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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第129話 境界の縁に触れる

 空気の層が沈んだ場所を越えると、道の質感がまた変わった。

さっきまで均一だった地面は、今度は“柔らかい硬さ”を持っている。

踏むと確かに硬いのに、足を離したあとでわずかに形が戻る。

まるで地面が呼吸しているような、奇妙な弾力だった。


 リーナはその弾力に気づき、足を止めて地面をそっと押した。


「……これ、土じゃないですよね」


「土だよ。でも、普通の土じゃない」


「押したあとで戻ってきます。こんなの、見たことないです」


 確かに、地面は生き物のようにわずかに形を変えている。

踏んだ記録が遅れて反映されるのではなく、“踏んだことを世界が考え直している”ような感覚。


 胸の奥の欠片が、静かに脈打つ。

その脈は、地面の揺らぎと同じリズムで響いていた。


(……境界の層が、ここまで出てきてる)


 神官長は地面を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。


「アステルの外縁では、地面の記録が不安定になる。踏まれたという事実が、世界の中で“確定しない”のだ」


「確定しない……?」


「そうだ。存在の記録が弱いと、世界はその事実を何度も書き直す」


 リーナはその説明を飲み込みながら、地面をもう一度押した。

押した瞬間は硬いのに、離すと柔らかく戻る。

その“戻り方”が、場所によって微妙に違う。


「……場所によって戻り方が違います」


「層が均一じゃないんだ」


 歩き出すと、今度は空気の“透明度”が変わった。

前方の空気が、少しだけ濁って見える。

霧ではない。

色がついているわけでもない。


 ただ、空気の“透明さ”が場所によって違う。


 リーナはその濁りに気づき、目を細めた。


「……空気が濁ってます」


「濁ってるように見えるだけだ。層が重なってる」


「重なってる?」


「空気の記録が二重になっている。どちらが正しいか、世界が決められないんだ」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、濁った空気の揺らぎに合わせて強くなる。


(……アステルの境界が、もう目の前だ)


 そのときだった。


 道の左側で、景色がふっと“薄く”なった。

木々の輪郭が一瞬だけ透け、向こう側の景色が重なって見える。


 リーナは驚いて立ち止まった。


「……今、木が透けましたよね?」


「透けたな」


「え、そんなこと……あり得ます?」


「あり得ない。だが、記録が弱い場所では、輪郭が一瞬だけ消える」


 木はすぐに元の濃さに戻ったが、その一瞬の透けが、道の空気をさらに不安定にした。


 リーナは木々を見つめながら、少し震えた声で言った。


「……これ、街の入口なんですか?」


「入口ではない。まだ外縁だ。だが、ここから先は“記録の薄れ”が強くなる」


「薄れ……」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、さっきよりも深い。


 歩き続けると、今度は音の“高さ”が変わった。

足音が、いつもより少し高い。

地面を踏む音が、まるで別の素材を踏んでいるように響く。


 リーナはその高さに気づき、耳を澄ませた。


「……足音、変わってます」


「変わってるな」


「地面は同じなのに、音だけ違う……」


「音の記録が別の層を拾っているんだ」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、音の高さの揺らぎに合わせて響いている。


(……もうすぐ、境界を越える)


 そのとき、前方の空気がふっと“盛り上がった”。

風ではない。

温度の変化でもない。


 空気そのものが、地面から押し上げられたように膨らんだ。


 リーナは息を呑んだ。


「……空気が、盛り上がってます」


「層が押し返しているんだ。ここが、アステルの外縁の“縁”だ」


 胸の奥の欠片が、強く脈打った。

その響きは、これまでで一番はっきりしていた。


(……境界に触れた)


 空気はまだ揺れている。

地面も、影も、音も、透明度も、すべてが少しずつ乱れている。


 世界が、静かに“アステルの入口を開こうとしている”気配があった。


 空気が盛り上がった場所を越えると、道の先に“揺れの帯”のようなものが現れた。

目には見えないはずなのに、そこだけ空気がわずかに波打っている。

風ではない、温度の変化でもない。

ただ、世界の膜が薄くなり、内側の何かが外へ滲み出しているような揺れだった。


 リーナはその揺れに気づき、歩みを止めて目を凝らした。


「……あれ、見えます?」


「見える。空気が……揺れてる」


「水みたいに波になってます。こんなの、初めて見ました」


 揺れは一定ではなく、ゆっくりと形を変えている。

近づくほど、揺れの帯がこちらを“認識している”ような気配があった。


 胸の奥の欠片が、深く脈打つ。

その脈は、揺れの帯と同じリズムで響いている。


(……境界の膜だ)


 神官長は揺れの帯を見つめ、静かに言った。


「ここから先は、世界の層が重なり合う。アステルの外縁は、存在の境界が最も不安定になる場所だ」


「不安定って……どれくらいですか?」


「形が保てなくなるほどだ。物の輪郭も、音の位置も、空気の厚みも、すべてが揺らぐ」


 リーナは揺れの帯を見ながら、少しだけ息を呑んだ。


「……これ、触ったらどうなるんですか?」


「触れた瞬間、世界の層が反応する。拒むこともあれば、受け入れることもある」


「拒む……?」


「存在の記録が弱い場所では、世界が“誰を通すか”選ぶことがある」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、さっきよりも強い。


(……俺は通される)


 歩き出すと、揺れの帯の手前で空気が急に冷たくなった。

冷気ではない。

温度が下がったわけでもない。


 “空気の密度が変わった”のだ。


 リーナはその密度の変化に気づき、肩をすくめた。


「……寒くないのに、冷たいです」


「密度が変わったんだ。層が重なってる」


「重なってるって、どういうことですか?」


「空気が二つの層を同時に持っている。どちらが正しいか、世界が決められないんだ」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、冷たい密度の揺らぎに合わせて響いている。


 そのときだった。


 揺れの帯の奥で、景色がふっと“反転”した。

木々の影が上に伸び、空の色が一瞬だけ地面に落ちた。


 リーナは驚いて声を上げた。


「……今、景色が逆になりました!」


「反転したな」


「え、そんなこと……あり得ます?」


「あり得ない。だが、境界の縁では、記録が一瞬だけ逆転することがある」


 景色はすぐに元に戻ったが、その一瞬の反転が、道の空気をさらに不安定にした。


 リーナは景色を見つめながら、震えた声で言った。


「……これ、本当に街の入口なんですか?」


「入口ではない。まだ境界の縁だ。だが、ここから先は“記録の反転”が増える」


「反転……」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、さっきよりも深い。


 歩き続けると、今度は音が“二重”に聞こえた。

足音が、少し遅れてもう一度響く。

自分の声も、リーナの声も、神官長の声も、すべてが二度鳴る。


 リーナはその二重の音に気づき、耳を押さえた。


「……声が二回聞こえます」


「記録が二つあるんだ。どちらが本物か、世界が決められない」


「じゃあ、どっちが本物なんですか?」


「どちらも本物だ。だが、どちらも不完全だ」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、二重の音の揺らぎに合わせて響いている。


(……境界が開き始めている)


 そのとき、揺れの帯がふっと“広がった”。

空気が左右に押し分けられ、道の先に、薄い光の層が現れた。


 リーナは息を呑んだ。


「……光が出てきました」


「層の裂け目だ。アステルの入口が、少しだけ開いた」


 胸の奥の欠片が、強く脈打った。

その響きは、これまでで一番はっきりしていた。


(……ここを越える)


 空気はまだ揺れている。

景色も、音も、影も、層も、すべてが少しずつ乱れている。


 世界が、静かに“アステルへ続く道を示し始めている”気配があった。

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