役目があるだろう」
「……そうか。私には私の戦い、か」
「二度と戦場に出ない。二度と真剣を交えない。そうなることこそが理想だろう?」
「この北大陸では、夢物語を語るばかりの、軟弱な皇帝だと笑われるだろうがな。父がそうだったように」
「気にするのか?」
「いいや。でも……今は思うんだ。確かに父は外交に関しては甘かったのだろうと。使者を通して理想を聞かせても、これまでの隣国関係では、笑い飛ばされても当然のことだ」
「ディーゼン陛下は国内を変えた。それは大偉業だ」
「ああ。父は、始まりだったんだ。私は私の足で、さらに先へ進むつもりだ」
子どもの頃はただ単純に、父の主張は正しいのだと信じていた。何も考えずに、他の見方をしたこともなかった。
様々な経験を経た今は、紛れもなく自分の意思で、かの理想を引き継ぎたいと思う。自分の考え方で。自分なりのやり方で。
「俺は遠くからになるが、見ているからな。協力できることがあれば、いつでも言え」
「言ったな? いくらでも使ってやるぞ?」
「お前こそ、今の決意を忘れるなよ」
リューベルトとシンザは軽く笑い合ったが、この二人だけの口約束は深く胸に刻まれた。果たせる日は、まだまだ遠くて見えない。見えないけれど、それを歩みを止める理由にすることはない。
真顔に戻ったシンザは、それで本題だが、と切り出した。
「大したことじゃない。わざわざ話すことでもないのかもしれないが、お前も気づいていたんじゃないかと思ってな」
「何の話だ?」
「ルイガンの最期だ」
シンザが何を話そうとしているのか、リューベルトには心当たりがあった。彼もシンザに聞こうか迷っていたのだ。
「あの男は最後の瞬間、リミカ様の行動に驚いていた。捨て身で向かってこられるなんて思わなかったんだろう」
私を押さえつけていた力が、あの時少しだけ緩んだような気がしたの——肘関節を少し痛めただけで無事だったリミカは、そう言っていた。
「驚く以上に……焦っていた。そう見えた。リミカ様のお顔が剣に接近したあの時、ルイガンは」
「剣を引いた。……そう見えたか」
「ああ。お前のことは憎くても、もしかしたらリミカ様のお身体に傷を付けるつもりは、なかったのかもしれないな。ただな、お前に対しても……相討ちを図っていたようにも見えた」
やはりシンザも、そう感じていたか。あとになって思い返した時、ルイガンの動き方は、リューベルトにもそのように思えていたのだ。
ルイガンがリミカのことを解放するつもりでいたのだとしても、リューベルトに剣を突き立てる前に、彼女が逃げられるように力を抜いたのは不自然だと思った。リミカが離れれば、リューベルトは無抵抗をやめるのだから。
ついに皇子に勝利する瞬間に、ルイガンが犯した不覚だったとも解釈できるが、その後縄に掛かる屈辱を免れるために、相討ちに持ち込んでリューベルトの手で死ぬ気だったようにも思える。
「まあ……どちらなのかは永遠にわからないが、あの男の凶行は何ひとつ赦されるものじゃない。もし引っ掛かっていたのなら、もう気にするなと俺が言っておいてやろうと思ったんだ」
リューベルトの小さな気掛かりを取り除こうとした、シンザの気遣いだった。
「ああ……。ありがとう、シンザ。やはりお前は本当に、良い『兄上』だな」
シンザの頬にぐっと変な力が入るのを見て、リューベルトは小さく吹き出した。
彼とはこれ以上、この話はしなかった。
だがリューベルトは、本当はもうひとつの可能性の存在を感じていた。あの時おそらく自分だけが見た、ルイガンの最期の眼差し。あれは、殺したかったのに殺せなかった相手を見る目ではなかった。悲しいような、何かを請うような、そんな目だったのだ。
『……陛下』
リューベルトのことを、ルイガンは二度そう呼んだ。
見間違えての言葉とは思えないのだ。ルイガンはリューベルトの中に、ベネレストを見たかったのではないか。そしてただ一人の敬愛する主君を、あの男が討とうとするだろうか。
相討ちどころか、リューベルトの命も奪う気はなかったのではないか、という可能性。自分一人が死ぬつもりだった、すなわち手打ちにされるよう仕向けていた、という可能性だ。より正確にいうならば、リューベルトの中に見ていたベネレストに、罰せられることを望んでいたのではないか……
——「罰」か。ベネレストに何の罪を贖いたかったのだろう……
リューベルトは目を閉じ、深く呼吸をした。
やめよう、と思った。このことを考えるのは今日で終わりにしよう。今となってはシンザの言う通り、ルイガンの深淵は永遠にわかりはしない。リューベルトはベネレストの代わりでもない。
過去を見つめることも必要だが、今は未来のほうを見据える時だろうと、そう思った。
皇帝一行は、まずはカルツァ伯爵との会談の実現に向かった。ひどく遅れてしまったが、過酷な経験を経たリミカは心からの謝意と慰霊の言葉を表し、カルツァの人々はそれを受け入れた。
その後キュベリー領都ベルスタに立ち寄り、二泊の休息を取った。再び旅路につき数日後、彼らはおよそ一ヶ月ぶりに帝都城に帰還した。
リミカからリューベルトに帝位を移すため、中央会議の貴族たちの説得を進めていたアダンとフレイバルは、さらにひとつの提案をまとめていた。
それは皇家に関する典範であった。その中には、中央会議で承認を得られ、かつ双方が合意した場合、皇帝は皇太子に帝位を譲ることができる、という文言が盛り込まれていた。
「皇太子位が空位の場合は帝位継承権一位のお方に、と付け加えようと思っております」
「これは……私のため……?」
草案を読んでいたリミカは、アダンとフレイバルの顔を交互に見やった。
「これまでは、貴族や市民には法があるのに、皇家だけは慣習に頼り、曖昧にされてきました。年少の方や女性の相続に関しても、はっきりと記しておく時期かと存じます」
「皇家の方々だけがご譲位を許されていないということが、そもそも厳しすぎると考えました」
二人はそう説明した。いずれ典範は作成すべきだとリューベルトも考えていたが、彼らがこれほど急いで案を取りまとめたのは、リミカが帝位を剥奪されるのではなく、先帝の皇太子であった兄に譲位する形を取らせるためであろう。
これが通れば、リミカの名が皇家の汚点のように扱われ、帝国史に不名誉な跡を残すことは避けられる。
「陛下と殿下がご出席なさる次の会議で、この案を議題に上げる予定でおります」
「ありがとう、二人とも……」
リミカとリューベルトは礼を言い、ニ公は恭しく一礼した。
皇家の典範の草案は、大まかな部分ではすぐに承認された。
国の最高権力に関わる重要な法であるので、その後の会議で何度も細かい部分まで議論された。練り直されては元に戻したり、人によって受け取り方に違いが発生しないか、一文字目から最後の一文字まで幾度となく見直され、すべての文章が承認されるまで半年余りかかった。
制定され、公布から即日施行となって程なく、皇帝は元皇太子の兄への譲位を申し出た。中央会議は短い議論の末、これを承認した。
リューベルト・グランエイドの即位が決まった。
「即位式を延期にした?」
とある冬の日。帝都の屋敷から来た遣いの話に、グレッド侯爵家当主シンザは、素っ頓狂な声で聞き返した。
「はい。今は仰々しい式典など行う時ではないと仰せになったそうです」
「はあ……あいつらしいというか」
「それだけではありません。ほとんど帝都城におられないのです。昨年内乱が起き、休戦状態になったものの未だに不満が燻っている地域を、ひとつずつご訪問なさっておられるとか」
「確かに直接対話したいと言っていたが……ニ公のお二人は苦労なさるな……」
「キュベリー様とフレイバル様は、きっと陛下のお考えを尊重されているわ。お二人への厚いご信頼があってこそ、皇帝陛下は帝都を出て、地方を直接ご覧になれるのでしょう」
ナリーの話に頷いていたティノーラは、公示された文書に目を落とすなり、ぱっと花が咲くように笑顔になった。
「あっ、エレリアとの婚約は、やっと公式のものになったのね!」
「本当だな。確かに皇帝が独身で、婚約者も決めていないっていうのは、あんまり良くないからな」
「そうよね。あの陛下の皇后の座が空いていたら、お若いご令嬢たちも、変に色めき立っちゃうしね」
まったくの他人事として婚約者が楽しそうに笑うので、シンザも声を立てて笑ってしまった。
ティノーラ・リエフは、現在イゼル城で暮らしている。結婚に先んじて婚約者の家に入り、その領のことや執務に関する勉強を始める令嬢は、珍しい例ではない。シンザとナリーの負担を少しでも軽くしたいと、ティノーラは両家の合意をもらって、ここに置いてもらっていた。
二男と母親だけになっていたグレッド家は、彼女の存在によって、もとのような明るさを取り戻し始めていた。以前とは変わってしまったけれど、新しい形が生まれつつあった。
「ティノーラ、皆様お元気だったかしら。ノルドレンは帝都へ行かれそうなの?」
エリガに一泊して帰ってきたところだったティノーラに、ナリーが尋ねた。ノルドレンは春までに、ある程度歩けるようにして体裁を整え、年次報告の際にターシャとの結婚許可を申請するのが目標だと、初冬にユリアンネから聞いていたのだ。
「はい! 人の手を借りなくても、杖だけで歩ける距離がずいぶん延びていました。この調子なら春に間に合いそうです」
「そう、良かったわ。申請が通るといいわね」
「お母様なんて、許可をいただけたら、婚約を経ないで婚姻届を出してしまいなさいって言っていました」
「ユリアンネ様、気が早いな……。もうとっくにターシャのことを義娘同然に思っているのはわかるが」
「わたくしは良い案だと思うわ。イェルム伯爵に口を挟まれる隙を作らなくて済むもの」
「……あー、なるほどな。イェルム家を交えないで、国の正式な許可が下りた結婚でリエフ家に入ってしまえば、もう茶々を入れられる暇がないな」
さらには、この先もイェルム家とターシャには一切の親戚関係はない、と暗に示すことにもなる。表向き波風は立たない上に、セルギがリエフ家に接近してくる口実をなくしてしまうのは、ノルドレンとターシャにとって良いことだ。さすがはユリアンネ様だ、とシンザは神妙な面持ちで腕を組んだ。
ターシャと義理の姉妹になれるティノーラはうれしそうだし、ノルドレンの回復も、思っていたよりも早くなりそうな彼らの門出も、本当に喜ばしい。
グランエイド家を皇家として改めて認めてもらうために、国中を奔走している義弟のほうは、まだ心配だが。
「それにしても、即位式をしないんじゃ、帝位はまだ空位ってことになるのか? 各領主の納得が得られるまで即位しない気なのか、あいつは」
シンザがぼやいた言葉は当たっていた。
不安定な休戦状態の土地に直接足を運び、反乱者と領主との三者会談を実現させ、終戦へと導く活動は、容易なものではなかった。
どの地も見過ごすことなく、ひとつひとつを丁寧に成し遂げたリューベルトが、ようやく帝都に腰を据えることができたのは、この二年後のことである。




