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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第137話 街がこちらへ手を伸ばす

 アステルの奥へ進むほど、街の空気は“こちらを見ているだけ”では済まなくなってきた。


 最初に変わったのは、足元だった。

地面がわずかに温度を変えた。

冷たさが引き、ほんの少しだけ温かくなる。

それは、誰かがそこに立っていたときの体温が、地面に染み込んだまま残っているような温度だった。


 リーナは驚いて足を止めた。


「……地面、あったかいです」


「温度を真似しているんだ。アステルは、人の体温を“思い出す”ことがある」


「思い出すって……街が?」


「この街は、人の存在を忘れられない」


 地面の温度は、リーナが立つ位置に合わせてゆっくり変わり、まるで誰かがそこに立っていた時間を再現しているようだった。


(……誰かがここで、立ち止まってたんだ)


 さらに進むと、道の両側に並ぶ建物の壁が“呼びかけるように”わずかに傾いた。

倒れるわけではない。

ただ、リーナの方へ向かって角度を変える。

まるで、そこにいた誰かが「こっちだよ」と手招きしたときの姿勢を真似しているようだった。


 リーナは思わず後ずさった。


「……壁が、こっち向いてます」


「向いているわけではない。ただ、アステルが“案内するという行為”を再現している」


「案内……?」


「人がここで誰かを導いた記憶が残っているんだ」


 壁は静かに角度を戻し、またゆっくりとリーナの進む方向へ傾いた。


(……誰かがここで、誰かを連れて歩いたんだ)


 さらに奥へ進むと、街の空気が“言葉にならない声”を形にし始めた。

今までの残響とは違う。

空気がリーナの耳元でわずかに震え、その震えが、誰かの息遣いの形を作る。


 リーナは息を呑んだ。


「……今、誰かが……何か言いました?」


「言ってはいない。ただ、アステルが“声を出すという行為”を模倣している」


「でも、聞こえました……」


「それは、街が君を認識した証拠だ」


 空気の震えは、リーナの耳元で一度だけ強くなり、すぐに消えた。


(……誰かが、私に話しかけようとしたみたい)


 さらに進むと、道の中央に置かれた古い街灯が、リーナが近づいた瞬間だけ光を帯びた。

電気は通っていないはずなのに、街灯の内部が淡く明るくなる。


 リーナは驚いて街灯に触れた。


「……光ってます……?」


「光っているわけではない。アステルが“照らすという行為”を思い出している」


「照らす……誰を?」


「ここを歩いた誰かだ」


 街灯の光は、リーナの手に触れた瞬間だけ強くなり、まるで「見つけた」と言うように静かに揺れた。


(……誰かがここで、誰かを照らしたんだ)


 そして、道の先で“街の空気が一度だけ跳ねた”。

跳ねたというより、街そのものがリーナの存在に反応して、ほんの少しだけ形を変えた。


 リーナは胸の奥の欠片が強く脈打つのを感じた。


「……街が、私に……何かしてます」


「しているんじゃない。君を“受け入れ始めた”んだ」


「受け入れる……?」


「ここから先は、痕跡じゃなく“街との対話”になる」


 リーナは息を飲んだ。

胸の欠片は、街の脈と完全に一致している。


 アステルは、ただ過去を抱えているだけの街ではなかった。

今、確かにリーナへ向かって“手を伸ばし始めている”。

その手は、街の奥からゆっくりと近づいてきていた。


 アステルの奥へ進むほど、街の反応は“痕跡”ではなく“意志”に近づいていった。


 最初に変わったのは、空気の触れ方だった。

さっきまでただ揺れていただけの空気が、今度はリーナの肩にそっと触れるように寄ってきた。

風ではない。

温度もない。

ただ、誰かが「大丈夫」と言うように、優しく肩に手を置くような感触だった。


 リーナは驚いて肩を押さえた。


「……今、触れましたよね」


「触れたわけではない。アステルが“安心させるという行為”を再現しただけだ」


「安心……?」


「ここで誰かが、誰かを励ました記憶が残っている」


 リーナの肩に残った感触は、ほんの少しだけ温かかった。


(……誰かがここで、誰かを支えたんだ)


 さらに進むと、道の中央に並ぶ石畳が、リーナの歩く速度に合わせてわずかに位置を変えた。

ずれるのではなく、“歩きやすいように整える”ような動きだった。


 リーナは思わず足を止めた。


「……道が、歩きやすくしてくれてます」


「しているんじゃない。アステルが“同行するという行為”を思い出している」


「同行……?」


「誰かが誰かと一緒に歩いた記憶だ」


 石畳はリーナの足元で静かに落ち着き、次の一歩を待つように沈黙した。


(……誰かがここで、誰かと並んで歩いたんだ)


 さらに奥へ進むと、建物の影がゆっくりと形を変えた。

影は本来、光の向きに従うはずなのに、今はリーナの後ろへ寄り添うように伸びてくる。

まるで、誰かが後ろからそっとついてきているような距離感だった。


 リーナは背中を押さえた。


「……影が、ついてきます」


「ついてきているわけではない。アステルが“寄り添うという行為”を模倣している」


「寄り添う……」


「この街には、誰かの優しさが残っている」


 影はリーナの足元で静かに揺れ、まるで「一人じゃない」と言うように形を整えた。


(……誰かがここで、誰かのそばにいたんだ)


 さらに進むと、街の奥から“呼びかけの気配”が届いた。

声ではない。

音でもない。

ただ、胸の奥がふっと引かれるような、誰かが名前を呼んだときのような感覚だった。


 リーナは胸に手を当てた。


「……呼ばれた気がします」


「呼ばれたわけではない。アステルが“名前を呼ぶという行為”を思い出しただけだ」


「でも……確かに感じました」


「それは、街が君を“個人として認識した”証拠だ」


 胸の欠片が強く脈打ち、その脈は街の奥から届く気配と完全に一致していた。


(……誰かがここで、誰かの名前を呼んだんだ)


 そして、道の先で“街の空気が一度だけ震えた”。

震えたというより、街そのものがリーナへ向かって「来てほしい」と言うように形を変えた。


 リーナは息を呑んだ。


「……街が、私を……呼んでます」


「呼んでいるんじゃない。君を“必要としている”んだ」


「必要……?」


「ここから先は、街の記憶ではなく“街の選択”になる」


 リーナは胸の奥の欠片が熱くなるのを感じた。

その熱は、街の奥から届く気配と完全に重なっていた。


 アステルは、ただ過去を抱えているだけの街ではなかった。

今、確かにリーナを選び、彼女へ向かって歩み寄ろうとしている。

その気配は、街の中心からゆっくりと近づいてきていた。

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