ニ、療養
ここのところ毎日の習慣で、ユリアンネはターシャを見舞うために部屋を訪れた。昨夕はまだ顔色も悪く横たわっていたが、今日のターシャは寝台の上で起き上がってユリアンネを迎えた。
「まあ、もう起きていて大丈夫なの?」
「はい。ユリアンネ様にも皆様にも……多大なご心配と、ご迷惑をおかけしてしまって……。早く治して、お仕事に復帰します」
「早い復帰を目指してくれるのはうれしいけれど、無理はしないで。身体の回復を充分にしてからよ。手首の傷だって、軽いものではなかったでしょう」
「は……はい……」
ターシャが視線を落とした。右の手は落ち着きなく、左手首の包帯の上に置かれた。
「あ、あの、ユリアンネ様……私、お詫び申し上げなければ、いけないことが……」
「どうしたの?」
「今日知ったのですが……ユリアンネ様がくださった腕輪を……台無しにしてしまって……いたのです」
心から申し訳なさそうに、ますます華奢になってしまった肩を縮こめたターシャを、ユリアンネは目を丸くして眺めていた。予想外の彼女の謝罪にびっくりしていた。
「お詫びをする必要なんて、あるわけがないでしょう。ティノーラは、あの腕輪があなたの左手の身代わりになったと言っていたもの。突っ支いになったのは偶然とはいえ、その時身に付けてくれていて本当に良かったと思っていたのよ」
「た、大切だったので……いつも付けていて……」
「また買いに行きましょうね。……あ、いいえ、ノルドレンに買わせたほうがいいかしらね。命の恩人なのだもの。ひとつと言わず、ねだるといいわ」
ふふっと笑うユリアンネに、ターシャは人が変わったように詰め寄った。
「ノ、ノルドレン様はっ……お怪我は……お身体の具合は……いかがなのですか」
「熱を出すことはなくなって安定しているわ。脚も生きてる。まだまだ動ける身体ではないけれど、体力を戻そうとして、それはよく食べているわよ」
「そう……ですか……。よ、良かった……」
ターシャがあまりにも安らいだ顔をするので、ユリアンネは彼女がもう少し回復するまで黙っておくことにした。医師からは、ノルドレンの左脚はもう動かないかもしれない、と言われたことを。
「ターシャ、改めてお礼を言わせてちょうだい。ノルドレンの命を救ってくれて、本当にありがとう。母親として……言い表せないくらい感謝しているわ」
「い、いいえ、お礼なんて……! 本当は、私一人で行くなんて、きっと……間違っていたんです。もしかしたら、ノルドレン様を……より危険な目に……」
「違うわよ。確かにあなたはとても危険なことをしたわ。でもその無謀が、あの子を救ったの」
あの夜、厩務員はターシャが提案した通り、デューの件をユリアンネと騎士団長に即座に報告した。
ユリアンネたちは厩舎へ急いだのだが、デューはいなくなっていた。興奮が収まらず、脱走してしまったのだと思った。すでにレグスの丘で戦が勃発し、激化しているかもしれないという事態の深刻さに、ターシャまで城の中からいなくなっていたことには気づけなかった。
ユリアンネたちは、明朝の出陣を決めた。視界のきかない夜間は、レグスも休戦しているはずである。ノルドレンの怪我は心配されていた。グレッド家が苦戦を強いられている可能性も大きな懸念だった。
それでも、最低限の支度さえ与えず、騎士団に真夜中の出立を強行させることはできなかった。当時の状況下で下したその判断は、リエフの騎士団員の命を預かる者として正しかったと、今でも思っている。
けれどその正しい判断では、ノルドレンの命をすくい上げることはできなかった。もしターシャが残ってデューの気持ちを代弁していたとしても、ノルドレンはレグスの丘にいると思われていたあの時点では、明朝出立の決断を変えなかっただろう。
ノルドレンの居場所と状況を伝えに、レマが一人でエリガに駆け込んできた夜明け前、騎士団員はちょうど出陣準備を終えたところだった。
「ターシャがデューを信じて行ってくれたおかげよ。あなたの素早い止血がなければ、ノルドレンは助からなかった」
雨に打たれて傷の出血は止まらず、体温も奪われて、闇の中で一人で死んでゆく息子を想像すると、ユリアンネは凍えるほどの寒気に襲われる。
「私より……デューがすごいんです。ノルドレン様とデューの、絆の強さの……おかげです」
「ええ。デューにもたくさんお礼をしたわ」
なおも遠慮がちなターシャに、ユリアンネは目を細めた。この儚げな身体で魔獣にも立ち向かっていたというのに、ターシャはその行動を当たり前だと言ってしまう。ノルドレンの回復具合を一番に心配してくれる。
先日、彼女より少しだけ先に目を覚ましたノルドレンは、なかなか顔を見せないターシャのことをティノーラに訊ねた。彼女が病床にあることとその経緯を知るや、ひどく狼狽えていた。自分の左脚の感覚がほとんどないことに気づいた時よりも、青ざめて動揺していた。
こんなにも互いを思いやる二人なのに、貴族と平民では主従の境界を越えられることはない。できるのは、そっとそばで生きていくことだけである。
もしもターシャがイェルム家を出されていなければ、婚約の打診も可能だった。しかしイェルム家に留まっていたならば、そもそもリエフ家で雇うことにはならず、二人は親しくもならなかったのだろう。
この運命の皮肉に、ユリアンネの親心は切なく痛み、何もしてやれない無力感に苦しくなるのだ。
合同葬への参列を機に、リューベルトとリミカは、滞在地をイゼルからエリガに移すことにした。
リューベルトの傷も少々治りにくいものだったが、リミカのほうが問題だった。過酷な監禁生活で衰弱した彼女に、旅路に耐えられる体力が戻るまで、帝都へ出発することはできない。それに加えて彼女には、精神面に受けた打撃による落ち込みが見られた。助けてくれたヴィオナとセスの死が、もっとも堪えたようだった。
グレッドの密葬の日も、翌日も、リミカは何度も墓へ祈りに行った。それ以外では、宿泊している部屋の窓から、復興工事に勤しむイゼルの街を眺めてばかりいた。
あの襲撃の夜、私が顔を見せなければ、この街はルイガンに門をくぐられることはなかった。あんなに焼かれることもなかった。ヴィオナさんとセスは、きっと犠牲にならずに済んだ。私が、自分とレナイの命を優先したせいで——
リミカはそう自身を責めていた。
「それは違います、陛下。ルイガンとグレッドには、夫が当主であった昔から、少なからぬ因縁がございました。他のどんな手段を用いても、ルイガンは必ずイゼルを攻撃する心積もりだったことでしょう」
懺悔するように謝罪するリミカに、ナリーは優しく諭した。誘拐され、脅されていた少女を責める気持ちなど、誰の胸にもありはしなかった。
リミカの心の回復にイゼルは適さないかもしれないと、提言したのはナリーだ。リューベルトもそう感じていた。今のリミカが移動できる距離と安全性を考慮して、グレッド領内の町ではなく、エリガでの滞在をユリアンネに依頼した。彼女は快く迎え入れてくれた。
エリガの周辺は、リミカが見たことのない景色にあふれている。リューベルトはジグを近衛に、城壁の外へも妹を連れ出した。段畑や牧場、チーズ工房の見学、そして素朴な気質の人々とのふれあいは、イゼル復興の邪魔をしないようにと城内に籠っていた時よりも、リミカの表情を少しずつほぐし始めた。
幾日か経って、アダンとエレリアが訪ねてきた。
アダンから、ひとつ無念な報せがもたらされた。帰領するはずだったルイガンに同行していた役人たちが、遺体で発見されたのだそうだ。
ジェブロは素直に聴取に応じ、過去のことも今回のことも、すべて明らかにしているという。暗殺事件や反乱はルイガン家のみで起こされていた、そう確定して問題なさそうだった。
アダンの訪問目的は、今回の件によるグレッド家とリエフ家の被害の把握と、必要な支援の聞き取りだが、もちろん見舞いでもあった。
ちょうど仕事復帰に向けて動き始めたところだったターシャは、エレリアの前に笑顔で現れた。まだ痩せてしまった分が戻っていないようだったが、エレリアが心配したよりも元気に回復してくれていた。
この時に初めてリミカとターシャが対面した。これまではリューベルトが、床に伏せる女性の私室に入るわけにはいかず、面会をしていなかったのだ。
翌日城の外で、子どもをたくさん連れた女性とターシャを見かけたリミカは、何をしているのかしらと兄やエレリアに尋ねた。
「おそらく、養護院の子どもたちに会いに行っていたのだろう」
「ご一緒なのは院長のアイダさんですから、きっとそうですわ。ターシャはノルドレン様の補佐官の他に、時間があれば養護院の先生もしておりますから」
「そうだったの……」
「せっかくだ。今日は養護院を見させてもらおう」
帝都にある孤児院への慰問もしたことがなかったリミカは、初めこそ子どもたちの遠慮のない、有り余る元気に面食らった。赤子のような子から、自分と同じくらいの子どもたちの共同生活に、戸惑いも覚えていたようだ。
しかし程なく、一緒になって遊び始めていた。ターシャとアイダが慌ててしまったくらいだった。
「リミカ様、とても自然に笑ってらっしゃいますわ」
「ああ。あの子は……もともとああいう子だ」
次は文字を教え始めたリミカを見守るリューベルトとエレリアは、安堵の気持ちを共有していた。
長々と滞在する暇はないアダンは、二つの領の視察を終えて、帝都への帰途につくことになった。エレリアも一緒である。
あと数日療養する予定のリミカは、話を聞いてほしいと、アダンとエレリアに声をかけた。
「私から、帝位を剥奪してほしいの」
リューベルトを含めた三人の前で、彼女は単刀直入に言った。日中は別行動を取っていて、リミカの様子をあまり見られていないアダンが一番驚いていた。
「ど、どうなさったのです、陛下」
「私ではだめ。お兄様が相応しいわ」
リミカの顔は、イゼルにいた時のように暗くふさぎ込んではいない。はっきりと意思を持った目をしている。破れかぶれの言葉ではないのだ。
「私はイゼルの襲撃に手を貸してしまった。国の要衝を陥落の危機にさらしてしまったの。そんな私が皇帝であり続けるべきではないわ」
「それは、陛下だけの責任ではございません。ルイガンに反乱の隙を与えた、我ら全員の責任です」
「……ありがとう、アダン様。でも、お兄様が私の立場だったなら、きっと違う結果にしていたはずよ」
兄ならきっとイゼルの門を開けさせなかった。どこかの地点で脱出していたのではないか。そもそもクィルバから連れ出されていなかっただろうと、リミカには確信が持てた。
「こんな私が帝位に居座ることに、納得しない家臣たちも多いでしょう。きっと一般の民の間でも同じ。その不満はもっともだもの。皇家の信頼をこれ以上失くしてはいけないわ」
しかし一度即位した皇帝は、生涯その座から降りられない。だからリミカは、剥奪を頼むしかないのだ。帝国史の中にそのような事例はなかったが、他国にならある。代わってリューベルトが皇帝となることに、家臣の反対も少ないと考えていた。
リミカは兄に向き合った。
「人が人を殺すことのない国……とても素晴らしいと思う。お父様とお母様もきっと実現を望んでいるわ。でも私は、その時の皇帝であるべきじゃない……。私はルイガンを、殺そうとしたのだから」
「リミカ……それなら私も同じなんだよ。私も最後の瞬間、ルイガンを手にかけようとしていた」
「あれは、私を助けるために、やむ無くだったじゃない。本当は捕らえたかったと、今でも思っているんでしょう?」
「それは——」
リミカは目を瞑ると、心の深層を告白した。
「私は……違うの。シンザさんがあそこに現れて、討ってくれて良かったと……思っているの。もうあの男がこの世界にいないことに、心底ほっとしているのよ。少しの後悔もないの」
部屋の中が静まった。
リミカがそう感じていることに対して、誰にも非難の気持ちは湧いていない。
ただ彼女とリューベルトには、大きな違いがあったということだ。これから国を変えていく先導者として、その根本に大きな違いが。
「だから新しいフェデルマの皇帝は、お兄様であるべきなの。荒らしておいて逃げ出すなんて、申し訳ないけれど……」
妹にかけてやるべき言葉が、リューベルトには見つからなかった。
七歳だったリミカが帝位に就いたのは、彼女にとって不可抗力だったが、グランエイドである以上、もちろんその責任を負う義務がある。しかしリミカが皇帝としてこの国の未来を想った時、帝位剥奪の汚名を歴史に刻ませて退く道を選ぶとは、たった一人の家族として容易に首を縦に振れることではない。
しかしリミカが心配するのは、帝国が続く限り自らが被ることになる不名誉などではなかった。
「ごめんなさい、お兄様。もしかしたらお兄様は、妹から帝位を奪った兄皇子、なんて誤解をされてしまうかもしれないわ。内情を知る家臣たちはともかく、帝都から遠い町の人や、他国の人には、詳しいことなんて伝わらないでしょう」
「そんなもの……どうでもいい。少しも気にしなくていい」
リミカはエレリアにも謝った。エレリアはこれまで、皇家とルイガンの争いにさんざんに巻き込まれてきた人だ。
「いいえ、わたくしのことなど——」
エレリアは涙ぐんでいた。
まだ正式な婚約を結んでいない段階だが、リミカは彼女が兄の皇后になってくれると信じていた。




