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『異世界に転移したら、俺だけ世界設定に存在しなかった』  作者: 一ノ瀬 律
六章

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第128話 境界の手前で揺れるもの

 東へ進むにつれて、道の雰囲気がまた変わった。

さっきまで色のまだらだった地面は、今度は妙に“静かすぎる”。

風が吹いていないのはいつも通りだが、空気がまるで音を吸い込んでいるようで、足音さえも自分の耳に届く前に薄まってしまう。


 リーナは歩きながら、何度も振り返った。

誰もいないのに、背後の空気がわずかに沈むような気配がある。


「……後ろ、なんか変じゃないですか?」


「変というより……重いな。空気の“厚み”がさっきと違う」


「厚み……?」


 リーナはその言葉を繰り返し、背後の空気を手で探るようにゆっくり振り返った。


「なんか……押されてる感じがします。誰もいないのに、後ろから空気が寄ってくるというか」


 確かに、背後の空気が少しだけ密度を増している。

風ではない。

温度でもない。


 “空気の位置が詰まっている”ような感覚。


 胸の奥の欠片が、静かに脈打つ。

その脈は、さっきまでの反応とは違い、深いところでゆっくりと波を作っているようだった。


(……境界が近いのか)


 アステルの影響が、道の空気にまで及んでいる。

まだ街は見えないのに、世界の層が確実に変わり始めている。


 神官長は立ち止まり、背後の空気をじっと見つめた。


「この辺りから、“境界の揺らぎ”が始まる。アステルの外縁は、存在の境界が曖昧になる場所だ」


「境界って……何の境界ですか?」


「自分と世界の境界だ。輪郭が弱くなると、空気が“自分の形に寄ってくる”ように感じる」


 リーナは少しだけ肩をすくめた。


「……それって、危ないんですか?」


「危険ではない。ただ、慣れていないと不安になるだろう」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、まるで“進め”と言っているようだった。


 歩き出すと、今度は視界の端が妙に揺れた。

正面は普通なのに、左右の景色がわずかに遅れてついてくる。


 リーナはその揺れに気づき、目を細めた。


「……なんか、視界の端が遅れてません?」


「遅れてるな。世界の層が均一じゃない」


「均一じゃないって……どういうことですか?」


「場所によって、存在の密度が違う。濃い場所と薄い場所が、まだらに混ざってる」


 リーナは周囲を見渡しながら、ゆっくりと息を吐いた。


「……アステルって、ほんとに普通の街だったんですか?」


「普通だった。ただ、記録が途切れたことで、世界がその街を“どう扱うか”迷っている」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、さっきよりも強い。


(……迷っている)


 世界が迷うなんて、そんなことが本当にあるのだろうか。


 けれど、この道の揺らぎを見ていると、それが現実なのだと理解できてしまう。


 そのときだった。


 前方の空気が、ふっと“薄く”なった。

色が抜けたわけではない。

ただ、空気の存在感が一瞬だけ消えた。


 リーナは驚いて立ち止まった。


「……今、前の空気、なくなりましたよね?」


「なくなったというより……層が一瞬だけ途切れたんだと思う」


 神官長はその変化を見て、静かに言った。


「アステルの外縁は、こういう現象が増える。存在の層が途切れると、空気が“そこにいない”ように感じる」


「空気が……いない?」


「そうだ。世界の記録が弱い場所では、空気の存在すら一瞬だけ消える」


 リーナはその説明を聞いて、少しだけ震えた声で言った。


「……そんな場所、ほんとに行くんですか?」


「行かねばならない。向こう側の世界が示した以上、アステルの傷を修復する必要がある」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、まるで“急げ”と言っているようだった。


 リーナは周囲を見渡しながら、ぽつりと言った。


「……なんか、道が“呼吸してる”みたいですね」


「呼吸というより……世界が“自分の形を探している”んだと思う」


 リーナはその言葉をゆっくり飲み込み、少しだけ歩幅を合わせてきた。


「でも、カイさんがいるなら大丈夫です」


 その言葉は、揺れる空気の中で、妙に心強く響いた。


 胸の奥の欠片が、最後にひとつ脈打った。


(……進む)


 空気はまだ揺れている。

視界の端も、地面の色も、音の位置も、すべてが少しずつ変わり続けている。


 世界が、静かに“境界を緩め始めている”ようだった。


 境界が緩み始めたその場所を越えると、空気の質がまた変わった。

今度は、道の上に“薄い膜”のようなものが張られている。


 目には見えないのに、歩くたびに足がわずかに引っかかる。

まるで、世界がこちらの進行を確かめているような抵抗だった。


 リーナはその抵抗に気づき、足を止めて自分の靴を見下ろした。


「……今、足が止められましたよね?」


「止められたというより……押し返された感じだな」


「押し返された……? 何にですか?」


 リーナは足元の空気を手で探るように触れた。

何もないはずなのに、手のひらにわずかな“重さ”が乗る。


「……空気、重いです」


「空気じゃない。層だ」


 神官長はゆっくりと歩み寄り、道の上を見つめた。


「アステルの外縁では、存在の層が“段差”のように現れることがある。世界が形を保てず、層が重なったり剥がれたりする」


「段差……」


「そうだ。見えないが、確かにそこにある」


 胸の奥の欠片が、深く脈打った。

その脈は、層の段差と同じリズムで響いているようだった。


 歩き出すと、今度は視界の“奥行き”が変わった。

遠くの木々が、近づいたり遠ざかったりしている。

位置が変わっているわけではない。

ただ、距離の感覚が揺れている。


 リーナはその揺れに気づき、目を細めた。


「……木が、近づいたり遠ざかったりしてます」


「してるように見えるだけだ。距離の記録が弱い」


「距離の記録……?」


「世界は、物の位置を“記録”している。その記録が弱いと、距離が揺れる」


 リーナは木々をじっと見つめた。

木は確かにそこにあるのに、見ていると、少しずつ“別の場所に移動したように”感じられる。


「……気持ち悪いですね」


「普通の反応だ。初めて見ると誰でもそうなる」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、距離の揺らぎに合わせて強くなる。


(……アステルの境界が、もうすぐそこだ)


そのときだった。


 道の右側で、影がふっと“浮いた”。

地面から離れたわけではない。

ただ、影の輪郭が一瞬だけ地面とずれた。


 リーナは驚いて影を指さした。


「……影が、ずれました!」


「ずれたな」


「影って、地面にくっついてるものじゃないんですか?」


「本来はそうだ。だが、存在の層が弱い場所では、影の記録が本体と一致しなくなる」


 影はすぐに元の位置に戻ったが、その一瞬のずれが、道の空気をさらに不安定にした。


 リーナは影を見つめながら、少し震えた声で言った。


「……こんな場所、ほんとに街なんですか?」


「街だった。だが、記録が途切れたことで、世界がその街を“どう扱うか”迷っている」


「迷ってる……」


 胸の奥の欠片が、また脈打つ。

その脈は、さっきよりも強い。


 歩き続けると、今度は空気の“厚み”が左右で違うことに気づいた。

右側は重く、左側は軽い。

同じ道の上なのに、空気の密度がまったく違う。


リーナは左右の空気を手で触れながら、困ったように言った。


「……右は重くて、左は軽いです」


「層がずれているんだ。アステルの外縁では、層が左右で別の記録を持つことがある」


「別の記録……?」


「右は過去の層、左は現在の層だろう」


 リーナはその説明を聞いて、息を呑んだ。


「……過去と現在が、同じ場所にあるってことですか?」


「そうだ。記録が途切れた場所では、こういう現象が起きる」


 胸の奥の欠片が、深く脈打った。

その脈は、過去と現在の層の揺らぎに合わせて響いている。


(……もうすぐだ)


 そのとき、前方の空気がふっと“沈んだ”。

沈んだというより、空気の層が一瞬だけ地面に吸い込まれたような感覚。


 リーナは息を呑んだ。


「……空気が落ちました」


「落ちたな。層が一瞬だけ崩れた」


「崩れるって……そんなことあるんですか?」


「アステルの外縁では、よくあることだ」


 胸の奥の欠片が、強く脈打った。

その響きは、これまでで一番はっきりしていた。


(……境界を越える)


 空気はまだ揺れている。

影も、距離も、音も、層も、すべてが少しずつ乱れている。


 世界が、静かに“次の段階へ移ろうとしている”気配があった。

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