怒声の真意
鳴海は、なんだかんだ言ってとても強い人間だった。
普段は頼りがいがないただのヘタレだけれど、本当はあたしよりずっと大人。
エハラアズマの一件から、さらに強くなった気がする。
自殺屋、と言うだけあって、たくさんの自殺志願者を見てきた。
実際に、自殺を手伝った例も数知れず。泣きながら死んでいく者、謝りながら死んでいく者、喜びながら死んでいく者、たくさんたくさん見てきた。
けれど鳴海は、あたしたちには直接手を下させない。
なんだかんだ、一人で全て遂行してしまう。
あたしたちは鳴海の後ろから、鳴海に護られていた。
甘い人間。
言ってしまえば、本当に甘っちょろい人間だった。
普段へらへら笑っているだけに、あたしたちも深くは入り込めない。
辛いくせに。
辛くて仕方がないくせに。
あたしたちばかりが護られ、あたしたちばかりが与えられている。
それが本当に、嫌だった。
*
「今からでも…断って、いいんだぞ」
帰ってきたあたしを出迎えた鳴海が、しかめっ面であたしの顔を見ていた。
どうやらあたしが出て行ってから、ずっと玄関で待っていたようだ。
壁に寄りかかり、腕を組み、あたしを見下ろす鳴海。
あたしは、途端に顔をそらした。
「この件は、完全に自殺屋の出る幕じゃない。本人の依頼でない時点で、彼女が頼むべき相手は”殺し屋”の方だ」
鳴海の声が、少し震えている。
あたしが黙っていると、鳴海の手があたしの肩に乗った。
「お前が何を焦ってるのか、俺にはよくわかってねェけど…勝手な行動、すんじゃねェよ。お前が出しゃばるところじゃねェんだよ、この件」
口調が荒くなっている、これは鳴海が怒ってる時の口調だ。
やはり、怒っている―――けれど。
あたしだって、譲れない。
「ナルは、あたしたちを家族と言うけれど、それにしては随分と壁を作るんだね」
「あ…?」
「あたしたちがまだ子供だから、護ってあげなきゃって思うの?それって、あたしたちの気持ちは置いてけぼりじゃん」
「おい、潤」
「全部を言えだなんて、言わないよ。誰だって秘密にしたいことはある、あたしだってある。けど、独りよがりな自己犠牲は―――正直、癪に障る」
肩に乗っていた手を振り払うと、あたしは再び外へ駈け出した。
鳴海の顔は、見れなかった。
心臓が、落ち着かない。
頭が真っ白になり、目頭が熱くなる。
ああ、あんな言い方。
どうしてあたしの口は、素直に動かないんだろう。
―――少しは頼ってよ。
言いたかったことは、こんなにシンプルで簡単な言葉なのに。
*
ポケットの中に入っている、粉末―――殺すための、毒。
粉末自体は軽いのに、なんだか重く感じた。
この期に及んで、まだあたしは逃げようとしている。決心したはず、なのに。
あたしは未だに、生死に無関係な”何も知らない人間”のままでいたいらしい。
落ち着かない胸に手を当て、深呼吸する。
真っ白な頭に、無理矢理”やらなければならないこと”を刻む。
あたしは、自殺屋の従業員。
人の死を、手伝う仕事をする人間。
人の死に怖がって、どうする。
大きな病院を見上げ、あたしは息を吐いた。
―――
病室に入り、再びベッドに横たわるちよさんに挨拶をした。
「さっきは飛び出してしまって、ごめんなさい」
そうやって謝れば、ちよさんはなんでもないように笑う。
「それより、お嬢ちゃん。名前は、なんだったかしら…?」
「潤です。潤うって書いて、ジュン」
「ああ、そうそう。悪いわねぇ、最近よく、人の名前がわからなくなってしまって」
「いえ」
他愛のない話、心が幾分か穏やかになる。
さっきまで動揺していた心が、今は元通り。
今なら、きっと―――
「ちよさん。さっき、看護婦さんからお薬を預かったんです。水に溶かして飲むお薬。苦しさが紛れるくらい、よく効くらしいですよ。今、用意しますね」
あたしは機械的に言葉を並べながら、近くのコップに水を汲む。
ちよさんは、しわくちゃな顔で微笑みながら「そうかい、わざわざ悪いねえ」と言った。
ポケットから、薬を取り出す。
手に汗が滲み、あたしの心臓は再び暴れだした。
さらさら、とコップの水に薬を入れると、薬は一瞬にして溶け、跡形もなく消えた。
震える手で、コップを持つ。
「ちよさん、できましたよ」
笑う必要はない。いつも通り、無表情のまま。
あくまで、平然に。
「ありがとうね」
やめて、そんな目で見ないで。
あたしは、今からあなたを殺す。
だから、やめて。
お願い、こっちを見ないで。
「いえ、どういたしまして」
うまく動かない口を、必死に動かす。
早く、飲んでしまえ。
そうすれば、こんな思いはもうしなくて済む。
鳴海は、すごい。
自殺屋として”仕事をこなしていた”とき、平然としていた。
それなのに、いつもこんなぐちゃぐちゃな思いを抱えていたんだ。
人を死なす罪悪感、人の命を見届ける切なさ、直接手を下す気持ち悪さ、その人間を消す恐怖。
いろんな感情が入り混じって、眩暈がしそう。
早く。
早く、飲んで。
「―――ごめんねぇ」
心臓が、止まるかと思った。
「こんなこと、させて…ごめんねぇ」
「―――ッ!?」
な、に。
もしかして。
もしかして、この人は。
ちよさんが、コップに口をつける。
「あ…」
今なら、間に合う。そう思っても、体が硬直して動かない。
この人は、わかっていた。
あたしがちよさんを殺そうとして、毎日毎日お見舞いに見せかけて、ここに来ていたことを。
この人は、全て、わかっていたんだ。
声が、出ない。
と、止めなきゃ。
やだ、待って。
ちよさんが、毒を。
毒を飲んでしまう。
待ってよ。
お願い、待って。
死なないで―――
「はい、ストーップ」
大きな手が私を通り過ぎ、ちよさんの持つコップが傾くのを止めていた。
あたしの聞き慣れた声が、背後からちよさんに言う。
「いやあ、ごめんなさいね。この薬、間違いだったみたいで。すぐに新しいの用意させますんで、それ飲まないでくださいね」
軽快に笑って、コップを受け取る背後の人物。
あたしは、振り返ることができなかった。
ちよさんは少し躊躇ったものの、素直にコップを手放した。
背後では、息を切らしている人間。
急いで、走ってきたのだろうか。
「あなたは、どちらさま?」
「ああ、申し遅れました。僕はこの子の保護者で、鳴海といいます」
「あら、そうなの?かっこいいわねぇ」
「あ、よく言われますー」
そう言って笑った鳴海は、あたしの右手を握った。
「それじゃ、僕たちは帰ります。ドタバタしてすみませんでした、さよなら」
「はい、さようなら」
くいっと右手を引かれ、あたしは引っ張られるように病室を出た。
足の震えが、止まらない。
殺せなかった。
殺せなかった、はずなのに。
あたしは、とてもほっとしていた。
病院の外まで出ると、鳴海が急に振り返った。
パンッと乾いた音が、周囲に響く。
じぃん、と左頬が熱くなり、数秒遅れてあたしは頬を叩かれたのだと気付いた。
足がもともとふらついていたため、地面に座り込んでしまった。
「―――てめェはッ!!救いようのねェ馬鹿だな、おい!!」
途端に降り注がれる怒声に、身がすくむ。
こんな鳴海の怒った声、聞いたことない。
「てめェが何を焦って、何を思って、何をしたくてこんなことしたのか、俺は全く知らねェし、詮索もしねェ。けどな、」
ああ、あたし。
こんなに、鳴海を怒らせた。
「―――人の命は、てめェの覚悟を決めるための道具じゃねェぞッ」
鳴海の怒鳴り声で、あたしは気付いた。
あたしは、ちよさんの命を、道具にした。
自分が自殺屋として生きていく、覚悟を構築するための、道具。
そのためだけに、殺そうとした。依頼を受けたのは、その口実。
あたしは、誰のことも考えていなかった。
ただ、自分のことだけ。
自分の覚悟が固まることだけ。
それしか、頭になかった。
鳴海は、息を二度三度整えると、あたしと同じように、崩れ落ちるように地面に座り込んだ。
「…間に合って、よかったぁ」
心底、気が抜けたような声だった。
「ごめん」
「いいよ、間に合ったんだし」
鳴海の声は、優しかった。
いつものように、優しかった。
「帰ろっか」
そう言った鳴海は、無駄に綺麗な顔で、無駄に優しく笑った。
*
その数日後、ちよさんの娘である女性から連絡が来た。
ちよさんが亡くなった、と。
体調が、突然悪化したそうだ。
最善を尽くしたようだったが、ちよさんの体がもたなかった。
自殺屋としての仕事は、失敗してしまったわけだけれど、女性からは失敗に対しての怒りはなく、むしろお礼を言われた。
息を引き取る直前、ちよさんは笑って言ったそうだ。
“私は、幸せ者だよ。こんなに娘に愛されて、看取られて逝くことができるんだ”
あのとき、失敗してもらってよかった。看取るのは辛かったけれど、母の笑顔を最期まで見届けることができて、本当によかった。と、そう言われた。
思い浮かぶのは、ちよさんの笑顔。
しわくちゃで、どうも弱弱しい笑顔であるのに、そこには何とも言えない美しさと強さがあった。
「ああ、あと伝言。ちよさんから、らしい」
「ん」
「”毎日来てくれて、ありがとう。お嬢ちゃんと話すのが私の楽しみでした”だってさ」
鳴海はそこまで言うと、私の寝ころぶソファーの、向かいのソファーに腰を下ろした。
「ちよさんの家族の俺たちに関する記憶は消え、俺たちの存在はすっかりなくなった。今や、娘さんの記憶の中には、”自分の母を殺すように依頼した”という事実はない。ということで、罪悪感もすっかりなく、新しい生活に入ったわけだが……」
暫く、沈黙が流れた。
「潤」
「んー」
「頬、大丈夫か」
あたしの左頬は、少しだけ腫れていた。
一応湿布は貼ってあるが、喋れば痛みはある。
鳴海は、頬のことをかなり気にしていた。
頬の腫れを見るたびに、眉を下げ、困惑の表情を見せる。
「へーき」
「ごめんな、嫁入り前なのに」
こうやって、謝れてしまうんだ。
あれだけ怒っていたのに、鳴海は素直に謝罪できてしまう。
言いたいことが言えないあたしとは、大違い。
やはりあたしは、まだまだ子供なんだろうか。
あたしがこんなだから、鳴海はあたしたちをまだ護ろうとするのだろうか。
あたしは、鳴海に視線を向けなかった。
あくまで天井を見ながら、呟くように言った。
「…こっちこそ」
「え?」
「こっちこそ、ごめん」
鳴海が、息を呑んだのがわかった。
逆に謝られるとは、思ってなかったのだろう。
「”独りよがりの自己犠牲”だなんて、思ってない」
「ああ、そのこと?もういいよ、気にしてない」
へらっと笑う鳴海。
気にしてないなんて、嘘。
傷ついてたくせに。
これを言ったら鳴海が傷つくの、わかっていて言ったんだ。
「ナル」
「ん?」
「……それでも、あたしも自殺屋の一員だよ。いつまでも、ナルに護られていられない」
ああ、幾分か言葉がすらすらと出る。
あたしは言い終えてから、ちらっと鳴海を見た。
鳴海はこちらを見て、笑っていた。
「潤」
「なに」
「それでも、俺はお前らが大切なんだ。できる限りは、護ってやりたいって思う」
そうやって、"大切"だからとこんなに真っ直ぐ言われてしまえば、何も言えないじゃあないか。
それがわかって言っている鳴海は、本当に卑怯だ。
「…分からず屋」
「どっちがだよ」
それから、あたしたちは同時に噴き出し、笑った。
「人の生死に直接触れる。そんな酷なこと、お前らはまだしなくていいよ」
「ナルのばぁーか」
*
駅前近くのマンションの一室。
キーボードを叩く音だけが、その部屋に響く。
その部屋は、一言で言えば普通ではなかった。
壁一面に、画面が張り巡らされていた。
大きい画面から、小さい画面まで。数にしておよそ、百前後。
全てに電源が入れられ、起動している状態にある。
その部屋の中心では、部屋一番の大きな画面に、一人の青年が向き合っていた。
青年はヘッドホンをし、大きな画面を一心に見ていた。
ころころとマウスをスクロールし、ずらした眼鏡を直した青年―――花菱は、笑った。
「ほっほう、これはこれは…」
花菱の視線の先には、一つの掲示板。
そこには、”あるはずのない”情報が載っていた。
「なかなか、粋なことするじゃないの」
あるはずのない情報―――それは、自殺屋についてのことである。
自殺屋のサイトには、”ある仕掛け”がしてある。
必要のない人間には絶対に、そのサイトを見つけることができない仕掛け。
そして、そのサイトを万が一見つけても、自殺をするという意思がなくなり、再び生きる選択肢をとれば、そのサイトの存在自体を綺麗に忘れるという仕掛け。
ネットから、自殺屋の情報が漏れることはない。
自殺屋で掲げられる絶対的な“規約”によって、自殺屋に関わった人間の記憶は消すことになっているため、依頼主から漏れることも絶対にない。
そのため、自殺屋は今も全く知られることなく存在していた。
「―――はず、なのにね」
とりあえず、消しておいてあげよう。
閲覧数を見てみると、幸いにも多くはない。五分もあれば、全てを消しに行ける。
記録を全て辿って、消しに行こう。
花菱はヘッドホンを外し、ポケットから携帯電話を取り出した。
コールを鳴らすと、暫くして繋がる。
「もしもしー?」
〈…〉
「あれ、榊?聞こえてますかー?」
〈…〉
「ねーぇ、さっかきぃ?」
〈三秒以内に要件を言え、でないと切る〉
「わお、もしもしの応答もくれず、相変わらずの理不尽ッ」
花菱の突込みの間に、ぶつッと耳元で音が聞こえた。
「ほ、本当に切りやがった…」
再びコールをかけ、繋がったと同時に要件を切り出した。
「―――ってわけなんだけどさぁ。これって、結構な緊急事態だと思わない?」
〈二件目〉
「んー?」
榊が、電話越しにため息をついた。
〈鳴海んとこに依頼に来てた女が、以前、そんなようなこと言っていた。その女が見つけたって言う掲示板には、とりあえず”仕掛け”を施しておいたんだが…また、か〉
「ああ、なんだ。もう知ってたんだ」
〈とりあえず、な〉
榊の面倒くさそうな声、なかなか困り果てているようだ。
これ以上広められたら、”処理”が困る。そう言っているようだった。
この一件の犯人は、自殺屋を知る者。
まず疑うべきは、自殺屋の従業員。
けれど、花菱の脳内には、もう一つ―――可能性が存在した。
「きな臭くなってきた」
〈あん?〉
「犯人の話。大きく疑うべきは、自殺屋従業員。当たり前だよね、これが一番ありうる」
〈まあな〉
「けれど、もう一つ、可能性をあげてみることにしよう。これが、可能性は少ないが、最も厄介で、最悪なパターン」
花菱は、ほぼ確信していた。
携帯を持つ手と逆の、右手で操作していた手が止まる。
花菱は画面を見て、苦笑した。
可能性を前提として、追跡してみた結果だった。
画面には、一つの会員制のサイトがあった。なかなか防御が固く、短時間では入り込めそうにない。けれど、この"頑丈な防御"は、いわば大事な何かを護る"宝箱"というわけである。
つまりこの先に、"何か"がある。
「自殺屋を潰そうとしている、組織がある」